戻る会津見て歩記(会津若松市以外の近隣の町編)

「会津若松市」を紹介した第1篇を終えて近隣の町の紹介に入る。 

猪苗代町
猪苗代町といえばまず猪苗代湖である。

この湖は大同元年(806年)の磐梯山の大噴火により川がせき止められてできたといわれている。空海や最澄の時代で数年前に坂上田村麻呂が大軍を率いて陸奥の蝦夷征伐にやってきた時代である。

猪苗代湖は日本で四番目に大きな湖で、時化たり凪いだりととてもその大きさは湖には思えない。標高が約515メートル程で会津若松市より約300メートル程高い位置にある。それにこの湖は長瀬川から流れ込むPH5以下の強い酸性の水により、弱酸性の性質を持っており、これだけ大きな湖にしてはほとんど漁業が行われていない。

猪苗代湖は猪苗代町と会津若松市、郡山市の三つの自治体に属している。湖の北側は猪苗代町、西岸は会津若松市、東岸と南岸は郡山市になっている。ところが湖の境界の確定ができずにいたが平成11年の春にやっと境界確定の合意ができた。湖の境界の合意によって国から交付される地方交付税は湖の環境維持の為に特別管理される事になるものらしい。

国道49号線または高速磐越自動車道を郡山方面から中山峠のトンネルを抜けると、そこから会津である。磐梯山すると正面に日本百名山のひとつ会津の名峰磐梯山(1819メートル)が雄大な姿を見せてくる。その裾野はゆったりと広がり会津のシンボルとして存在感を示している。中腹には多くのスキー場があり磐梯山を虫食い状態にしているといえなくもない。冬はスキーのメッカである.

この山は会津の人は必ず一度は登る山である。我が家も磐梯町と裏磐梯とを結ぶ有料道路「ゴールドライン」の峠から2時間30分ほどかけて登った。登り始めて2時間ほどで広い場所に出る。そこは後に書く裏磐梯の噴火した火口の頂上の部分にあたるところで、私たちが訪れた7月の初めは色とりどりの花で埋め尽くされていた。磐梯山に前の週に登った友人から「今の時期に登ると思わぬプレゼントがあるよ。」と言われていたがこのお花畑のことであった。お花畑のすぐ上の山小屋には山頂近くであるにもかかわらず泉が湧いている。それから30分ほどで頂上に至る。その日は快晴で360度パノラマが開けていた。北西には飯豊連峰、西には安達太良山、南側の眼下には大きな猪苗代湖、北側には桧原湖、小野川湖、秋元湖など裏磐梯の湖が輝いていた。

湖畔には志田浜水泳場をはじめ多くの湖水浴場があり夏場は多くの人達でにぎわい、「猪苗代湖畔駅」というJRの臨時停車駅までできる。この「水泳場」という言葉は会津に来てはじめて目にした。なぜか微笑んでしまう。

猪苗代湖畔の平野は冬、地吹雪で1メートル先も見えなくなることも珍しくない。会津に転勤した直後に東京に出張があり帰りの電車が吹雪で動かず、バスに乗り換えたがそのバスも吹雪のため磐梯熱海から山中峠の間で4時間以上身動きとれずに会津まで帰れないことがあった。

野口英世が火傷をした生家のイロリ磐梯山の正面にある「野口英世博士」の生家が一番の観光名所となっている。ここで生まれ、子供のとき囲炉裏に手を突っ込んで、手の指がつながってしまう大火傷を負った。大きくなり手術により指を治し、その後、医者になるのを志し、努力を積んでアメリカのロックフェラー研究所の研究員になる。性病や黄熱病の研究などに業績を残し、1928年(昭和3年)西アフリカで殉職した。そしてその年、博士の遺徳遺業の顕彰と生家の保存を目的として「野口英世博士記念会」が発足し昭和13年には財団法人になり翌14年に「野口英世記念館」が開館した。

館内には博士の偉業が余すところなく紹介されて、十分に満足できるものである。その中でも母親「シカ」がアメリカにいる博士の帰国を願うたどたどしい手紙が涙を誘う。子供達と一緒にこの手紙の前で一字ずつ追いながら全文を読んだことがある。母親のあふれるほどの愛がそこに詰まっている。これを読むだけでこの会館に入った価値はあると思う。

会館を抜けると生家がそのままの形で保存され、火傷をした囲炉裏や上京するときに「志ならずんば再びこの地を踏まず。」という決意を刻んだ柱もある。

博士の遺業は語るもがなであろう。平成11年の夏に鹿児島の母が初めて会津を訪れ、ここに連れて来たとき、私達の後ろを歩いていた大学生と思われるグループの男性が「野口英世って業績が偉大過ぎて会津の生まれであるという意識はなかった。」と口にしているのを聞いた。私達はやたらと出身地に結びつけようとするが彼の遺業は彼らの言葉にあるようにグローバルなものだったのである。そういえばニューヨークにある博士の墓碑銘は「Through devotion to science. He live and died for humanity.」(博士は科学への献身により、人類のために生き人類のために死せり)とあるという。

野口記念館の前には「世界のガラス館」とどこの観光地に行ってもある「地ビール館」があり観光客でにぎわっている。

天鏡閣

野口記念館から49号線を2キロほど会津若松方面に走ると遊覧船の発着場のあるにぎやかな場所に出る。亀と鯨の遊覧船の傍をモーターボートやジェットボートで爆音をばらまきながら我が物顔で走り抜ける、湖の観光地にありがちな光景がここにもある。ここは「翁島」と呼ばれる場所で向かいにある島の名前に由来する。

その昔、やつれた一人の旅のお坊さんがこの村にたどり着き、水を一口恵んでほしいと求めた。しかし、この年干ばつで水が不足していたため誰一人かまおうとしなかった。ただ、「おきな」という娘がこのお坊さんを大切にもてなした。その翌日突然磐梯山が噴火を起こし、一夜にして猪苗代湖ができ多くの村が湖底に沈んでしまったが、この娘の住むところだけが盛り上がり、この娘だけが助かった。この坊さんは弘法大師でありその盛り上がったのが翁島であるという。旧約聖書のノアの方舟に似た話である.それにしても何処の神も仏も自分に意を向けるものには慈悲深いが、さもあらざる者には冷酷である。天鏡閣

この場所から少し山に入ると「天鏡閣」という皇室の別荘だった建物がある。明治41年、有栖川宮威仁(アリスガワノミヤタケヒト)親王の別荘として建てられた洋館で、平成10年に化粧直しが行われた。ルネッサンス風建築の優雅なたたずまいと贅を凝らした目を見張るような調度品は皇室の生活の華麗さを実感させてくれる。以前は猪苗代湖が一望できたらしい。

猪苗代湖は一周することができる。湖の西岸、会津若松市側は湖水浴場とヨットとボートのハーバーが多い。朝夕は磐梯山を前にした静かな浜辺であるが土日はボートが我が物顔で走り回る落ち着きのないリゾートである。

湖の南側は郡山市でその名も湖南地区である。ここの青松浜(セイショウガハマ)が磐梯山を猪苗代湖越しに見える絶景の地である。もともと有栖川宮威仁(アリスガワノミヤタケヒト)親王の保養地として整備され、その後高松宮家に移り昭和27年に福島県に下賜されたものである。さすがに皇族はすばらしい所に目をつけたものである。

私たちが家族で訪れたときこの浜の木々にはミツバアケビが紫色の実をたくさんつけていた。

ここから見る磐梯山は写真で紹介される表磐梯の代表的な場所であろう。写真で見るアングルであるが、ただ少し遠すぎて磐梯山の威容がそがれている様にも思える。猪苗代の町から見上げる磐梯山は見上げるという感じで少しエレガントさにかけ大きすぎるきらいがあるが、ここからは少し小さすぎるように思えるのである。

猪苗代の街中

猪苗代には会津若松の鶴ヶ城と対になる亀ヶ城があった。今ではその城跡が残るのみである。

街の裏山が磐梯山なのであるが、その山際に「土津(ハニツ)神社」が建っている。これは会津松平藩の祖「保科正之公」が葬られている。保科正之公は徳川2代将軍秀頼公の子で3代将軍家光公の異母兄弟になる。亀石

この神社境内に入ると大きな亀石が目をひく。7メートルはあろうかという大きな亀の形をした石の上に一辺2メートル弱もあり、高さが5メートル程もある保科正之公の生い立ちと功績が漢文で書かれている。会津にある神式の松平家の墓の中で最大のものである。この亀石は猪苗代湖を後ろにして正行公の墓に向いている。この亀石については言伝えがある。もともとこの亀石は猪苗代湖の方を向いていた。ところがこの亀石は夜な夜な動いて猪苗代湖まで遊びにいっていた。その亀石が這いずって行った痕が見つかり、亀を山に向けたらそれ以後この亀石が徘徊することはなくなったという。

北塩原村

この村は、西は喜多方市から大塩温泉を抜けて桧原湖に入る磐梯山の裏側の村である。村の北側は山形県米沢市に隣接しており有料道路「西吾妻スカイバレー」を越えると天元台スキー場のある米沢の奥座敷「白布温泉」に出る。

磐梯山

磐梯山は明治21年の大噴火により現在の形になった。4つの村と400人以上の人の命を奪った。この噴火が日本赤十字社が戦争以外で初めて民生で出動した事件だったという。

猪苗代から見る磐梯山は緑の多い雄大な山であるが、裏側の北塩原村桧原湖畔から見る磐梯山はその中央部がごっそりと吹き飛ばされ、赤茶けた地表をむき出しており爆発のものすごさを物語り、まったく別の山にみえる。この噴火により川がせき止められ桧原湖、小野川湖、秋元湖、曽原湖などができた。

裏磐梯は磐梯山麓に五色沼があり約1時間ほどのトレッキングを楽しむことができる。遊覧船でにぎわう五色沼の西口にある柳沼から入るとほとんど下りのルートで楽である。瑠璃沼はエメラルドグリーンの湖水が美しく東口にある毘沙門沼が一番大きく不思議な輝きを見せてくれる。

桧原湖

桧原湖は磐梯山の噴火によりできた一番大きな湖である。遊覧船が静かに行き交う側をモーターボートが爆音を立てながら我が物顔に走り回るどこにでもある観光地である。南岸には磐梯山の噴火や四季について紹介した資料館やシアターがある。冬は凍結して公魚(ワカサギ)釣りが楽しめるが、このところ暖冬で凍結しない冬がある。

私はこの桧原湖を本当の意味で楽しむためには西岸にある細野地区に行くことを薦める。そこにある「ママママキャンプ場から見る磐梯山キャンプ場」が磐梯山を桧原湖越しに見ることができる絶妙のポイントである。ここから見る磐梯山は表磐梯の優雅な優しいそれではなく、爆発により山のほとんどが吹き飛ばされた、赤茶けた地肌をあらわにした荒々しい磐梯山である。特に朝霧が湖面にかかる静かな磐梯山、雨上がりの雲の切れ間から待ちわびて姿をあらわす磐梯山は筆舌に尽くしがたい。

このキャンプ場は昭和20年、戦争でご主人を亡くした渡部ヤエさんが疎開してきて開いた。現在では柳の木が大木になっているがその木もここを開いた当時に植えたものだという。今流行の施設が揃ったオートキャンプ場ではなく、バンガローと水場に汲み取り式のトイレ以外の施設はまったくない。それに車が入ることは許されず好きな場所までキャンパーが荷物を黙々と運ぶ必要がある。あるのは桧原湖と湖越しに見る磐梯山と裏磐梯の自然と何よりゆっくり流れる時間である。それにこのキャンプ場は季節によってその面積が大きく変化する。桧原湖の水位が高いときにはテントが10張りもすれば一杯になってしまうほどの位置まで水がやってくるが、水位が下がると沖に見える島まで地続きになり10倍以上の広さになる。

