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下郷町、旧田島町、桧枝岐村(尾瀬)

下郷町

この町は会津若松市の南隣の町である。会津盆地を南下する日光に続く国道121号線は阿賀川沿いの渓谷地に入り会津若松の東山温泉と並ぶ奥座敷芦ノ牧温泉を抜けると南会津郡下郷町である。塔のへつり

この町は阿賀川が長い歳月の間に大地を深くえぐってできた町である。川は深い谷の底にあり、独特な景観を造っている。その中でも「塔のへつり」が有名である。川によってえぐられくぼんだ奇岩はまるで中国の仏塔がいくつも林立しているように見える。ここは岩が白っぽいため川の深い緑や周囲の草木とのコントラストが見事であり。紅葉の季節には白い岩肌と紅葉がすばらしい。この川の上を第三セクターの会津鉄道が走っているが、季節になると運転手が鉄橋の上でスピードを落とし少しだけではあるが景観を楽しませてくれる。この「へつり」を広辞苑で引くと「東日本で、山中の岨道(ソバミチ)、絶壁や川岸などの険岨な路などをいう。福島県会津に「塔のへつり」という名勝がある。」とある

塔のへつりから少し会津若松よりに戻ると30軒ほどの宿が軒を並べる湯野上温泉がある。この温泉の名物はなんといっても会津鉄道「湯野上温泉駅」であろうか。国道沿いの桜並木の下にある藁葺き屋根を持つ駅舎がある。切り立った茅葺の屋根は重々しく歴史を感じさせる。古の会津があるといった方がいいのかもしれない。特に桜の季節の夕暮れに訪れることを薦める。駅舎をしめす灯篭と桜のコントラストが幽玄の世界に導いてくれる。

この湯野上温泉の入り口にある橋の手前を山側に右折して6キロも入るとそこが「大内宿」である。

 会津若松から栃木県今市に抜けるかっての西会津街道の宿場町として栄えた。会津藩主の参勤交代もこの宿場を利用して行われたが、白川街道が開かれてからはこの街道が使われることはなくなった。

2百メートルほどのなだらかな坂道の両脇に水路が掘られておりビールやらラムネなどを冷やしている。水路から5メートルほど奥まったところにきれいに町並みが保存されている。これらはほとんどが藁葺き屋根の民家である。店には会津の伝統の産物やこの村で取れた豆やつきたての栃もち、奥様方の手作りの小物やリースが売られている。

大内宿町並みの奥まったところにある山形屋さんは馬小屋や風呂場など江戸時代の風情をそのままに残している。会津にきて初めてここを2人の息子達を連れてやってきたとき次男Kがこの軒先で突然歯が一本抜けたのである。それを見ていたこの屋のご主人が「上の歯が抜けたのなら、家の床下に入れておけばいいよ。」と笑いながら声をかけてくれた。私たちはお言葉に甘えて山形屋の床下に次男Kの子供の歯を投げ入れてきた。そして山形屋は我が家にとって特別な場所になったのである。それから妻と真冬を除いて年に何度もここを訪れ、いろんなふれあいがあった。妻の秋田の両親を山形屋さんに連れて行ったときにこの話をしたらご主人は覚えていていただいた。

この大内宿の名物といえばこの宿場の入り口にある三沢屋さんのネギ1本で箸代わりと薬味にして食べる蕎麦と「ジュウネン味噌」であろう。十年ごまの味噌であるが、ここのお味噌は田楽を作るときに使うと香ばしい独特の香りが美味しさをひときは引き立ててくれる。

田島町

会津を出て121号線を南下し下郷町を抜けると田島町に至る。この町は栃木県塩原町に隣接しており関東の人たちにとって会津高原という呼び名の方が通りがいいかもしれない。浅草から3時間東武鬼怒川線で来ることができる一番近い会津である。

このあたりは藩政時代、幕府の直轄地で「南山お蔵入り」と呼ばれて会津若松とは異なる歴史と文化を持っている。ただ、会津にいた2年9ヶ月の中で会津若松の歴史の検証はしてきたがお蔵入りの歴史の検証までは手が回らなかった。その中でも祇園祭は800年も前から続いているお祭りで国の重要無形文化財にも指定されており振袖に角隠しという花嫁衣裳に身を包んだ行列が続く「七行器(ナナホカイ)行列」がおこなわれる。その様子は「会津田島祇園会館」で立体模型やジオラマを使って紹介されている。

