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喜多方市、湯川村

(この喜多方市は旧熱塩加納村、旧山都町、旧高郷村と平成18年1月4日に合併して喜多方市になりました。)

喜多方市

会津若松市の北20キロほどの場所にあり蔵とラーメンの町として有名である。もともと北方町であったのを市制に改めるにあたり喜多方市にしたという。

坂内食堂

ラーメンは全国にその名が知れており太いちぢれ麺を各店舗独特のスープでその美味さを競っている。「老麺会」という暖簾が目印になっているがこの会員でない店でも美味い店がある。ラーメンは旅行のガイドマップに詳しいからあえて書くこともあるまい。

喜多方の蔵について我が家はかなり勉強した方であろうと思う。街中にも座敷蔵がかなり残っており一般に公開されているところも多い。蔵の中に入るとうそのように外の暑さがを感じさせない独特の涼しさがある。

街中の蔵は商屋のそれであるが、喜多方の蔵を本当の意味で楽しむには市内の北西にある押切川を渡っレンガの蔵造りた三宮地区の蔵の集落と市街の北西、旧米沢街道沿いにある杉山集落の蔵と三津谷地区のレンガ造りの蔵が見事である。

喜多方の蔵は数の多さももちろんであるが、蔵から屋根にかけての湾曲(蛇腹という)が多彩で見事である。さらに下三宮地区においては、蔵の表面に彫られた唐草文様や鳥などのコテ絵で当時の左官の腕前を見ることができる。

杉山地区は街中のもののような豪華さはない実用的な農家の蔵である。ここは藩政時代から薪炭等の供給地だったらしく男が一人前になると努力して蔵を建てたらしい。他の地区と違い住民が勝ち組、負け組に分かれておらず、すべての家が蔵を持っている点が重要である。この地区のリーダーと住民が一体となってこのような共同体を作ったという。飾りが少ない実用本位の蔵であるが、そのことの方が私にとってはすばらしい集落に思えた。

蔵自体の魅力とは少し異なるが、先ほど紹介した、下三宮地区で1軒だけ田んぼの中に建っている蔵を紹介しておこう。現在は「しぐれ亭」という割烹になっている。その蔵は他のものと異なる様式を持っており内部は書院造りのような優雅なものである。紹介したいのはこの蔵自体ではなくここで出される「ニシン飯」である。家族で喜多方市主催の「蔵めぐり」に参加していたときこれを食べた子供達があまりの美味しさに「美味しいね。家でも作れるかな。」と妻に催促していた。その夜、我家は早速このニシン飯にチャレンジしたことは言うまでもない。そして我家の定番料理になった。

この蔵のある上三宮地区に「会津大仏」と呼ばれている2.5メートル程もある大きな仏像がある。願成寺の本尊である阿弥陀如来である。向かって右に観音部薩、左に勢至菩薩を従えている。国の」重要文化財であるため通常はガラスで仕切られた部屋に収められている。ところが私は2回、家族は1回中に入って阿弥陀如来の真下で拝観する機会を得た。背後には数百の小さな仏像が来光として配置されているがその下の部分の小さな仏像は戦争に出征するときにお守りに持っていったとのことでかなりなくなっている。子供達にとって国宝級の仏像の放つ風格と、歴史の持つ重みを直接実感できたのは何よりの体験であった。

ちなみにこのように阿弥陀如来が右に観音、左に勢至菩薩を従えるのは死んだ人を迎えに来る姿を現している「来迎仏」というものらしい。鎌倉時代の作と伝えられている。

新宮熊野神社長床

新宮熊野神社の長床

新宮熊野神社長床は喜多方市内の南西の会津坂下町に向かう途中にある。ここを初めて訪れたときこの荘厳さに私はビックリして声を失ったことを覚えている。その日は少し雨が降っており、高い杉並木を100メートほど歩くと一段高い石組の上に100坪ほどの広々した長床があり、44本の大きな柱が立ち四方が吹き抜けになっている。長床には自由にあがることができる。

長床とは山伏の道場のことであるが、平安時代の貴族の住宅である書院造りの様式を踏襲しているらしい。仏教の盛んな会津の素朴な寺院が多い中でこの長床はどの様式とも異なるもので一見の価値はある。

晩秋に訪れることを薦める。長床の前にある大きなイチョウの木の葉が落ちて黄金の絨毯ができる。雨にけむる早朝に訪れると山伏がほら貝を持って現れそうな本場熊野はさもありなんというような気持ちがしてくる。

湯川村

この村は会津若松市と喜多方との間の小さな村である。

会津仏教の祖といわれる徳一上人により建立されたという「勝常寺」のある、会津仏教の中心地であった。会津で住み始めた初夏に家族そろってサイクリングをしながら訪ねた。飯盛山の家から10キロほど会津盆地の田んぼの中をペダルをこいだ。右手に会津磐梯山を仰ぎながら、田んぼの中を走ると雉が現れ、カワセミが小川を飛びぬけていった。

小さな集落の中にある勝常寺の境内はそれほど広いものではないが正面の薬師堂は床の高い回り廊下を持つ立派なものである。薬師堂の右側にはこの寺の重要文化財を保管するセメント造りの収蔵館がある。勝常寺は807年、伝教大師(最澄)の論敵として知られる法相宗の徳一上人によって開かれた会津のみならず東北を代表する古刹である。創立された当時は七堂伽藍が備わり、多くの附属屋、十二の坊舎、百余ヵ寺の子院を有する一大寺院であったと伝えられている。現在残されている建物は元講堂(薬師堂)、本坊(客殿)、庫裏、中門等で仏像も三十余躯ある。
 国宝薬師三尊(薬師如来、日光・月光菩薩)をはじめ国重要文化財の指定をうけた仏像9体をもつ。拝観時間が制限されているため注意が必要である。(拝観時間 4月1日から11月中旬 午前9時から午後4時休館火曜日2005.1.2日追加)。

本堂である薬師堂の左側には会津を空襲から守ったとされるアメリカ人をたたえる記念碑が建っている。

太平洋戦争においてアメリカ軍は京都や奈良、平泉等とともに日本文化を守るためにこの会津も空襲の対象からはずした。それがゆえに会津は米軍の空襲を受けることがなく多くの仏教の貴重な仏像が残ったあのである。残念ながら彼の名前は失念してしまった。後にそれが東洋美術史家ランドン・ウオーナー博士と言う人物で土井晩翠がそれをたたえた詩碑が建っている。
「一千余年閲(けみ)したる 仏像の数十三を 伝へ来りし勝常寺 尊き国の宝なり 秋のけしきの深みゆく 会津郊外勝常寺 仏縁ありて詣できて 十三像を拝みぬ」(2005.1.2追加)

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