ママキャンプ場(水位が下がればここまでキャンプ場となる。)このキャンプ場のことは転勤で鹿児島から東京に赴任してきて、本格的にキャンプを始めた頃、キャンプ場を紹介した本の中に「おばあちゃんが経営する素朴なキャンプ場」として書かれていたのを記憶していた。ところが私が会津に赴任したことを喜んだキャンプの相棒が「会津にキャンプに行きたいのだけど、ママキャンプ場にしようかと思っているのだけどどうでしょうか。」と電話がきて9年ぶりに「ママキャンプ場」の名を聞き懐かしくて即座にOKした。

初めてのキャンプは梅雨に入る直前の雨の土曜日だったと思う。雨のキャンプは我が家にとってそれほど問題ではない。狭いタープとテントの中で家族が力を合わせて料理を作り、テーブルを囲みながら日ごろにましていろんなことを語り合うのである。

手続きを済ませるとおばあちゃんがこのキャンプ場の中央ほどにあるアヤメの生えている湿地の側の比較的平たんな場所に連れて行き「ここがこのキャンプ場で一番いい場所だからここがいい。」という。

その意味は翌朝すぐに理解できた。私たち夫婦はいつものようにコーヒーを入れるためにテントを出るとそこには雨が上がり波一つない湖面にかすかに朝霧がたなびく。その奥に山頂に朝日を受けた磐梯山が悠然とそびえていた。

ここが裏磐梯で磐梯山を眺める最高のポイントであることを理解した。磐梯山資料館にかけられている四季の写真はここから映されたものであり、日産の「ステージア」というステーションワゴンのコマーシャルは私達がキャンプをした翌日ここで撮影された。

子供達は朝早くテントを抜け出してルアーフィッシングを楽しみ、私たちは入れたてのコーヒーの香りを漂わせながら椅子に深く座り、桧原湖越しに磐梯山を静かに眺めながら何もしない贅沢な時間を楽しむのがこのキャンプ場での私たちのスタイルになった。そしてこの場所にしかテントを張らなかった。

会津に住んだ3年間ここ以外でキャンプをすることはなく、年に何回も仲間を連れてはキャンプに訪れ、我が家が参加しない仲間のキャンプにも顔だけは出していた。裏磐梯を訪ねたら特に用事がなくてもヤエばあちゃんの顔を見るためにここを訪れ鹿児島から届いた魚や貝、枕崎のカツオ味噌などを届けるまでになっていた。そして仲間達が私の甲府転勤の送別キャンプを企画し、私はここからリュックにアマチュア無線のアンテナを持って旅立つことになった。会津で一番の好きな場所で私の一番の仲間達が企画してくれた私達らしい旅立ちであった。

その他裏磐梯のいい話をいくつか。

その一つは自生する「ホップ」である。会津に転勤してきた平成9年9月に、会社の仲間と5年間毎年9月の第2土日に奥軽井沢で実施している「クレソンキャンプ」を裏磐梯で開いたのである。年代も幼児から60代まで30人以上も参加する恒例のキャンプを終えて、我が家は南下して会津若松に帰らずに桧原湖を一回りするために北に道をとった。桧原湖の北岸の西側にある桧原地区の川を渡ったところで妻が「止まって。あれホップじゃないの!」というので車を止めるとそれは白い親指ほどの何かの実のようにも見えるものであった。私たちは本物のホップを見たことはなく、ビールのコマーシャルでホップを見たことがあるのみでそれほど自信はなかった。しかし、桧原湖の東岸にある曽原湖の北岸のペンションビレッジにある「バンディアハーブガーデン」のスタッフがホップに間違いないと教えてくれた。このホップは「からはなそう」というものらしい。完全な自生なのかどうかはわからないが、会津とホップは歴史的に深い関係があった。会津の喜多方地区は大手のビール会社との間でホップ生産供給の30(40年だったかもしれない)年契約を結びホップ生産組合を作り生産してきた。しかし、安い海外ホップの供給が軌道に乗り国内生産の必要性がなくなりついに平成10年に組合が解散するという新聞記事が小さく載っていた。

自生のホップのことは会津の一部のお茶やお花をする人たちには知られていたようであるが、一般にはあまり知られていなかった。妻が近所の仲間に教えたことで多くの人たちも知るところとなり、裏磐梯のみでなく私達が住んでいた飯盛山や会津の山河にはいたるところで見ることができることに気づいた。

曽原湖から小野川湖に向かうと途中に「パン工房ささき亭」がある。焼きたてのパンにコーヒーを磐梯山を見ながら楽しむことができる。いつもお客が並び焼きたてのパンが飛ぶように売れる。会津地区では都会的なセンスのパンを食べさせてくれるお店である。

桧原湖から猪苗代に向かう三叉路は剣が峰という場所である。この交差点の角にレストラン「モントレー」がある。ここのハンバーグステーキの味は絶妙であり、長男真之介の誕生日に訪れたとき子供達が思わず「このデミグラスソース美味いね。」と口にした。それをオーナーに話すと何日も時間をかけてソースを作っていることをうれしそうに話してくれた。そしてご飯のお代わりを出してくれた。

人形の家

このレストランの前の道を渡り少し路地を入るととがった屋根を持つ煉瓦造りの「人形の家」という喫茶店があった(これで正しい)。中に入ると粘土で作られたフランス人形が並べられていた。奥様と話をしていると裏庭ではご主人が焼き物の教室もやっているという話を聞き、工房を見せていただいた。裏庭に回るなり私と真之介が顔を見合わせた。芝生の裏庭がそのまま裏磐梯の沼に続いているのである。ご主人からこの家を手放すという話を聞いて長男が「この家買えたらいいね。」と私に話しかけてきた。驚いたことに私も同じことを考えていた。「お父さんも同じことを思っていた。うちにぴったりだ。」と話すとニコニコしていた。つくづく親子だなと感じた。ここのご夫妻は50代にサラリーマンをやめてここにやってきて今の仕事を始めた。ところが70代になると裏磐梯の冬を越すのが大変になってきたため、ここを手放して中通(福島県では福島市、郡山市等の県の中央部をこのように呼ぶ)にある塙町に新しい工房を開くのだという。

私達夫婦はリタイヤした後、裏磐梯の湖畔での生活を考えていた。ところが裏磐梯での生活は若いうちでないと大変らしい。夢と現実との大きなギャップを思い知らされた。

食事をした後、飛込みではあったがご夫妻がいろんな話を聞かせていただき有意義なひと時を過ごすことができた。

磐梯町

磐梯町は会津仏教文化の発祥の地といっていいであろう。

平安時代の初期、磐梯山が噴火した直後に法相宗の僧徳一上人により恵日寺が開かれ数百人の僧と数千人の僧兵を擁する勢力を誇っていた。明治初期の廃仏棄却により荒れてしまったが、現在の恵日寺の奥にある磐梯神社の脇の小道を数分歩くと開祖徳一の墓と伝えられる五重の石塔が残されている。最盛期は東西12キロ、南北8キロの壮大な伽藍をなしていたという。

現在は恵日寺の脇にある「磐梯山恵日寺資料館」に1200年の歴史が紹介されている。この資料館に行くと空のペットボトルやポリタンクを抱えた人達を見かける。資料館に入る人達よりこちらのほうが明らかに多い。何故かというと資料館の中庭に日本100名水の水汲み場があるのである。恵日寺の裏山に100名水のひとつ「龍ヶ沢湧水」がある。

この湧水は空海が雨乞いの法を修行した場所であるとか会津藩の雨乞いの行われた場所であるといわれている。

私は近所の人からこの湧水を汲みに行く話を聞いていたため、秋も押し迫った11月の終わりごろ、一人でこの湧水を探しに出かけた。車で話に聞いた場所に行くもそれらしい入り口は見当たらなかった。やっとのことで湧水への入り口を見つけ、歩き始めると晩秋の夕暮れは早く、鬱蒼とした杉の林を一人で歩くのは薄気味悪いものである。この日の私の出で立ちはジーンズにフリースのジャケット、トレッキングシューズそれに東京から買ってきたお気に入りの皮製のブッシュハット(カーボーイハット)というものだった。この薄暗い山歩きを楽しむための格好だと一人言い聞かせながらひたすら歩きつづけた。20分間は思ったより長い山道であった。磐梯山の山腹のいたるところから水が涌き出ているがそのなかでも大きな岩の池のある龍ヶ沢湧水はその水量において格別である。

私は大きな岩の間から涌き出てくる水を手ですくいとり口に含み、持ってきたペットボトルに水を汲んで帰った。

その翌週、妻を連れて、その翌々週二人の子供達を連れて同じ道をたどりその湧水を訪れた。子供達を連れてきた日は朝も早かったこともあり、途中でカモシカと会うことができた。この出会いは子供達も大喜びであった。

ところがもうひとつビックリすることがあった。子供達とこの湧水の荘厳な雰囲気に浸っていると、突然、ポリタンクを抱えた人が湧水の上から現れたのである。この湧水の真上に林道が走っていてここを知る人はそこまで車で来るものらしい。私が悦に入って歩いてきた山道を歩く人は少ないという。帰りはその人の車に乗せてもらい、この水の話、十年以上会津に単身赴任でいることなど話を聞きながら私達の車の場所まで送ってもらった。

ここでひとつ不思議な体験(いや出会い)を紹介しておく。

この湧水を初めて訪れたその日、車で家路についた私が、恵日寺の前の道を左折して国道に出るところを右折した。何故か400メートル程先の森が気になったのである。まるで吸い込まれるように薄暗い森の中に車を進めた。森に入りすぐ、車の左側にあった小さな石が気になり車を止めてその場所までバックした。車を降りてライトの明かりを頼りにその石を見ると小さな墓であった。その傍らには「如蔵尼の墓」と書いてあった。如蔵尼とは平将門の三女「滝夜叉姫」である。平将門については知っていたがその娘については知らなかったので、図書館で調べてみると、父将門が乱を起こして敗れた後に日立の国に引きこもり妖術を使って抵抗したとあった。「今昔物語」の中には彼女が若い頃美しかったと書かれている。まるでギリシャ神話のコルキスに黄金の羊の毛皮を取りに行く「アルゴ船の物語」に出てくる妖女メディアのような女性なのである。(後に歌川国芳の「相馬の古内裏」という浮世絵に大きな骸骨を操る滝夜叉姫が描かれていることを知った)。

私は間違いなく何かに導かれてここにやって来たような気がする。不思議な体験であった。もうひとつの不思議な体験は第1篇の「天寧寺の郡長正」のところで書いている。

河東町

この町は猪苗代から会津若松への入口にある町であり、まず「会津村」の大きな白い観音様が見えてくる。その胸には約11メートルもある赤ちゃんが抱かれている57メートルの慈母観音である。園内には三重の塔や奥会津の民家等がありその中の池には錦鯉の優雅さなど微塵もなく気持ち悪いほど群がって餌を求める大きな鯉が飼われて、今ひとつコンセプトが理解できない。

会津藩校日新館

藩校日新館は家老田中玄宰が鶴ヶ城の西出丸に開いた会津武士の文武の中核となる藩校である。あの白虎隊もここで学びそこでの教えが、彼らの純真さゆえ悲劇へと導いたものともいえる。現在の建物はそれが観光施設として再現されており、中央には孔子が祀られている。ただこの建物は観光施設でありそれ以上のものではない。