私達は平成9年に会津にやってきて早速フリーマーケットに参加した。私たちが古着を売っていたブースの側のお茶屋さんでふたにカエルが付け勝三窯万古焼られその握りに小さなさいころが入れられてコロコロと鳴く不思議な万古焼の急須を見つけた。定価が1個2500円以上もするもので、店の人の話ではなかなか手に入らないものだという。

取引先の社長から田島の町から会津高原に向かって6キロほどの荒海という地区の郵便局の前にあるという話を聞き訪ねてみた。そこには万古焼「勝三窯」とかかれていた 。ガラス張りの工房には窓際に憧れのカエルのついた焼物が並べられていた。この窯の主であるおじいちゃんが出てきて福島県下の万古焼のことこのカエルのいわれ、この勝三焼のファンについて話してくれた。それから妻と何度となくここに通い、知り合いへのプレゼントや自家用にと使っている。ゴールデンウイークの前など関東の顧客からの注文で在庫がすくなるといっていた。ちなみに会津若松で買うより1000円は安い。私たちが立ち寄った時など関東ナンバ万古焼1ーの車から降り立った夫婦がやっと自分たちの好みのものを誰にも邪魔されずに十分に選ぶことができるという感じで「これもいいわね。」「これもいいよ。」といいながら買っていく姿が印象的だった。

万古焼は赤茶けた日本古来の庶民の焼き物である。ただここ勝三窯の焼き物は普通の万古焼よりも表面のつやがなく少し黒っぽく落ち着いた色合いが特色である。またカエルや葡萄の飾りをあしらったことにより万古焼の持つ古臭ささがなく、洋風の利用にもでき若者にも受け入れられるものである。会津高原に来たらぜひ立ち寄る価値のある場所である。

檜枝岐村

檜枝岐村は福島県の南西に位置し新潟県、群馬県、栃木県の3件に隣接した名の通り奥会津を代表する山奥の里である。

 私がこの村を訪れたのは尾瀬に関するカードの募集を尾瀬の山開きにジョイントさせてもらう提案のため桧枝岐役場と山小屋組合の責任者と協議をするため、私のアウトドアライフの一番の理解者でありアドバイザーである妻と共に訪れた。平成9年4月の末、春を向かえて木々の緑が萌え出でる頃であった。この頃会津若松市の鶴ヶ城は桜で満開だったのであるが、さすがにここ桧枝岐まで来ると里でも木々はまだ芽吹き始めたばかりで、その新緑は目に鮮やかであった。役場のある里から山道を20分ほど進むと尾瀬の入り口御池の駐車場にでた。ただそこは雪の世界であった。駐車場の周りの雪はやっと車を迎え入れるために除雪が行われたばかりで道の脇には3メートルもある雪の壁があった。

この年、御池のロッジが新装オープンされ、そこの責任者と打ち合わせのために背広できたが誠に場違いな格好であった。

帰りに役場の観光課長さんに教えてもらった蕎麦屋を訪ねて桧枝岐名物の裁蕎麦と「はっとう」を堪能した。このとき食べた「はっとう」がいまだに会津で一番美味しいものだと思っている。ちなみのこの「はっとう」はそば粉を平たく伸ばしてひし形に切り出し、湯に通したものに十年ゴマ等をかけて食べるものである。このソバがあるため普通のそばを(タチ)ソバといっている。その昔ここの殿様がこれを食べてあまりに美味しかったので、村人にこれを食べることを禁じた「ご法度」からきているという。ちなみに美味しいソバは他にもあるのかもしれないが、私と妻は民宿「やまびこ山荘」のソバが好きである。

それにつけてもこの村は「星さん」という苗字が多い。まず訪ねた役場の観光課長も御池ロッジのマネージャーも木工品展示場の責任者もみな星さんで、観光課長さんは私に名前で教えてくれた。この村は星さんという名前のほかに橘さんという名前も多く、妻によると発音は会津のそれとは異なるという。

