戻る 会津見て歩記
「萱野権兵衛」は藩主松平容保公が京都守護職にあった際、国家老として内政の責任を担い、戊辰戦争の終結に当たっては敗戦処理に際し藩主父子の助命嘆願に尽力した。その結果、「家老田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛」の三名が戦争責任者となったが、他の二人はすでに自刃していたので、一人首謀者として戦争の全責任を負って明治2年切腹した。 「郡長正」は会津藩家老・萱野権兵衛の次男として生まれましたが、父権兵衛が切腹したことから、家族は萱野姓を名乗ることが出来なくなり、母の姓「郡」を名を名乗った。 学問に秀でていた長正は14歳の時、選ばれて九州・小笠原藩の育徳館(福岡県豊津町)に留学していた。あるとき、長正には食事がひもじく、そのことを故郷の母につい手紙でひもじいことを訴えたところ「・・会津の武士の子が食物のことをあれこれいうのもではない・・このようなことをこんごいうのであれば萱野権兵衛の子ではありません。」という厳しいう返事が来た。ところがこの手紙を小笠原藩の子供立ちに見られてしまい辱めを受けた。 その直後の明治4年5月18日、長正16才の誕生日の日に行われた小笠原藩と会津藩の対抗試合が小笠原藩主の臨席のもと行われ、大将をつとめた長正は5人を破り、会津武士の意地をみせた。その後寮に戻った長正は先の辱めを注ぐべく、腹を切った。郡長生16歳。会津士魂を親子で実践したと称えれれる所以である。 萱野権兵衛の墓の正面には天寧寺の屋根の彼方に鶴ヶ城(若松城)が見えている 地図 会津見て歩記も参照願いたい。 |
2004年12月25日午前9時30分撮影