皆鶴姫の碑(河東町)私はこの町で紹介すべき場所として「皆鶴姫の碑」をあげたい。源義経と皆鶴姫の悲恋物語である。義経は平泉で過ごしたのち再度京に登り平氏の動向を探っていると、鬼一法眼と言う文武の達人の事を聞き彼の持つ兵法書を手に入れようとしたがどうしても見せてもらえなかった。そこで法眼の娘皆鶴姫と懇ろになり密かに書き写すことに成功した。ところが義経の動向を平清盛に察知され平泉に走った。それを知った皆鶴姫は安元元年(1175年)8月義経の後を追いここ河東の藤倉までやってきたが疲労困ぱいのあまり病に倒れてしまった。村人達の手厚い看護により快方に向かったが翌年の春、難波池に映った自分のやつれた姿に驚きそして悲しみ、池に身を投じたという。それが弥生12日、18歳の若さであった。その時義経は河東の隣の磐梯町にいた。姫の死を知り駆けつけこの地に墓を建てたという。法名を安至尼という。そののちこの場所を訪れると良縁を授かるとして参拝が絶えなかったと言う。現在は正面には飯豊連峰、右手正面には会津磐梯山がきれいに見える田んぼの中に東屋と言うには不釣合いな洋風な造りの屋根に覆われて保存されている。

ちなみに義経に関しては第1篇会津若松編の「五郎兵衛飴」の個所で800年前に源義経がこの飴を食べたという伝承があることを書いた。このときの義経は兄頼朝に追われて平泉を目指す途中であり、この皆鶴姫の伝承はそれよりも前ということになり、義経は会津を二度は訪れていることになる。

今皆鶴姫の碑の前でノートパソコンのキーをたたいている。私にとって磐梯町の滝夜叉姫とこの皆鶴姫は会津で気になる女性だった。皆鶴姫だけはどうしてもここで書きたかった。滝夜叉姫に比べて皆鶴姫を自分のものにしきれていなかったからである。甲府に転勤した翌年の12年3月17日に家族で会津にスキーできたにもかかわらず家族をアルツ磐梯スキー場において磐梯町の墓とここを訪ねている。滝夜叉姫の墓の前では妖艶な姫が微笑んでくれたが、この墓の前では姫は私に姿を現してはくれなかった。まだ姫への想いが浅いようである。いずれにしても一人の男性を思いつづける女性の一念は心を打つものがある。私がなぜにここまで拘るのかは訳があるがそれはまたの機会にする。

強清水(コワシミズ)の揚げ饅頭と天ぷら

ここは河東町というより猪苗代湖をあとにして会津若松に向かう道のくだりにかかったところにある場所である。ここはその名の通り泉が湧いており、昔からどんな干ばつのときでもここの泉は枯れなかったという。その昔、老いた父親が毎日赤い顔をして帰ってくるのを見た放蕩者の息子が、あるとき父親がどこで毎日飲んでいるのだろうと思いついて行くとこの泉の水を飲み酔った振りをして家に帰っていた。以後親不孝を悔やみ孝行に励んだという。

寛喜3年木こりの与曽一、与曽二という親子がいた。父は大変まじめであったが息子は大酒を飲み、あげくに追いはぎまでしていた。息子の悪さ三昧で米も買えない有様だったが、与曽一なぜか仕事の帰りには、酒に酔って帰ってきた。不思議に思った与曽二が後をつけると岩から湧き出る水を飲んで酔った振りをしていた。与曽二は清水を酒にたとえて飲む父親の姿に親不孝を悔やみ以後、親孝行に勤めたという。

ここでは饅頭の天ぷらニシンとスルメの天ぷらが有名である。

特に後者は山国の民の北海の幸の絶妙の食べ方である。乾物のニシンとスルメをここの美味しい水で戻しそれを天ぷらにして食するのである。会津を訪れたらぜひ食べてほしい。因みに強清水にはいくつかお茶屋があるが我が家の子供たちは清水の前にある「清水屋」が美味しいといっている。

喜多方市

会津若松市の北20キロほどの場所にあり蔵とラーメンの町として有名である。もともと北方町であったのを市制に改めるにあたり喜多方市にしたという。

ラーメンは全国にその名が知れており太いちぢれ麺を各店舗独特のスープでその美味さを競っている。「老麺会」という暖簾が目印になっているがこの会員でない店でも美味い店がある。ラーメンは旅行のガイドマップに詳しいからあえて書くこともあるまい。

喜多方の蔵について我が家はかなり勉強した方であろうと思う。街中にも座敷蔵がかなり残っており一般に公開されているところも多い。蔵の中に入るとうそのように外の暑さがを感じさせない独特の涼しさがある。

街中の蔵は商屋のそれであるが、喜多方の蔵を本当の意味で楽しむには市内の北西にある押切川を渡った三宮地区の蔵の集落と市街の北西、旧米沢街道沿いにある杉山集落の蔵と三津谷地区のレンガ造りの蔵が見事である。

喜多方の蔵は数の多さももちろんであるが、蔵から屋根にかけての湾曲(蛇腹という)が多彩で見事である。さらに下三宮地区においては、蔵の表面に彫られた唐草文様や鳥などのコテ絵で当時の左官の腕前を見ることができる。

杉山地区は街中のもののような豪華さはない実用的な農家の蔵である。ここは藩政時代から薪炭等の供給地だったらしく男が一人前になると努力して蔵を建てたらしい。他の地区と違い住民が勝ち組、負け組に分かれておらず、すべての家が蔵を持っている点が重要である。この地区のリーダーと住民が一体となってこのような共同体を作ったという。飾りが少ない実用本位の蔵であるが、そのことの方が私にとってはすばらしい集落に思えた。

蔵自体の魅力とは少し異なるが、先ほど紹介した、下三宮地区で1軒だけ田んぼの中に建っている蔵を紹介しておこう。現在は「しぐれ亭」という割烹になっている。その蔵は他のものと異なる様式を持っており内部は書院造りのような優雅なものである。紹介したいのはこの蔵自体ではなくここで出される「ニシン飯」である。家族で喜多方市主催の「蔵めぐり」に参加していたときこれを食べた子供達があまりの美味しさに「美味しいね。家でも作れるかな。」と妻に催促していた。その夜、我家は早速このニシン飯にチャレンジしたことは言うまでもない。そして我家の定番料理になった。

この蔵のある上三宮地区に「会津大仏」と呼ばれている2.5メートル程もある大きな仏像がある。願成寺の本尊である阿弥陀如来である。向かって右に観音部薩、左に勢至菩薩を従えている。国の」重要文化財であるため通常はガラスで仕切られた部屋に収められている。ところが私は2回、家族は1回中に入って阿弥陀如来の真下で拝観する機会を得た。背後には数百の小さな仏像が来光として配置されているがその下の部分の小さな仏像は戦争に出征するときにお守りに持っていったとのことでかなりなくなっている。子供達にとって国宝級の仏像の放つ風格と、歴史の持つ重みを直接実感できたのは何よりの体験であった。

ちなみにこのように阿弥陀如来が右に観音、左に勢至菩薩を従えるのは死んだ人を迎えに来る姿を現している「来迎仏」というものらしい。鎌倉時代の作と伝えられている。

新宮熊野神社長床

新宮熊野神社長床は喜多方市内の南西の会津坂下町に向かう途中にある。ここを初めて訪れたときこの荘厳さに私はビックリして声を失ったことを覚えている。その日は少し雨が降っており、高い杉並木を100メートほど歩くと一段高い石組の上に100坪ほどの広々した長床があり、44本の大きな柱が立ち四方が吹き抜けになっている。長床には自由にあがることができる。

長床とは山伏の道場のことであるが、平安時代の貴族の住宅である書院造りの様式を踏襲しているらしい。仏教の盛んな会津の素朴な寺院が多い中でこの長床はどの様式とも異なるもので一見の価値はある。

晩秋に訪れることを薦める。長床の前にある大きなイチョウの木の葉が落ちて黄金の絨毯ができる。雨にけむる早朝に訪れると山伏がほら貝を持って現れそうな本場熊野はさもありなんというような気持ちがしてくる。

湯川村

この村は会津若松市と喜多方との間の小さな村である。

会津仏教の祖といわれる徳一上人により建立されたという「勝常寺」のある、会津仏教の中心地であった。会津で住み始めた初夏に家族そろってサイクリングをしながら訪ねた。飯盛山の家から10キロほど会津盆地の田んぼの中をペダルをこいだ。右手に会津磐梯山を仰ぎながら、田んぼの中を走ると雉が現れ、カワセミが小川を飛びぬけていった。
小さな集落の中にある勝常寺の境内はそれほど広いものではないが正面の薬師堂は床の高い回り廊下を持つ立派なものである。薬師堂の右側にはこの寺の重要文化財を保管するセメント造りの収蔵館がある。勝常寺は807年、伝教大師(最澄)の論敵として知られる法相宗の徳一上人によって開かれた会津のみならず東北を代表する古刹である。創立された当時は七堂伽藍が備わり、多くの附属屋、十二の坊舎、百余ヵ寺の子院を有する一大寺院であったと伝えられている。現在残されている建物は元講堂(薬師堂)、本坊(客殿)、庫裏、中門等で仏像も三十余躯ある。
 国宝薬師三尊(薬師如来、日光・月光菩薩)をはじめ国重要文化財の指定をうけた仏像9体をもつ。拝観時間が制限されているため注意が必要である。(拝観時間 4月1日から11月中旬 午前9時から午後4時休館火曜日2005.1.2日追加)。

本堂である薬師堂の左側には会津を空襲から守ったとされるアメリカ人をたたえる記念碑が建っている。

太平洋戦争においてアメリカ軍は京都や奈良、平泉等とともに日本文化を守るためにこの会津も空襲の対象からはずした。それがゆえに会津は米軍の空襲を受けることがなく多くの仏教の貴重な仏像が残ったあのである。残念ながら彼の名前は失念してしまった。
後にそれが東洋美術史家ランドン・ウオーナー博士と言う人物で土井晩翠がそれをたたえた詩碑が建っている。
「一千余年閲(けみ)したる 仏像の数十三を 伝へ来りし勝常寺 尊き国の宝なり 秋のけしきの深みゆく 会津郊外勝常寺 仏縁ありて詣できて 十三像を拝みぬ」(2005.1.2追加)

塩川町

塩川町はその昔、舟運で栄え「屋号と暖簾の町」というキャッチフレーズを持つ町である。町の商店や銀行には「両替商」等とそれぞれ個性のある暖簾がかかっている。

この町には面白い食べ物がある。奈良屋の「ここのえ」というお菓子である。あられを砂糖と香料で包んだ粒状のお菓子でまるで車の灰皿に入れる香料のビーズ玉のようでもある。お湯を注いで飲むものらしいが、我が家の子供達はそのままパリパリと食べるのが美味しといっている。会津の人たちに限らず福島県下の大人はこれを見せると懐かしいといっていた。

会津坂下(バンゲ)町

この町を私は戊辰戦争のヒロイン中野竹子の墓があることで知った。会津に来た翌日「武士のたけき心にくらぶれば数にも入らぬわが身なれども。」という時世で有名である。 彼女は娘子隊(ジョウシタイ)の隊長といわれているが、会津の軍制の中にそのような隊はなく彼女達を美化するために作られたものであろう。