六地蔵

役場を過ぎるとそこに六体の石の地蔵様がある。その昔、貧しかったこの村では飢饉のときに口減らしのために間引きが行われていた。この子らの霊をともらい、母親の嘆きを慰めるために作られたものだという。

その先に国の重要有形民族文化財に指定されている「桧枝岐歌舞伎舞台」がある。5月、8月、9月に各1日村の有志の花駒座により200年以上受けつかれている農民歌舞伎が上演される。平成11年に歌舞伎上演の最中に舞台の屋根裏から火が出て屋根を燃やしてしまったがその後すくに復元された

尾瀬

桧枝岐は福島からの尾瀬への入り口である。御池の路地の駐車場から9キロほど進むと沼沢峠があり1時間ほどで尾瀬沼に出ることができる。尾瀬に入るには群馬の鳩待ち口ほどではないにしても楽なルートである。それゆえトップシーズンには歩くのが困難なほどごったがえすルートである。長蔵小屋

私たちは会津にいる間に一度だけ尾瀬に入る機会を得た。平成10年10月の末、妻の秋田の両親が、稲刈りが終わったのでぜひ尾瀬に連れて行ってほしいという希望で行くことになった。子供達が学校に出る土曜日だったため東山小学校の校門前で子供達を拾い出かけた。シーズンも終わりで沼山峠行きの交通規制もなく2時間30分走り、3時半に峠に着いた。73歳の義父と60代後半の母親は私達が会津に引っ越してきた日から会津の虜になり米作りの合間を見ては年に何回も訪ねてきて会津の町を楽しんでいたのである。

峠の茶屋の前で身支度を整え、15分ほど登るとすぐに尾瀬沼に降りる沼山峠につきそれから40分ほどで尾瀬沼に出る。行き交う人からは「三世代登山ですか。いいですね。」と声をかけられる。この日が今シーズン山小屋の宿泊できる最後の日ということもあり人もすくなく静かな晩秋の尾瀬を楽しむことができた。

尾瀬沼沿いに有名な長蔵小屋があるが私達は山沿いの国民宿舎尾瀬沼フュッテに泊まることになっていた。尾瀬の山小屋は数年前から排水による沼の富栄養化と自然保護のために山小屋はすべて予約制で料金も以前よりかなり高く7500円ほどになっていた。

私達の部屋は2階の端の部屋で尾瀬沼の北側にそびえる燧ケ岳(ヒウチガダケ)が正面に見える部屋であった。ところがこれから尾瀬に関して一般人と尾瀬を理解する人達の大きな意識の違いを認識させられるハプニングが続出することになる。お風呂に入ることになりほかに入浴している人がいる狭い浴場で親父様が突然「石鹸もない風呂なのか!」などと大きな声で言うため「お父さん、山ではお湯を使えるだけでありがたいので、尾瀬ではシャンプーは自然保護のために使えないのですよ。」と説明したが、周りのお客の視線が冷たかった。

又、夕食のために食堂のテーブルに自分達でハンバーグにサラダそれに味噌汁にご飯という食事を並べると「情けない食事だな」等というもので「山小屋でこれだけの食事をできるだけでありがたいことなのですよ。」といって理解してもらった。

我々にとっては山小屋で暖かい食事ができること自体がありがたいことなのだが、尾瀬を観光の場所と思い山小屋も普通の旅館と同じと思っている旅行者にとってはこのような感想になるのであろう。

翌朝6時には目を覚まし、食事を済ませ霜がおりた木道を歩き始めたのは7時少し過ぎた頃であった。東の山の端から登り始めた朝日が差す木道には、脇の草の陰が朝日により霜が融けずに形を残すふしぎな光景である。

尾瀬沼の北岸を燧ケ岳に向かって歩くと少しアップダウンはあるものの山歩きの初級者や高齢者にも比較的楽なコースである。1時間も歩くと尾瀬沼の水が唯一外に出る沼尻平に出る。そこから見上げる燧ケ岳は青い空に東北一の高さを誇っている。それから少しだけ山道を登るが一時すると尾瀬沼から流れ出る谷川の音を聞きながら尾瀬ヶ原の見晴らしまでひたすら下ることになる。わたくしが今回このルートを選んだのは老人にも山をほとんど登らずに尾瀬沼と尾瀬ケ原、そして三条の滝を楽しめるからであった。

