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会津見て歩記(会津若松市以外の近隣の町編)

「会津若松市」を紹介した第1篇を終えて近隣の町の紹介に入る。

猪苗代町

猪苗代町といえばまず猪苗代湖である。

この湖は大同元年(806年)の磐梯山の大噴火により川がせき止められてできたといわれている。空海や最澄の時代で数年前に坂上田村麻呂が大軍を率いて陸奥の蝦夷征伐にやってきた時代である。

猪苗代湖は日本で四番目に大きな湖で、時化たり凪いだりととてもその大きさは湖には思えない。標高が約515メートル程で会津若松市より約300メートル程高い位置にある。それにこの湖は長瀬川から流れ込むPH5以下の強い酸性の水により、弱酸性の性質を持っており、これだけ大きな湖にしてはほとんど漁業が行われていない。

猪苗代湖は猪苗代町と会津若松市、郡山市の三つの自治体に属している。湖の北側は猪苗代町、西岸は会津若松市、東岸と南岸は郡山市になっている。ところが湖の境界の確定ができずにいたが平成11年の春にやっと境界確定の合意ができた。湖の境界の合意によって国から交付される地方交付税は湖の環境維持の為に特別管理される事になるものらしい。

国道49号線または高速磐越自動車道を郡山方面から中山峠のトンネルを抜けると、そこから会津である。磐梯山すると正面に日本百名山のひとつ会津の名峰磐梯山(1819メートル)が雄大な姿を見せてくる。その裾野はゆったりと広がり会津のシンボルとして存在感を示している。中腹には多くのスキー場があり磐梯山を虫食い状態にしているといえなくもない。冬はスキーのメッカである.

この山は会津の人は必ず一度は登る山である。我が家も磐梯町と裏磐梯とを結ぶ有料道路「ゴールドライン」の峠から2時間30分ほどかけて登った。登り始めて2時間ほどで広い場所に出る。そこは後に書く裏磐梯の噴火した火口の頂上の部分にあたるところで、私たちが訪れた7月の初めは色とりどりの花で埋め尽くされていた。磐梯山に前の週に登った友人から「今の時期に登ると思わぬプレゼントがあるよ。」と言われていたがこのお花畑のことであった。お花畑のすぐ上の山小屋には山頂近くであるにもかかわらず泉が湧いている。それから30分ほどで頂上に至る。その日は快晴で360度パノラマが開けていた。北西には飯豊連峰、西には安達太良山、南側の眼下には大きな猪苗代湖、北側には桧原湖、小野川湖、秋元湖など裏磐梯の湖が輝いていた。

湖畔には志田浜水泳場をはじめ多くの湖水浴場があり夏場は多くの人達でにぎわい、「猪苗代湖畔駅」というJRの臨時停車駅までできる。この「水泳場」という言葉は会津に来てはじめて目にした。なぜか微笑んでしまう。

猪苗代湖畔の平野は冬、地吹雪で1メートル先も見えなくなることも珍しくない。会津に転勤した直後に東京に出張があり帰りの電車が吹雪で動かず、バスに乗り換えたがそのバスも吹雪のため磐梯熱海から山中峠の間で4時間以上身動きとれずに会津まで帰れないことがあった。

野口英世が火傷をした生家のイロリ磐梯山の正面にある「野口英世博士」の生家が一番の観光名所となっている。ここで生まれ、子供のとき囲炉裏に手を突っ込んで、手の指がつながってしまう大火傷を負った。大きくなり手術により指を治し、その後、医者になるのを志し、努力を積んでアメリカのロックフェラー研究所の研究員になる。性病や黄熱病の研究などに業績を残し、1928年(昭和3年)西アフリカで殉職した。そしてその年、博士の遺徳遺業の顕彰と生家の保存を目的として「野口英世博士記念会」が発足し昭和13年には財団法人になり翌14年に「野口英世記念館」が開館した。

館内には博士の偉業が余すところなく紹介されて、十分に満足できるものである。その中でも母親「シカ」がアメリカにいる博士の帰国を願うたどたどしい手紙が涙を誘う。子供達と一緒にこの手紙の前で一字ずつ追いながら全文を読んだことがある。母親のあふれるほどの愛がそこに詰まっている。これを読むだけでこの会館に入った価値はあると思う。