別れの一本杉の碑(前に立つと曲が流れる) この会津坂下町はあの「春日八郎」の生まれた町である。立木観音のある塔寺あたりが生家らしい。有名な「別れの一本杉」のそばに「春日八郎記念館」が建っている。敷地内に入ると杉の木の脇に別れの一本杉の歌詞を書いた碑がありその前に立つとセンサーが働き別れの一本杉の歌が流れる。「泣けた泣けたこらえきれずに泣けたっけあの娘とわかれた…一本杉の石の地蔵さんがよ…」と続く。確かに一本杉の脇には石の地蔵さんがある。昭和一桁の人達にとっては涙が出るような場所である。事実、妻の両親と私の母はここにつれて来てくれたことをとても喜んでくれた。

 会館は無料で入ることができる。中には春日八郎の衣装やギター譜面、写真が並べらており、カセットテープや土産物が売られている。

 奥にはカラオケのセットが置かれており誰でも歌うことができる。ところがここで歌っている人達は半端な人達ではない。外で聞いているとまるで春日八郎のレコードがかけられているのではと思うほど上手い。この人達にすすめられてもとても歌えるものではない。彼らによるとここのカラオケセットとスピーカーは他ではないほど良いものらしい。

 会津坂下町には塔寺地区に会津三観音のひとつ「立木観音」がある(他に新鶴村の中田観音、西会津町の鳥追い観音)。約千年前に約8メートルある立木をそのまま彫った観音様で今もその根の部分は本堂中央の石組みの中に収まっている。

立木観音(だきつき柱) 本堂自体は600年ほどである。住職が「本尊様から比べたら建物はたかだか600年ほどです。」などと謙遜しておられた。本尊は外からは大きな幕で隠されて見ることができないが、300円拝観料を払って中に入ると、その観音様の大きさにびっくりする。その右側の柱は「抱きつき柱」それに抱き付いて念じるとコロリと死ねるらしい。またここから見る観音様のお顔がとてもやさしく見える。中に入らずとも「外柱」がありこれに抱きつくと願いは叶うらしい。

毎年1月14日には坂下町の大通りで直径2メートル、長さが3メートル以上重さ3トンはあろうかという大俵引きが行われる。400年ほど続いているとのことで東の上町が勝てば米の値段が上がり、西の下町が勝てばその年は豊作になるといういわれがあるときいた。毎年雪の中で行われている。

堀部安兵衛

会津坂下町は赤穂浪士の堀部安兵衛の生地とされている。会津に住むまでは安兵衛は新潟県新発田藩の出だと思っていた。ところが坂下の記録によると堀部の父親は越後新発田藩で失火を起こし出奔(シュッポン)しこの会津にやってきた。幼いころ父親は賊に襲われて命を落とした。そして安兵衛は幼いころ1回目の敵討ちをしたという。2回目はおじの果し合いの助太刀を有名な高田馬場の決闘(このころまでは当然中山安兵衛である。)、そして最後は赤穂浪士の討ち入りの後切腹することになる。

坂下町の街中にある生協の脇の通りは「安兵衛通り」と名づけられており、朱色の街灯の支柱がならんでいる。この朱色の支柱を見て通りの名前を聞いた時に私は「なるほどね。」とつぶやいた。好きな講談では「直心影流堀内道場」で意気投合して叔父甥の関係を契った伊予三島藩士管野六郎左衛門の果し合いをすることになった。安兵衛が助太刀に高田馬場に臨むとき朱色の刀の鞘で走っていく姿が語られていることからきているのであろうと思った。これはそのとおりであるということを関係者から確認している。

ところで私はその後、安兵衛について調べてみた。安兵衛の父は城の櫓の失火を出し、藩を離れ失意のうちに病死したという記録はあるが、賊に襲われ死亡し、安兵衛が1回目の敵討ちをしたという記録は見つからなかった。ただ,父が病死した後母方の叔父溝口三郎兵衛に引き取られたとある。そこが会津坂下だったのかもしれないがそれ以上はわからなかった。

会津本郷町

会津本郷は会津盆地の南端に位置する本郷焼で有名な町である。私たち夫婦はこの町で会津の焼き物を覚えた。

本郷焼きは陶器と磁器が同時に生産される国内でも珍しい場所であり、17以上の窯元がありそれぞれの窯元の特徴と個性を競い合っている。もともと鶴ヶ城の瓦を焼いたのが始まりといわれる。大きな窯元は「流文焼」で工場も見学でき大きなショールームもある。もともとは碍子(ガイシ)を作っていたらしい。

宗像窯」は伝統と風格を持つ窯元である。会津本郷で唯一登り窯を持っている。釉薬が溶け易く器の底に釉薬がたまるところに特徴がある。ただそれなりの値段がする。

酔月窯」は青を基調とする素朴なブドウの絵柄が特徴的である。絵柄がシンプルであるため洋風の利用にもマッチするお洒落な陶器で、お気に入りの小さな窯元である。

この本郷焼は8月の第1日曜日に「瀬戸市」が開かれる。朝4時に始まり正午まで町の目抜き通りの両脇に当地の窯元に限らず県内外の業者も集まる大きな市である。「かってがんしょ(買っていってください)。」という言葉が飛び交う。この日ばかりは普通の二割は安く買うことができ、交渉しだいでは値段があってないような楽しい買い物ができる。日ごろから狙いをつけておいてこの日に買う人が多い。妻の友人は前年買ったお気に入りの茶碗のひとつが割れたのも持っていき取り替えさせてしまった。このようなことも笑いながらできてしまう楽しいお祭りである。朝早く出かけることと、遠慮せず値切ることが秘訣である。

通りの途中にある製麺工場があり、この日ばかりはラーメン屋になり美味しいラーメンを食べさせてくれる。

会津高田町

会津高田町は、伊佐須見(イサスミ)神社と高田梅で有名である。

伊佐須見神社は1400年の歴史を持つ会津の総鎮守でありその境内は手つかずの古木が生い茂り、外の世界とはまったく異なる荘厳な鎮守の森に囲まれている。私達は夕涼みのためにここを訪れた。そこはうす暗がりの中に石の灯篭の明かりが灯り外の世界とはまったく異なる不思議な世界があった。本殿の前には「会津五桜」のひとつ「薄墨桜」がある。

伊佐須見神社の裏には文殊様で有名な清流寺がある。受験シーズンには知恵の仏様である文殊様のご利益を願って多くの子供達が訪れている。

伊佐須見神社の前にはアヤメ園があり10万株のアヤメが植えられており6月中旬から7月の初めにかけてアヤメ祭りがある。

高田梅は日本一大きい梅とも言われ大粒の梅である。果肉が厚く漬けられた梅がいつまでもカリカリと美味しい。従って値段もそれなりする.

会津高田の山沿いには松沢荘と言う鉱泉がある。新旧両館があり新館は会津盆地の南西の高台から会津盆地を一望できる素晴らしい眺めが自慢である。旧館は少し山に入って所にあり、鄙びた湯治旅館の風情である。一度訪ねたがそのときは風呂が混浴になっていた。ただお客がいなかったため家族風呂として楽しむことができた。

この旅館の裏山で涌き出る清水はなかなか美味しい水である。初めてここを訪ねたとき、その日に私が博士山から水を汲んできたという話をするとここのおばさんが「博士山の水よりこっちがもっと美味しい」と自慢しながら大きなペットボトルに2本汲んで持たせてくれた。

会津高田の街から北西に少し入った山際に会津5桜の一つ「虎の尾桜」」で有名な「法用寺」がある。本堂前の虎の尾桜はそれほど大きなものではなく樹勢も強くない。花はソメイヨシノほど白くなくどちらかというと薄墨を加えた控えめな白といえる。ただ花びらの中を覗き込むとそのめしべの先が少しふくらみ真中が割れている。見ようによっては虎の尾のように見える。

この本堂も立派なものであるがその脇に建っている三重塔が見事である。本堂の素朴さに比べてこの塔の優雅さは異質である。確かに回りの板は風雪を経て傷んではいるが京都や奈良のものにも劣らないだろう。塔の一段目に立つとその正面の木々が少しだけ開けて会津の盆地が見渡せる。白い桜の花に埋まるこの三重塔の見事さ優雅さはこの会津で他に比すべきものはないであろう。会津においてこれ以外の三重塔は見たことがない。

ところでこの町にも会津のどの町にもあるように町の運営する温泉施設がある。「あやめ荘」という伊佐須見神社の川向にある温泉である。鉄分を多く含んだ温泉で少し赤茶けていて、入った後、湯冷めしない素朴な温泉である。会津に住んでいる間我が家は月に1回は通ったであろう。それも子供が伸び盛りだったため、少し身長が伸びたなという話になると身長を測るためにこの温泉にやってきていた。長男が中学生になり見る見る身長が伸びた。長男が妻の身長を越え私の目線を越えるときになると、ますますその会話は頻繁になり「身長を測りに行くぞ」というとこの温泉を意味することになっていた。我が家の子供達の成長とともにある温泉だったのである。身長計に載ると体重と身長が自動的に計測された。

ちなみにどの温泉にも体重計はあるがそれはどこも更衣室の中にある。ところがここの温泉の体重計と身長計は無料休憩所にある。それゆえに子供の成長を親子して確認し共感することができる。公共施設の備品というのは、このような配慮によってより有意義なものとなると考えるがいかがなものか。

この町に長福寺というお寺がある。妻が電力会社の主催する料理教室で住職の奥様と知り合いになった。曹洞宗のお寺だと聞き尋ねてみると住職は私と妻の母校駒澤大学の後輩であった。それから私達がお寺を訪ねたり、我家を訪ねてくれたり、親しくお付き合いをさせてもらった。住職ご夫妻といっても二人ともまだ20代の若い二人である。もともと福島県の原町市の出身でこの寺の住職が高齢で跡取がいなかったためやってきた。始めてきたときにはまだこの寺の住職になるつもりはなかったらしいのだが「Welcome to 長福寺 !」というアーチまであったらしい。後を継いでくれる住職が訪ねてくれること自体ありがたい話なのに、婚約者まで一緒にきてくれる。檀家としては住職の嫁とりの心配も要らないためみすみす逃すことはできないとしての大歓迎だったという。そこでいっとき前住職との妙な同居生活が始まり、若い二人の苦悩の生活が始まったのである。それまでお寺とまったく縁のなかった奥様にとって住職婦人としての生活は並大抵の苦労ではなかったという。彼女の苦労に比して住職は誠に純でキュートな方で飄々としておられる。私は若い世代の宗教に取り組む姿勢として彼らの生き方を見つめていきたいと思っている。頑張ってほしい。

北会津村

北会津村は会津盆地の中央を流れる大川(阿賀川)にそって南北に位置するまったく山のない豊かな農業の村である。

 この村はホタルの村を標榜しており、ホタル保護条例を制定している。許可なく採集すると罰金の制裁がある。村の中央ほどにホタル公園があり源氏ボタルが幻想的な光景を見せてくれる。その公園から少し北にトゲウオの生息する沼がある。道路の脇で見過ごしてしまいそうな場所である。

この村は豊かな農業の村であるという紹介をした。会津で生活して嬉しいことの一つが新鮮な野菜が手に入ることである。飯盛山の近くに住んでいた我が家に時折朝、軽トラックに取り立ての野菜を積んで売りにきてくれるのである。取れたての野菜が甘く美味しいものであることを会津で実感した。