木道と東北一のひうちが岳見晴らしは遠くに至仏山を背景とした湿原の中を木道が遠くに伸びていく写真で尾瀬のイメージとして一般に良く知られた場所である。長蔵小屋など多くの山小屋があり脇にはこのあたりで唯一許されたキャンプサイトがある。このキャンプサイトで持ってきたバーナーでお湯を沸かし、カップラーメンをスープにして山小屋で作ってもらったおにぎりで昼食とした。そしてコーヒーとお茶を入れ晩秋の優しい日差しを受けながらゆったりした尾瀬のひと時を楽しんだ。

1時間ほどやすんだ後、尾瀬ヶ原に向かって歩き始めすぐに右折して1キロほども歩くと大きな山小屋が窓に戸板をつけて屋根に布団を干し、山小屋を閉める準備をすすめていた。そこの山小屋で炭酸飲料を買い一休みして一つの決断を家族に伝えた。実は、沼山峠まで車で行ったため、それ取りに行くために御池のバスの時刻に間に合うように一人別の道をたどる必要があったのである。そこで長男に地図を渡し「これからおまえがリーダーになってみんなを三条の滝に連れて行き、御池まで連れてくるよう。」と指示をして一人燧ケ岳新道を歩き始めた。黙々とかなりきつい山道を誰にも会うことなく2時間ほど歩き御池に思ったより早く着いた。バスが檜枝岐村から上がってくるまで少し時間があったので国民宿舎御池ロッジのマネージャーを訪ねた。すると「ひさしぶり!O社の支店長さん。」と大きな声で現れた。1年半前の出会いを覚えていてくれた。先に書いた尾瀬の山開きのイベントのときに一度会っただけなのであるが、山開きの前日このロッジに派遣した会津若松支店のスタッフに私の自慢のスモークチキンを持たせて夕食のときに振る舞い好評を得たのである。これが翌日のカードの募集にもいい影響があり、山小屋のスタッフもかなり協力してくれたらしい。「あのときのスモークは美味かったですよ。」というので「あのイベントは私が一番来たかったのですが、来られずに残念でした。」と言うと笑っていた。その後、再会を約して沼山峠行きバスに乗った。

 沼山峠から車を御池におろして30分ほど待つと、山道から子供達と両親が疲れながらも嬉しそうな笑顔でおりてきた。

私と別れた後、長男は家族を地図を頼りに三条の滝に連れて行き、疲れて荷物を背負うのをぐずった弟のリュックを自ら背負い、三条の滝から40分ほどの急な登りも先頭にたって誘導してきたらしい。妻の話によると、この急坂を登りきったところでリーダーとしての緊張の糸が切れ「僕、もうリーダーはいいよね!」といったらしい。両親には「三条の滝で感激した後に尾瀬で一番急な場所があり、1時間は心臓がはじけそうな思いをする。」ということは尾瀬に入る前にわびておいた。それでも、この急坂とそれから後の2時間の山道はきつかったらしく、「最後の30分は涙が出そうだった。」と言っていた。とはいえこの旅は両親にとっては会津での一番の思い出になったらしく秋田に帰り老人会の会報に尾瀬紀行を書いて好評を得たらしい。いまだに尾瀬が「一番の冥土の土産」といっている。

あとがき

今、私は富士山、南アルプス、そして八ケ岳が見える甲府市のマンションでこれを書いている。

私の会津での2年9ヶ月の出会いを紹介した。プライベートタイムは意識的に会津中を走り回った。そしていろんな人に出会い話し掛け、いろんな話を聞かせてもらった。「会津の三泣き」といわれるように「会津のよさは人情である。」と聞かされていた。それは間違いない事実であると実感している。いろんな人との出会いが会津を私と我家にとって特別な場所にした。「会津若松市編」は歴史的な拘りが多かった。それは私が会津とは特別な関係にある薩摩の出身であることに起因していることは事実である。関係者はそのことを危惧しつつ私を会津に送り出した。
ただ、今ではこのことを心から感謝している。

最後に、この「会津見て歩記」二編を、私以上に会津を愛しており、これを監修してくれた会社の先輩伊藤氏と、我家を心より迎え入れてくれた会津の人たちにこれを捧げて終えることにする。


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