会館を抜けると生家がそのままの形で保存され、火傷をした囲炉裏や上京するときに「志ならずんば再びこの地を踏まず。」という決意を刻んだ柱もある。

博士の遺業は語るもがなであろう。平成11年の夏に鹿児島の母が初めて会津を訪れ、ここに連れて来たとき、私達の後ろを歩いていた大学生と思われるグループの男性が「野口英世って業績が偉大過ぎて会津の生まれであるという意識はなかった。」と口にしているのを聞いた。私達はやたらと出身地に結びつけようとするが彼の遺業は彼らの言葉にあるようにグローバルなものだったのである。そういえばニューヨークにある博士の墓碑銘は「Through devotion to science. He live and died for humanity.」(博士は科学への献身により、人類のために生き人類のために死せり)とあるという。

野口記念館の前には「世界のガラス館」とどこの観光地に行ってもある「地ビール館」があり観光客でにぎわっている。

天鏡閣

野口記念館から49号線を2キロほど会津若松方面に走ると遊覧船の発着場のあるにぎやかな場所に出る。亀と鯨の遊覧船の傍をモーターボートやジェットボートで爆音をばらまきながら我が物顔で走り抜ける、湖の観光地にありがちな光景がここにもある。ここは「翁島」と呼ばれる場所で向かいにある島の名前に由来する。

その昔、やつれた一人の旅のお坊さんがこの村にたどり着き、水を一口恵んでほしいと求めた。しかし、この年干ばつで水が不足していたため誰一人かまおうとしなかった。ただ、「おきな」という娘がこのお坊さんを大切にもてなした。その翌日突然磐梯山が噴火を起こし、一夜にして猪苗代湖ができ多くの村が湖底に沈んでしまったが、この娘の住むところだけが盛り上がり、この娘だけが助かった。この坊さんは弘法大師でありその盛り上がったのが翁島であるという。旧約聖書のノアの方舟に似た話である.それにしても何処の神も仏も自分に意を向けるものには慈悲深いが、さもあらざる者には冷酷である。天鏡閣

この場所から少し山に入ると「天鏡閣」という皇室の別荘だった建物がある。明治41年、有栖川宮威仁(アリスガワノミヤタケヒト)親王の別荘として建てられた洋館で、平成10年に化粧直しが行われた。ルネッサンス風建築の優雅なたたずまいと贅を凝らした目を見張るような調度品は皇室の生活の華麗さを実感させてくれる。以前は猪苗代湖が一望できたらしい。

猪苗代湖は一周することができる。湖の西岸、会津若松市側は湖水浴場とヨットとボートのハーバーが多い。朝夕は磐梯山を前にした静かな浜辺であるが土日はボートが我が物顔で走り回る落ち着きのないリゾートである。

湖の南側は郡山市でその名も湖南地区である。ここの青松浜(セイショウガハマ)が磐梯山を猪苗代湖越しに見える絶景の地である。もともと有栖川宮威仁(アリスガワノミヤタケヒト)親王の保養地として整備され、その後高松宮家に移り昭和27年に福島県に下賜されたものである。さすがに皇族はすばらしい所に目をつけたものである。

私たちが家族で訪れたときこの浜の木々にはミツバアケビが紫色の実をたくさんつけていた。

ここから見る磐梯山は写真で紹介される表磐梯の代表的な場所であろう。写真で見るアングルであるが、ただ少し遠すぎて磐梯山の威容がそがれている様にも思える。猪苗代の町から見上げる磐梯山は見上げるという感じで少しエレガントさにかけ大きすぎるきらいがあるが、ここからは少し小さすぎるように思えるのである。

猪苗代の街中

猪苗代には会津若松の鶴ヶ城と対になる亀ヶ城があった。今ではその城跡が残るのみである。

街の裏山が磐梯山なのであるが、その山際に「土津(ハニツ)神社」が建っている。これは会津松平藩の祖「保科正之公」が葬られている。保科正之公は徳川2代将軍秀頼公の子で3代将軍家光公の異母兄弟になる。亀石

この神社境内に入ると大きな亀石が目をひく。7メートルはあろうかという大きな亀の形をした石の上に一辺2メートル弱もあり、高さが5メートル程もある保科正之公の生い立ちと功績が漢文で書かれている。会津にある神式の松平家の墓の中で最大のものである。この亀石は猪苗代湖を後ろにして正行公の墓に向いている。この亀石については言伝えがある。もともとこの亀石は猪苗代湖の方を向いていた。ところがこの亀石は夜な夜な動いて猪苗代湖まで遊びにいっていた。その亀石が這いずって行った痕が見つかり、亀を山に向けたらそれ以後この亀石が徘徊することはなくなったという。


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