我が家はこの村から売りにきてくれる秋山農園の野菜にお世話になった。最初は単に売り手と買い手の関係だったのであるがそのうちに妻が近所の友人達と共に仲良くなり我が家で彼女の趣味としているトールペイントを描いたり、お茶を楽しむ親しい関係になった。不在のときは玄関先に置いてあるツルで編んだ大きな野菜篭に適当に見繕って入れておいてくれた。美味しい上に安く又何より作っている人を信頼できるという消費者と生産者との関係は何よりであった。

ところでこのツルで編んだ野菜篭であるが私たちのアウトドアでの遊びの一つであり、手ごろなツルを探して妻が編んでいた。ナイフ一つで遊べる我が家らしい遊びである。かなり太いツルをつかった直径が50センチ程もある篭である。ところがこれが思わぬ評判を呼び近所の友人達に5個ほど作って差し上げた。当然、秋山農園にも1個このツル篭があるはずである。

新鶴村

この村は会津平野の西の山際にある小さな村である。ここには会津三観音のひとつである中田観音がある。

観音堂は二層の壮大な建物で、本尊に祈願すれば苦しまずに往生することができるという「ころり観音」のひとつに数えられている。

中田観音は野口英世博士の母親シカの信心した観音様である。アメリカにいる博士宛に書いた手紙の中にもシカが中田観音に祈願している様子が書かれている。博士が帰国の折この観音様を母シカとともにお参りにきている様子が猪苗代にある記念館の写真が残っている。

この新鶴村にも温泉がある。会津盆地の西の山すその高台にある立派な施設であり、夜ここを訪れると前方に会津若松の町明かりをきれいに見ることができる。ただこの施設はお風呂の施設が立派な割には蛇口の数が少なく洗い場にながい列ができるのが残念である。

熱塩加納村

熱塩加納村は会津盆地の一番北にあり南は喜多方市、北は山形県米沢市と隣接していおり、県境の大峠トンネルが整備され米沢へも30分ほどで行ける。初夏の野山には可憐なピンクのヒメサユリが咲き乱れる小さな村である。特に宮川地区の館山にはヒメサユリが群生している。

歴史的には幕末の会津松平家に至る会津支配の礎はここから始まったといえる。鎌倉幕府が成立した頃、佐原十郎義連が源頼朝から会津一円を賜りここに居を構えたといわれ、その墓が残されている。ちなみに佐原氏が葦名氏の祖であり、それから20代近くに渡って盛隆を極めたが、1589年、米沢から攻めて来た「独眼流伊達政宗」により滅ぼされるのである。

熱塩温泉の看板を入るとこのあたりでは比較的大きな温泉旅館がありこの前の道を数百メートル進むと行き当たりになり「示現寺」がある。初めて訪れたのは平成9年末会津地方に初雪が降った翌日であった。30センチほどの雪を掻き分けて見上げる大きな山門と本堂はこれほど山奥にしては立派過ぎる異様を誇っていた。その境内に瓜生岩子刀自(トジ)の墓がある。彼女は明治時代この村で生まれ東京において福祉活動に尽力された女性である。「刀自」という老齢の婦人に対する敬称は和歌山の山林王の老女を誘拐する「大誘拐」という映画で使われていたので知ってはいたが、実際の使用は始めてみた。

山都町

会津盆地の北西に位置し飯豊連峰の懐にある町である。喜多方の町から車で20分ほどで着く。この町の蕎麦は「山都ソバ」と呼ばれるが特に「宮古地区のソバ」が有名である。山都の街中から車で15分ほど山の中に入ると宮古という戸数10数軒ほどの集落がある。この宮古でとれる蕎麦を使い、食べるその日に粉を挽いて食べるときに打って季節の山菜とともに出してくれる。ここの蕎麦は独特で普通の感覚で食べると戸惑ってしまう。会津の蕎麦は比較的腰のあるものが多く、ここの蕎麦もその例に漏れないが、その透明感はまるでコンニャクの様であり、蕎麦のにおいがまったくしない独特のものである。

私が妻と初めてここの蕎麦を食べに来たときに、一緒になった秋田からこられた男性の反応が面白かった。この男性はよほどの蕎麦通らしく、ひとしきり薀蓄を述べた後ご主人にまず水蕎麦を所望した。明らかに挑戦である。運ばれた水蕎麦を一気にすすりながら口に運ぶと、一時腕組みをして黙り込んでしまった。そして「わからん!わからん!」と唸るだけで頭をひねっている。ご主人が「どうです。」と言うと「蕎麦の匂いがしないし、今まで食べたどの蕎麦とも違う」と言って黙り込んでしまった。それを見ていたご主人が勝利の笑みを浮かべながら「蕎麦は挽いてから時間がたつと匂いがするが、引いた直後は匂いがしない。」といって暗に「あなたが今まで食べてきた蕎麦は挽き立てではない。」といっている。

そして飯豊山の水とここでとれた蕎麦だからこのような蕎麦ができると言っていた。私たち夫婦はこのやり取りをはらはらしながら見つめ宮古の蕎麦の虜になった。

ところでこの飯豊山は昔から女人禁制の信仰の山として知られ、会津の男子は13、4歳になると白装束に杖を持って登ったという。私たちもこの山に登ることを企画したがついにその機会を得なかった。この山はアプローチが長く日帰りが困難であり、どうしても山小屋に一泊する必要があったからである。夏でも雪渓が残りそのそばに高山植物が咲き乱れるお花畑があるという。この飯豊山の山岳信仰については山都町の編集した資料に詳しく書かれている。

高郷村

阿賀川が大きく蛇行する新潟県に近い村である。ここは阿賀川に露出している地層からクジラやダイカイギュウ等の化石が出る場所である。このあたりの岩は緑っぽい色をしている。阿賀川の流れが大きく蛇行しており発電所が作られ、流れがほとんど止まったようになる。そこには直線が1000mもある国体の行われた「荻野漕艇場」がある。

我が家とこの村とのかかわりは子供達と共にここの温泉に出かけたときである。温泉に至る山道を走っていると長男が「この山にはアケビがなっているよ。」というので車を止めると子供達はナイフを持って太いアケビツルのからまった木に登っていきすぐに10個以上のアケビを採って来た。すると長男が車の後ろからスコップを持ち出して藪の中に入っていった。数分歩いていると「自然薯を見つけた。」といって掘り始めた。子供達は数年前に私達の恒例の霞ヶ浦キャンプ(テントではなく仲間と家を借りて数日過ごす。)で東京都武蔵野市役所に勤める料理の上手い仲間から自然薯の見つけ方、掘り方を教えてもらい、自然薯を自分で見つけて掘ったことがあるのですぐに見つけられたのである。

それでも粘土に悪戦苦闘しながら1時間で2本の自然薯を掘って帰った。とはいえ何本かに折れてしまったがすりおろした天然の自然薯はヤマトイモにはない粘りでこくのある美味しいものだった。ちなみに温泉には入らずじまいであった。

西会津町

この町は会津の一番西にあり高速磐越自動車道の新潟県との県境にある町である。この町は会津三コロリ観音の一つ鳥追観音と大山祗神社で有名である

鳥追観音は西会津の中心地である野沢地区から国道49号線を横断して南に向かう山の途中にある。弘法大師と僧徳一が建立したと伝えられる。仁王門を入るとどっしりとした高い床の本堂の重々しい屋根と軒下の組木が見事である。西方浄土を表現した南向きで東に入り口、西には出口があり参拝後は西方の極楽へ導かれるという。これだけ山深い地において権力者たちが造った華やかな寺社に負けない庶民信仰の力強さを感じさせる見事なものである。

鳥追観音を過ぎて車で5分も進むと山道の終点に至る。そこにはお土産物屋が軒を連ねここを訪れる人が多いことを物語っている。ただ大山祗神社はここから山道を1時間30分ほど歩いた山の上にある。

私が妻と初めて訪れたのは参道の脇にアケビの実がなっておりそれを二人で採って食べたので10月の中旬であったと思う。途中には観音様があり夫婦、親子の愛情、自然に対する畏敬などほほえましい笑顔に満ちた石の観音様が置かれている。そして滝を過ぎたあたりから杉並木の中に苔むした石の階段がありそれから樹齢が百年を越した杉の並木が続く。会津の中でもこれほど荘厳な雰囲気を持った森はほかにないのではないかと思う。大山祗神社は大きな二本の杉にはさまれた本殿が建っている。本殿より一段下がった広場には2階建ての宿が建っており多くの人がここを訪れ宿泊するのであろう。

ここは1100年もの歴史を誇り、一生に一度はどのような願いもかなえてくれるという。それを教えてくれたおばあちゃんは「なじょな願いも聞きなさる。」と言っていた。

ところでこの大山祗神社の参道にはいたるところに新潟県の信者による寄進が多い。会津の人たちよりも明らかに新潟の人たちの寄進が多い。小さな観音様から先ほど書いた杉並の石段も寄進によるものである。6月になると西会津の中心地である野沢地区の街中にはのぼりが町中に立ち、大山祗神社の大祭があることを告げている。その昔西会津の町を流れている阿賀川(新潟県にはいると阿賀野川と呼ばれる。)は越後と会津の物流の中心であった。そのようなことがこの大山祗神社に県外の信者が多いことの理由があるのであろうか。

柳津町

この町は只見川沿いにある「福満虚空蔵尊円蔵寺」を中心とする街で最も会津らしい風情を持った町である。私たちが始めて訪れた日に1200年法要が行われていた。只見川の絶壁の上に建てられた円蔵寺はその荘厳さにおいて会津のどの寺に比するべくもなく、会津の赤べこのルーツとも言うべき歴史を持った寺である。

裸参りの鰐口1月7日には円蔵寺の光堂に集まった褌一本の男達が鐘を合図に梁に吊るされた大鰐口を目指して麻縄をよじ登る奇祭「七日堂裸参り」が行われ、冬の風物詩としてテレビで紹介されるので目にした方も多いと思う。昔、この地方で疫病がはやり虚空蔵のお告げで只見川の竜神の玉を奪って寺に奉納した。怒った竜神が取り戻しに来たのを、男達が阻止したと言う伝説にちなむものである。

円蔵寺の向かいの只見川には大きな二つの橋が架かりそこから見る円蔵寺は四季折々に訪れる人の目を楽しませてくれる。春は円蔵寺を包み込む桜の花が、秋は紅葉が只見川に映える。その橋の下には天然記念物に指定されているウグイが集まる渕があり、竹下夢路が「宵待ち草」を起草した場所と言われている。

ただ私はここの冬が好きである。流れの止まった只見川の黒い水面に向かいの山の真っ白な雪が映し出される。墨絵の世界である。そこに落ちずにかろうじて残っている柿の朱色が添えられると雪深い奥会津の原風景そのものがあり、版画家「齋藤清」の世界がそこにある。会津では柿の木の一番上にある柿を冬を越す鳥のために残すのだという。それを「布施柿」ということをこの町の老人から聞いた。会津らしい話である。

円蔵寺の見える只見川の向かいにこの会津を愛し会津の四季を描いた斎藤清画伯の美術館がある。彼は晩年この柳津に住み平只見川成10年にこの地でなくなった。この美術館には彼の海外での創作活動時代のものや日本中の自然を描いたものそしてこの会津の自然を描いたものが豊富に展示されている。画伯の版画はなんと言っても会津の四季を描いた晩年のシリーズがすばらしい。雪の景色を描いた作品を見ると先ほど述べたようにそこには会津の原風景とも呼べる世界が描かれている。会津を訪れたらぜひ訪ねてほしい場所である。

この柳津は粟饅頭で有名であり、円蔵寺の門前には多くの饅頭屋が並んでいる。その中でも岩井屋の饅頭の餡子はどこのものとも異なる独特の深みのある味である。ただサービスの良さという点では小池屋であろう。どこでもお茶を出し漬物をいただきながら饅頭を食べることができるが、ここはふかしたての饅頭をせいろから気前良くサービスしてくれる。何より店の人達の笑顔がいい。

追記 2004年5月11日毎日新聞「雑記帖」に小さな記事を見つけた。
「福島県会津地方の柳津町で県産アワを素材にした会席料理が考案された。ふきのとうをアワで包んだ「粟の俵作り」をはじめ「粟味噌田楽」等のコース料理に仕立てた。町振興公社の風土を生かした料理をの依頼で会津出身の和食薬膳研究科が創作。2日間水に戻してももちもち感を出すのに苦心した。町には江戸後期に消失した寺の住職が災害に遭わないよう願った「粟まんじゅう」が伝わる。今度は粟懐石を特産にという淡い期待も。」という記事である。
22日から町内のつきみが丘町民センターと西山温泉せいざん荘で3500円でサービスを開始するという。
この新聞記事の中にある寺の火災の故事は文政元(1818)年に町内の福満虚空蔵尊・円蔵寺が火災に遭った教訓から、災難に「あわ」ないようにとの願いを込め、粟まんじゅうが長年作り継がれてきたといわれている。

三島町

この町は柳津の隣にある只見川沿いにある町である。

この町に入ると「奥会津桐の町」という看板が目にはいてくる。ただ、この町は全国に先駆けて町おこしを推進した町であり、桐や陶芸の工房があること、美坂高原のハーブ園があること等は知っていた。何時かは訪ねてみたいと思いつつ冬の間毎週のように金山町にスキーに行くため通過してはいたのだが、ついに訪ねることはできなかった。

金山町

この町は我が家にとってホームベースの会津若松市についで重要な町になった。この町の町長さんはアイデアマンらしく会津地区の自治体の中では最も活性化しているように見える町である。

平成9年春、私に遅れて引っ越してきた家族が、新聞に載っていた沼沢湖の高台にある妖精美術館の「紅茶セミナー」に参加するために訪れたのが最初であった。ここを初めて訪れたとき、妻と二人感激した光景を今も忘れない。奥会津の春を迎えたばかりの若々しい緑の山々が、前日来の雨に霞み、その山の深さ以上にしっとりとした荘厳な雰囲気を醸し出していた。そしてそこには確かに何かが、いやそれはもののけではなく、フェアリー=妖精達が木々のこずえから草の葉の陰から私たちをのぞき見ているような不思議な気持ちにさせてくれた。

この妖精とは半年後にもう一度出会うことになる。後に述べるスキーのチームに参加して初めて美術館の向かいの山にあるスキー場に来たときのことである。そのときの感激を、私は「東山スキースポーツ少年団」に子供達が(いや家族全員である)参加した1年を書いた「Winter Game」というレポートに次のように書いている。

「妻と二人、一緒にリフトに乗り、一番上まで昇り、一瞬、息をのみ、顔を見合わせ、時間が止まった。・・東側の黒々とした山肌と空との切れ間から朝日が薄いピンク色に縁取るように輝き、ギリシャ最古の叙事詩「オデッセイア」の記述を借りるならば「朝のまだきに生まれ指バラ色の女神が姿を現す」瞬間の輝きを放っていた。

 あまりに澄み切ったが故に空の高さがわからないほど深い青空で、その「グランブルー」の中から白い羽をつけたフェアリー(妖精)が舞い降りてきそうな不思議な雰囲気の山頂である。・・・・確かに金山町には妖精がいる。」

妖精美術館には世界中の妖精の絵や人形等の資料が整然と集められている。この日、天気が不安定なためセミナーは予定していた美術館の前の芝生ではなく館内で行われることになった。館内には早稲田大学生の奏でるチェロが響き渡り雰囲気をかもし出していた。埼玉からこられた講師がそこで紅茶を立て方や作法などを語り手作りのケーキを出してくれる。さらにブラウニーケーキにまつわるヨーロッパの悲しい妖精の物語などが語られていた。妻は翌年もこのセミナーに埼玉の友人を招待して一緒に参加した。

ところでこの妖精美術館のある沼沢湖には熱塩加納村で紹介した会津領主葦名氏の祖「佐原十郎義連」が湖に住む大蛇を退治したと言う伝説がある。これにちなんで湖畔には大蛇資料館があり8月の第1土日に湖水祭りが開かれる。

そしてこの年もう一つ貴重な体験をした。それは金山町と只見町との境にある滝沢川で「第一回滝沢渓流祭り」が開催されることを新聞で知り、早速家族で出かけた。目的は子供達の渓流釣りである。私が会津に転勤することを一番喜んだのはその年小学校6年生になる長男で、ルアーフィッシングに興味を持ち始めていたため会津の地図を見ては「スキー場はいっぱいあるし、湖が多いから釣りができる。」と喜んでいたのである。

私たち夫婦は釣りには興味がないため、子供たちをおいて地元の人に連れられて滝沢川の上流の滝まで散策することにした。7人ほどのメンバーであったが私たち2人を除いて皆地元の人たちであった。リーダーの斎藤さんという山の専門家に連れられて1時間ほど歩き大きな石の洞穴に着き、この山やこの渓流の話や昔のダムができる前の清流であった只見川について話を聞いた。すると私たちの持っていた無線機に次男から「7N3BMJ(私のコール)こちらは7K4GGT(次男のコール)です。TPV(長男コール)が大きな魚を釣りました。」と山の谷間のため電波が切れ切れではあるが興奮した声が聞こえてきた。急いで釣りをしているエリアに行くと、子供たちが興奮した大人たちに囲まれて釣りをしていた。そして子供達が自慢げに見せた魚は50センチ程もある大きな虹鱒だった。大人たちもあまりの大きさにビックリして彼らのところにきては話し掛けていた。

長男はルアーをはじめて、本当に最初のヒットがこの大きな虹鱒になった。その後にも5匹ほどの虹鱒をヒットした。また次男も生まれて初めてルアーによって虹鱒を数匹ヒットした。そして計量の結果長男が大人たちを押しのけて大物賞を獲得し大きなトロフィーをもらってきた。この日は子供たちにとって会津にきて強烈な思い出の一日になった。

翌年第2回大会が開かれたがそのポスターには長男が大きな虹鱒を持って誇らしげに微笑んでいる写真が掲載されていた。

そして我家が会津を離れる1週間前に天栄村の「レジーナの森」というキャンプ場のフィッシングサイトに朝早く出かけ、初めて釣ったのと同じくらい大きな虹鱒を釣り会津でのフィッシングを締めくくることができた。

その時参加者にこの地区の名物炭酸水が振る舞われていた。甘味のないサイダーである。この地区では炭酸水が湧く井戸がある。妻と二人で只見を訪ねた帰りにはじめてこの井戸を発見した。JR只見線会津大塩駅の側の国道252号線を少し山際に入ったところにその井戸はあった。しかし、そこには「この水は飲用にはならないため、自己の責任にて。」という看板があった。

フェアリーランド金山スキー場

私達は会津にきて「東山スキースポーツ少年団」に参加して競技スキーの世界に身を置いた。会津若松市には平成9年の春まではスキー場があった。東山温泉から車で20分ほどのところにあった「おおすごスキー場」である。しかし、このスキー場は経営不振で同年をもって閉鎖されることになったため、私たちが参加したスポーツ少年団もポール練習ができるスキー場を求めて会津若松から50キロ以上あるここにやってくることになったのである。

このスキー場はその名も「フェアリーランド金山スキー場」最初リフトが2本の小さなスキー場であった。先ほど紹介したように、やはり妖精の住むスキー場なのである。しかし、ここの町長の判断でこのスキー場は将来をになう少年レーサー達に練習の場と試合の場を与えるという戦略に基づいていた。会津のほかのスキー場は競技レーサーにゲレンデを開放しようとはしなかった。このスキー場は会津若松から遠いため、それほど多くのスキーヤーが来るわけではない。ところが土日はここのクラブハウスはヘルメット姿のレーサー達とその関係者でいっぱいになる。それに福島県内の大きなスキーの公式戦「県スポ少大会」と「JTB杯」がここで開催され、県下のほとんどのレーサー達が集まる。民宿は全て埋まってしまう。地域の経済戦略としても成功しているのである。

またここはスキー大会のための専用の施設がある。山頂のログハウスの小屋はスキーの試合のスタートハウスであり下部のゴール地点には大会の進行を指揮し成績を集計する専用の小屋がある。ワールドカップが開かれるスキー場でも専用のスタート小屋を持っているところはほとんどないという。

子供達は10年、11年のスキーシーズン1月から3月まで毎週土・日はこのスキー場にポール練習と試合にやってきた。平成12年のシーズン私は甲府市、家族は埼玉に住んだためここに2回しか通うことができなかった。しかし、我らがチームの内輪の大会が開かれたため3月に家族でやってきてこのスキー場で会津での最後の滑りをした。

このスキー場は我家に雪国会津で過ごした最高の財産を与えてくれた。子供達は人生の財産となる滑りを教わり、長男が中学2年生でSAJのバッジテスト1級に合格する足前にまでに育ててくれた。そしてここで一緒に過ごした会津東山スキースポーツ少年団やそのスキー関係者との付き合いは私たち家族の人生の財産となったことは疑いがない。

昭和村

この村は会津盆地の南にきれいな三角錐の形をした小野ヶ岳とその右側の大きな広がりのある博士山の大きな山が目に付くが、その博士山の裏側に位置している。

会津からこの博士山を越えて昭和村に入る道と南会津の田島町から入る道は冬は雪で通行止めになるため、只見川沿いの金山町からしか入ることができず、会津若松からは1時間30分以上もかかる。その意味では会津のチベットと呼ばれるのもうなずける。

この村はカラムシ織りで有名である。1m50cmほどのカラムシを夏場に刈り取りその茎の一本づつ剥ぎ取り、糸引きがなされる。それを織姫と呼ばれる女性たちが機で織るのである。カラムシは軽くて弾力性にとみ肌触りがさらっとしており麻に似ている。かなり高価な織物である。カラムシは昔、日本中いたるところで栽培されていたらしいが現在では沖縄と本州ではここ昭和村だけである。ところでこのカラムシを織っている織姫であるが高齢化が進み若い織姫がいなくなったため公募で全国から募集して研修したのちもこの地に残り暮らしている女性が多いと聞いた。このカラムシについては昭和村役場の裏にある「カラムシ会館」で見ることができるし、カラムシを刈り取りから糸引き、そして織まで経験できる体験コースもある。

この昭和村には変わった民宿「へんじん房」がある。会津でこの民宿の話を聞いて妻と二人訪ねてみた。ところがその日は営業をしていなかった。私達が若松から訪ねてきたことを話すと中に入れてお茶を出してくれた。神奈川で建設業をしていたとのこと、昼間は注文しておくと昭和村のそばを食べることができる、今は町の小さな寄り合いの場所になっていることなど楽しいひと時を過ごすことができた。私の燻製に話になり次に来る時に届けるという約束をしたのだがその後たずねることができなかった。

その他古い民家の廃材を使った家を集落がある。この集落ができたばかりで廃材を使ったとはいえ家自体に落ち着きというか風格が出るまでには至らず、回りも分譲したての庭先のようにまだまた落ち着いた町になっていない。とはいえ数年するとこの廃材をつかった家がこの山奥の自然に溶け込んだ場所になっていることは想像に難くない。

只見町

会津の一番西に位置し、会津から新潟県小出に抜ける山を越えれば新潟という県境の町である。

尾瀬の沼の水を集めた三条の滝から流れ出した水は奥只見湖、田子倉ダムを経て只見川となって日本海に注いでいく。これらのダムは昭和30年から首都圏の電源を開発するために建設された。首都圏の生活はこのような会津の山奥のダムによって一部が支えられていることに驚かされる。田子倉ダムはキャンプ場やボートの盛んな場所になっている。

国道252号線を金山町から只見町に入ると会津塩沢駅がある。そこには戊辰戦争で名をはせた悲運の武将長岡藩家老河井継之助終焉の地である。長岡藩は戊辰戦争において当初中立の立場を守り、旧幕府軍と新政府軍を和解させようとしたが、征討軍軍監長州藩士岩村精一郎に聞き入れられずに奥羽越の列藩同盟を結成し、総督となって各地で善戦した。しかし、占領されていた長岡城を奪還した際、右足に銃弾を受け奮戦するも長岡は再び西軍に占領された。そして会津で再起を図るべく八十里越えをして只見の塩沢に辿り着いたが傷が悪化してここで死去したのである。

会津塩沢駅から少し下流に下った場所が奥会津の只見川の四季と自然を代表する写真撮影のポイントになっている。流れが止まった雄大な只見川の側を国道が走り、その隣をJR只見線が走っている。早春の新緑、晩秋の紅葉、時間が止まったような奥会津の雪がこの只見川の水面に雄大に映る場所である。冬の朝早くここを走っていたとき、前方から除雪車が道路越しに線路の雪を吹き飛ばしてきた。その吹き飛ばされた雪のトンネルの中をくぐり抜けた時は「雪深い会津でもでもなかなかできない経験だね」と言って感激したことがある。

只見町の入り口には東北のマッターホルンと呼ばれる「蒲生岳」が鋭くそびえている。私はこの町に雪が解けた4月の始めに仕事で訪れた。里には雪は無かったが山に残る只見はまだ肌寒かった。只見の町から南郷に向かう途中の橋のたもとで妻の作ってくれたおにぎりを一緒にきた社員と2人で食べていると、「県の人かいね。そんなところで食べてないで家に上がってお茶でも飲まんね。」とおばあちゃんが声をかけてくれた。スーツ姿で川を見ているのが川の状態を見にきた県の役人に見えたらしい。このおばあちゃんにこの河原にタラノメやこごみが採れること、目の前を飛んでいった大きな鳥が「ヤマセミ」でこの辺では多く見かけることなど教えてもらった。

南郷村

この村は会津から田島町を過ぎて駒止峠(コマドトウゲ)を越えると只見から桧枝岐につながる沼田街道と合流するところにある小さな町である。高級トマトを産する町である。雪が多く、平成11年1月には1日で1メートル20センチ以上積もり、その日のニュースでは全国で3番目の積雪だと伝えていた。私はその翌日に仕事でこの町の取引先を訪ねた。当然長靴をはいての営業でありそれが誠に自然なのである。「この雪の中良く来たな」と歓迎された。

ここはお酒の美味しい会津の中でも「花泉」という清酒で有名である。私もその話を聞いたため新酒が出る頃になるとこのエリアを担当する社員に頼んで買ってきてもらっていた。会津でも買うことができるが値段がかなり高くなるようである。会津には酒蔵が多く蔵の軒下に杉の葉を丸めた酒林が下げられている。新酒が出はじめるとどの酒屋にも「花泉入荷しました。」という札がかかり会津に新酒の季節を告げるのである。

伊南村

この村は尾瀬の入り口である檜枝岐村の手前の村で只見川の支流伊南川沿いにある村である。町の中には民宿が多いので聞いてみると、釣り人が利用する民宿だという。この伊南川は東北でも屈指の鮎の宝庫なのである。

そういえば98年NHK教育テレビの趣味の講座「釣り入門」の1回目はこの伊南川での川釣りだった。ここの鮎の解禁は7月中旬と遅いため鮎がほかの川より大きく育っているという話を神奈川県から毎年仕事を休んで釣りに来ているという人から聞いた。この人は「伊南川の鮎は日本一だよ。」といっていた。

伊南川の沿って尾瀬へと向かう道は旧沼田街道である。沼田街道を尾瀬に向かって進むとこのあたりで唯一の大きな交差点に行き当たる。その道を左折すると会津高原を経て那須塩原、鬼怒川、日光方面へ続いている。

そしてその先に「高畑スキー場」があるがこれがなかなかコースレイアウトがすばらしくファミリーから上級者まで楽しめるスキー場である。

このスキー場の近くに歌舞伎舞台「大桃の舞台」がある。杉木立に囲まれてひっそりとたっている。この舞台の藁葺き屋根の造りが独特で趣がある。紙で作った兜の形をした屋根といったイメージである。このあたりは藩政時代、「南山お蔵入り」といわれた天領であり、それぞれの場所で歌舞伎がおこなわれていた名残である。

少し進み檜枝岐村に入る手前のスノージェットトンネルの中ほどに突然左折できる場所がありそれを入り橋を渡ると「小豆温泉」がある。ここの「窓明けの湯」は男女いずれも大きな湯船を持ち一番の特徴は桧枝岐川を隔てた向かいの山の四季の移り変りを楽しめることである。この向かいの山は切り立って湯船から空を見上げることすら難しく、春先には萌え出でる木々の緑を、秋は一面を染める紅葉を、冬は雪景色を楽しむことができる。

舘岩村

この村は田島町の南に位置している会津高原のたかつえスキー場のある場所である。

スキーシーズンになると浅草を夜中に出て会津高原ですべるスキー列車が出る。その目的地がこのたかつえスキー場と会津田島町の大鞍山スキー場である。

さらに関東から桧枝岐村を経て尾瀬に入る入り口でもある。このスキー場は上部に少し急斜面はあるもののほとんど緩斜面の初心者向けのスキー場である。

この舘岩村はなんといっても木賊温泉と前沢集落の曲屋であろう。木賊温泉(トクサオンセン)は川沿いに簡単な風よけがあるだけの混浴の露天風呂で人気のある秘境の温泉である。

前沢の曲家集落は東北地方に良く見られる家畜と住居を共にするL字型の茅葺屋根の農家であり、集落の入り口に水車小屋がある風情のある場所である。とはいえ東北の山深い田舎の原風景がそこにあるだけなのであるが。

下郷町

この町は会津若松市の南隣の町である。会津盆地を南下する日光に続く国道121号線は阿賀川沿いの渓谷地に入り会津若松の東山温泉と並ぶ奥座敷芦ノ牧温泉を抜けると南会津郡下郷町である。塔のへつり

この町は阿賀川が長い歳月の間に大地を深くえぐってできた町である。川は深い谷の底にあり、独特な景観を造っている。その中でも「塔のへつり」が有名である。川によってえぐられくぼんだ奇岩はまるで中国の仏塔がいくつも林立しているように見える。ここは岩が白っぽいため川の深い緑や周囲の草木とのコントラストが見事であり。紅葉の季節には白い岩肌と紅葉がすばらしい。この川の上を第三セクターの会津鉄道が走っているが、季節になると運転手が鉄橋の上でスピードを落とし少しだけではあるが景観を楽しませてくれる。この「へつり」を広辞苑で引くと「東日本で、山中の岨道(ソバミチ)、絶壁や川岸などの険岨な路などをいう。福島県会津に「塔のへつり」という名勝がある。」とある。

塔のへつりから少し会津若松よりに戻ると30軒ほどの宿が軒を並べる湯野上温泉がある。この温泉の名物はなんといっても会津鉄道「湯野上温泉駅」であろうか。国道沿いの桜並木の下にある藁葺き屋根を持つ駅舎がある。切り立った茅葺の屋根は重々しく歴史を感じさせる。古の会津があるといった方がいいのかもしれない。特に桜の季節の夕暮れに訪れることを薦める。駅舎をしめす灯篭と桜のコントラストが幽玄の世界に導いてくれる。

この湯野上温泉の入り口にある橋の手前を山側に右折して6キロも入るとそこが「大内宿」である。

 会津若松から栃木県今市に抜けるかっての西会津街道の宿場町として栄えた。会津藩主の参勤交代もこの宿場を利用して行われたが、白川街道が開かれてからはこの街道が使われることはなくなった。

2百メートルほどのなだらかな坂道の両脇に水路が掘られておりビールやらラムネなどを冷やしている。水路から5メートルほど奥まったところにきれいに町並みが保存されている。これらはほとんどが藁葺き屋根の民家である。店には会津の伝統の産物やこの村で取れた豆やつきたての栃もち、奥様方の手作りの小物やリースが売られている。

大内宿町並みの奥まったところにある山形屋さんは馬小屋や風呂場など江戸時代の風情をそのままに残している。会津にきて初めてここを2人の息子達を連れてやってきたとき次男Kがこの軒先で突然歯が一本抜けたのである。それを見ていたこの屋のご主人が「上の歯が抜けたのなら、家の床下に入れておけばいいよ。」と笑いながら声をかけてくれた。私たちはお言葉に甘えて山形屋の床下に次男の子供の歯を投げ入れてきた。そして山形屋は我が家にとって特別な場所になったのである。それから妻と真冬を除いて年に何度もここを訪れ、いろんなふれあいがあった。妻の秋田の両親を山形屋さんに連れて行ったときにこの歯の話をしたらご主人は覚えていていただいた。

この大内宿の名物といえばこの宿場の入り口にある三沢屋さんのネギ1本で箸代わりと薬味にして食べる蕎麦と「ジュウネン味噌」であろう。十年ごまの味噌であるが、ここのお味噌は田楽を作るときに使うと香ばしい独特の香りが美味しさをひときは引き立ててくれる。

田島町

会津を出て121号線を南下し下郷町を抜けると田島町に至る。この町は栃木県塩原町に隣接しており関東の人たちにとって会津高原という呼び名の方が通りがいいかもしれない。浅草から3時間東武鬼怒川線で来ることができる一番近い会津である。

このあたりは藩政時代、幕府の直轄地で「南山お蔵入り」と呼ばれて会津若松とは異なる歴史と文化を持っている。ただ、会津にいた2年9ヶ月の中で会津若松の歴史の検証はしてきたがお蔵入りの歴史の検証までは手が回らなかった。その中でも祇園祭は800年も前から続いているお祭りで国の重要無形文化財にも指定されており振袖に角隠しという花嫁衣裳に身を包んだ行列が続く「七行器(ナナホカイ)行列」がおこなわれる。その様子は「会津田島祇園会館」で立体模型やジオラマを使って紹介されている。

私達は平成9年に会津にやってきて早速フリーマーケットに参加した。私たちが古着を売っていたブースの側のお茶屋さんでふたにカエルが付けられその握りに小さなさいころが入れられてコロコロと鳴く不思議な万古焼の急須を見つけた。定価が1個2500円以上もするもので、店の人の話ではなかなか手に入らないものだという。

取引先の社長から田島の町から会津高原に向かって6キロほどの荒海という地区の郵便局の前にあるという話を聞き訪ねてみた。そこには万古焼「勝三窯」とかかれていた。ガラス張りの工房には窓際に憧れのカエルのついた焼物が並べられていた。この窯の主であるおじいちゃんが出てきて福島県下の万古焼のことこのカエルのいわれ、この勝三焼のファンについて話してくれた。それから妻と何度となくここに通い、知り合いへのプレゼントや自家用にと使っている。ゴールデンウイークの前など関東の顧客からの注文で在庫がすくなるといっていた。ちなみに会津若松で買うより1000円は安い。私たちが立ち寄った時など関東ナンバーの車から降り立った夫婦がやっと自分たちの好みのものを誰にも邪魔されずに十分に選ぶことができるという感じで「これもいいわね。」「これもいいよ。」といいながら買っていく姿が印象的だった。

万古焼は赤茶けた日本古来の庶民の焼き物である。ただここ勝三窯の焼き物は普通の万古焼よりも表面のつやがなく少し黒っぽく落ち着いた色合いが特色である。またカエルや葡萄の飾りをあしらったことにより万古焼の持つ古臭ささがなく、洋風の利用にもでき若者にも受け入れられるものである。会津高原に来たらぜひ立ち寄る価値のある場所である。

檜枝岐村

檜枝岐村は福島県の南西に位置し新潟県、群馬県、栃木県の3件に隣接した名の通り奥会津を代表する山奥の里である。

 私がこの村を訪れたのは尾瀬に関するカードの募集を尾瀬の山開きにジョイントさせてもらう提案のため桧枝岐役場と山小屋組合の責任者と協議をするため、私のアウトドアライフの一番の理解者でありアドバイザーである妻と共に訪れた。平成9年4月の末、春を向かえて木々の緑が萌え出でる頃であった。この頃会津若松市の鶴ヶ城は桜で満開だったのであるが、さすがにここ桧枝岐まで来ると里でも木々はまだ芽吹き始めたばかりで、その新緑は目に鮮やかであった。役場のある里から山道を20分ほど進むと尾瀬の入り口御池の駐車場にでた。ただそこは雪の世界であった。駐車場の周りの雪はやっと車を迎え入れるために除雪が行われたばかりで道の脇には3メートルもある雪の壁があった。

この年、御池のロッジが新装オープンされ、そこの責任者と打ち合わせのために背広できたが誠に場違いな格好であった。

帰りに役場の観光課長さんに教えてもらった蕎麦屋を訪ねて桧枝岐名物の裁蕎麦と「はっとう」を堪能した。このとき食べた「はっとう」がいまだに会津で一番美味しいものだと思っている。ちなみのこの「はっとう」はそば粉を平たく伸ばしてひし形に切り出し、湯に通したものに十年ゴマ等をかけて食べるものである。このソバがあるため普通のそばを(タチ)ソバといっている。その昔ここの殿様がこれを食べてあまりに美味しかったので、村人にこれを食べることを禁じた「ご法度」からきているという。ちなみに美味しいソバは他にもあるのかもしれないが、私と妻は民宿「やまびこ山荘」のソバが好きである。

それにつけてもこの村は「星さん」という苗字が多い。まず訪ねた役場の観光課長も御池ロッジのマネージャーも木工品展示場の責任者もみな星さんで、観光課長さんは私に名前で教えてくれた。この村は星さんという名前のほかに橘さんという名前も多く、妻によると発音は会津のそれとは異なるという。

六地蔵

役場を過ぎるとそこに六体の石の地蔵様がある。その昔、貧しかったこの村では飢饉のときに口減らしのために間引きが行われていた。この子らの霊をともらい、母親の嘆きを慰めるために作られたものだという。

その先に国の重要有形民族文化財に指定されている「桧枝岐歌舞伎舞台」がある。5月、8月、9月に各1日村の有志の花駒座により200年以上受けつかれている農民歌舞伎が上演される。平成11年に歌舞伎上演の最中に舞台の屋根裏から火が出て屋根を燃やしてしまったがその後すくに復元された。

尾瀬

桧枝岐は福島からの尾瀬への入り口である。御池の路地の駐車場から9キロほど進むと沼沢峠があり1時間ほどで尾瀬沼に出ることができる。尾瀬に入るには群馬の鳩待ち口ほどではないにしても楽なルートである。それゆえトップシーズンには歩くのが困難なほどごったがえすルートである。長蔵小屋

私たちは会津にいる間に一度だけ尾瀬に入る機会を得た。平成10年10月の末、妻の秋田の両親が、稲刈りが終わったのでぜひ尾瀬に連れて行ってほしいという希望で行くことになった。子供達が学校に出る土曜日だったため東山小学校の校門前で子供達を拾い出かけた。シーズンも終わりで沼山峠行きの交通規制もなく2時間30分走り、3時半に峠に着いた。73歳の義父と60代後半の母親は私達が会津に引っ越してきた日から会津の虜になり米作りの合間を見ては年に何回も訪ねてきて会津の町を楽しんでいたのである。

峠の茶屋の前で身支度を整え、15分ほど登るとすぐに尾瀬沼に降りる沼山峠につきそれから40分ほどで尾瀬沼に出る。行き交う人からは「三世代登山ですか。いいですね。」と声をかけられる。この日が今シーズン山小屋の宿泊できる最後の日ということもあり人もすくなく静かな晩秋の尾瀬を楽しむことができた。

尾瀬沼沿いに有名な長蔵小屋があるが私達は山沿いの国民宿舎尾瀬沼フュッテに泊まることになっていた。尾瀬の山小屋は数年前から排水による沼の富栄養化と自然保護のために山小屋はすべて予約制で料金も以前よりかなり高く7500円ほどになっていた。

私達の部屋は2階の端の部屋で尾瀬沼の北側にそびえる燧ケ岳(ヒウチガダケ)が正面に見える部屋であった。ところがこれから尾瀬に関して一般人と尾瀬を理解する人達の大きな意識の違いを認識させられるハプニングが続出することになる。お風呂に入ることになりほかに入浴している人がいる狭い浴場で親父様が突然「石鹸もない風呂なのか!」などと大きな声で言うため「お父さん、山ではお湯を使えるだけでありがたいので、尾瀬ではシャンプーは自然保護のために使えないのですよ。」と説明したが、周りのお客の視線が冷たかった。

又、夕食のために食堂のテーブルに自分達でハンバーグにサラダそれに味噌汁にご飯という食事を並べると「情けない食事だな」等というもので「山小屋でこれだけの食事をできるだけでありがたいことなのですよ。」といって理解してもらった。

我々にとっては山小屋で暖かい食事ができること自体がありがたいことなのだが、尾瀬を観光の場所と思い山小屋も普通の旅館と同じと思っている旅行者にとってはこのような感想になるのであろう。

翌朝6時には目を覚まし、食事を済ませ霜がおりた木道を歩き始めたのは7時少し過ぎた頃であった。東の山の端から登り始めた朝日が差す木道には、脇の草の陰が朝日により霜が融けずに形を残すふしぎな光景である。

尾瀬沼の北岸を燧ケ岳に向かって歩くと少しアップダウンはあるものの山歩きの初級者や高齢者にも比較的楽なコースである。1時間も歩くと尾瀬沼の水が唯一外に出る沼尻平に出る。そこから見上げる燧ケ岳は青い空に東北一の高さを誇っている。それから少しだけ山道を登るが一時すると尾瀬沼から流れ出る谷川の音を聞きながら尾瀬ヶ原の見晴らしまでひたすら下ることになる。わたくしが今回このルートを選んだのは老人にも山をほとんど登らずに尾瀬沼と尾瀬ケ原、そして三条の滝を楽しめるからであった。

木道と東北一のひうちが岳見晴らしは遠くに至仏山を背景とした湿原の中を木道が遠くに伸びていく写真で尾瀬のイメージとして一般に良く知られた場所である。長蔵小屋など多くの山小屋があり脇にはこのあたりで唯一許されたキャンプサイトがある。このキャンプサイトで持ってきたバーナーでお湯を沸かし、カップラーメンをスープにして山小屋で作ってもらったおにぎりで昼食とした。そしてコーヒーとお茶を入れ晩秋の優しい日差しを受けながらゆったりした尾瀬のひと時を楽しんだ。

1時間ほどやすんだ後、尾瀬ヶ原に向かって歩き始めすぐに右折して1キロほども歩くと大きな山小屋が窓に戸板をつけて屋根に布団を干し、山小屋を閉める準備をすすめていた。そこの山小屋で炭酸飲料を買い一休みして一つの決断を家族に伝えた。実は、沼山峠まで車で行ったため、それ取りに行くために御池のバスの時刻に間に合うように一人別の道をたどる必要があったのである。そこで長男に地図を渡し「これからおまえがリーダーになってみんなを三条の滝に連れて行き、御池まで連れてくるよう。」と指示をして一人燧ケ岳新道を歩き始めた。黙々とかなりきつい山道を誰にも会うことなく2時間ほど歩き御池に思ったより早く着いた。バスが檜枝岐村から上がってくるまで少し時間があったので国民宿舎御池ロッジのマネージャーを訪ねた。すると「ひさしぶり!O社の支店長さん。」と大きな声で現れた。1年半前の出会いを覚えていてくれた。先に書いた尾瀬の山開きのイベントのときに一度会っただけなのであるが、山開きの前日このロッジに派遣した会津若松支店のスタッフに私の自慢のスモークチキンを持たせて夕食のときに振る舞い好評を得たのである。これが翌日のカードの募集にもいい影響があり、山小屋のスタッフもかなり協力してくれたらしい。「あのときのスモークは美味かったですよ。」というので「あのイベントは私が一番来たかったのですが、来られずに残念でした。」と言うと笑っていた。その後、再会を約して沼山峠行きバスに乗った。

 沼山峠から車を御池におろして30分ほど待つと、山道から子供達と両親が疲れながらも嬉しそうな笑顔でおりてきた。

私と別れた後、長男は家族を地図を頼りに三条の滝に連れて行き、疲れて荷物を背負うのをぐずった弟のリュックを自ら背負い、三条の滝から40分ほどの急な登りも先頭にたって誘導してきたらしい。妻の話によると、この急坂を登りきったところでリーダーとしての緊張の糸が切れ「僕、もうリーダーはいいよね!」といったらしい。両親には「三条の滝で感激した後に尾瀬で一番急な場所があり、1時間は心臓がはじけそうな思いをする。」ということは尾瀬に入る前にわびておいた。それでも、この急坂とそれから後の2時間の山道はきつかったらしく、「最後の30分は涙が出そうだった。」と言っていた。とはいえこの旅は両親にとっては会津での一番の思い出になったらしく秋田に帰り老人会の会報に尾瀬紀行を書いて好評を得たらしい。いまだに尾瀬が「一番の冥土の土産」といっている。

あとがき

今、私は富士山、南アルプス、そして八ケ岳が見える甲府市のマンションでこれを書いている。

私の会津での2年9ヶ月の出会いを紹介した。プライベートタイムは意識的に会津中を走り回った。そしていろんな人に出会い話し掛け、いろんな話を聞かせてもらった。「会津の三泣き」といわれるように「会津のよさは人情である。」と聞かされていた。それは間違いない事実であると実感している。いろんな人との出会いが会津を私と我家にとって特別な場所にした。「会津若松市編」は歴史的な拘りが多かった。それは私が会津とは特別な関係にある薩摩の出身であることに起因していることは事実である。関係者はそのことを危惧しつつ私を会津に送り出した。
ただ、今ではこのことを心から感謝している。

最後に、この「会津見て歩記」二編を、私以上に会津を愛しており、これを監修してくれた会社の先輩伊藤氏と、我家を心より迎え入れてくれた会津の人たちにこれを捧げて終えることにする。


HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町