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飯盛通りから東山温泉

 飯盛山通り(観光パンフレットでは「いにしえ夢街道」となっている。)は、一箕町の「大塚山古墳」から始める。この古墳は東北で最初に確認された「前方後円墳」である。この発見により大和朝廷の時代に東北に大きな勢力を持った豪族が居たことと中央文化の影響を受けていた事が確認されたのである。

 大塚山古墳から数百メートル飯盛山に向かって進むと住宅の切れ間から田んぼが広がり其の中腹に大きく枝を広げた木が見えてくる。川を渡り「春の小川はサラサラ行くよ・・」と歌いたくなるような畦道を4〜5分ほど歩くと樹齢600年の「石部の桜」が優雅に立っている。石部桜は会津を芦名氏が治めていた時代に重臣であった石部氏が邸を定めていた場所であるところから「石部の桜(イシベノサクラ)」と呼ばれている。

 この桜の木は8本ほどの木が立っているように見えるが実は1本の桜の木である。「会津五桜」の代表に数えられる。98年の春にはテレビ朝日の「ニュースステーション」の中継が行われた。中継用のプロが行うライトアップは見事で其の後他のライトアップを見るといささかがっかりしてしまう程の光の強さとアングルであった。

 会津にはこの桜の他に会津高田の「虎の尾桜」、「薄墨桜」、会津坂下の「杉糸桜」、猪苗代の「大鹿桜」がありこの五つを「会津五桜」といっている。それ以外にも名前のついた桜が多いのも会津の特徴である。これらの桜は樹齢が古いため花の勢いは落ちているがそれぞれの木の存在感は格別である。この桜の前に立つと思わず「ねがわくは花のしたにて春死なんその如月の望月の頃」という西行の歌が口をついてしまう。

 会津の桜は鶴ヶ城のソメイヨシノを除きほとんどそれ以外の種類の桜である。石部の桜はエドヒガン桜でありソメイヨシノのように華やかさはない。ただ五桜の中でも花の多さ華やかさは格別である。

 旅行会社のJTBも「会津五桜を見る旅行」という企画旅行をおこなっているが、これは事実上不可能である。というのは、この五桜は石部の桜を最初に高田の薄墨桜と順に咲いて行き最後に猪苗代で咲くのは半月近く後であり、一時期に見る事はできないのである。

とはいえ最初に咲く石部の桜は見事で、その感激にしたった後、観光バスで会津高田の花のない虎の尾桜に連れて行かれまだ蕾の木を見て「これが虎の尾桜か!」等と感激しているのはなんともおかしな光景である。

 会津の桜について一つだけ付け加えるならば、見事さという点では鶴ヶ城の三の丸口にある県立博物館の駐車場の「コヒガン桜」である。県立博物館ができたときに保科正之公の以前の領地長野県高遠町から贈られたものである。小ぶりの薄紅のコヒガン桜は樹勢があり若々しく、そのとなりにある陸上競技上の満開の白いソメイヨシノを背景にして一段と華やかである。

 長男はお城の前の若松第2中学校に通っていたが、全体が桜で埋まる陸上競技場で練習をし、試合をするのが何よりも自慢であり、そして競技場の隣の薄紅のコヒガン桜が綺麗だといっていた。

 石部の桜を過ぎるとすぐに飯盛通りと旧滝沢街道(白河街道)の交差点に出る。その左側に旧滝沢本陣跡がある。滝沢街道を進むとすぐに左折するが、それを曲がらずに直進すると山道に入るとそこは白虎隊士が意気揚揚と歩いた道である。

途中の滝沢峠に松尾芭蕉の「ひとつ脱いでうしろに負ひぬ衣がえ」歌碑が立っている。そして一時間半も歩くと猪苗代湖の戸ノ口に近い強清水(コワシミズ)に至るのである。長男の小学校の行事でこの道を家族で歩いた事がある。雨の中で歩いたが楽しいトレッキングであった。

 このとき引率してくれた先生から、この句碑は松尾芭蕉が奥の細道の道中この会津を訪れてはいないが、会津の歌人たちがそれを残念がって建てたものだという事を教えていただいた。

 滝沢本陣の交差点を右折して坂を下るとそこに「妙国寺入り口」という看板が見えてくる。

白虎隊が自刃した後、お触れにより遺体の埋葬を禁止されていたのを不憫に思った土地の肝煎(今の区長さんか)が処罰を覚悟で仮埋葬した寺であり、戊辰戦争で会津藩が降伏した藩主松平容保公親子が謹慎した場所でもある。

 滝沢の交差点をそのまま進むと、すぐに飯盛山の参道であり多くの観光売店が並んでいる。思うにここの売店には特に名物というものがあるわけではない。当然のこととして白虎隊のグッズがあるがほとんどがキャラクター化されたもので、白虎隊の悲劇性や本質が具現されたものはない。

 ここの名物といえばいくぶん批判めいて聞こえるかもしれないが各売店の客引きの姿であろうか。駐車場の前に立ち小旗を持って観光客の車を駐車場に誘導する姿は異様に映る。

毎日前を通る私達の車を見ても誘導する。「2年も通っているのだからいいいかげん覚えろよ!」といいたくもなる。この光景は私だけの感想でなかったようで99年の春に福島の地方紙で取り上げられ、多少問題になり、自粛の方向であるなどと書かれていたが、観光シーズンになると相変わらず異様な光景が繰り返されている。背に腹は代えられないのである。

 飯盛山の「セブンイレブン」の後ろが白虎隊自刃の地である。ここから長い下り坂になるが、その山側に「オーク・ビレッジ」という一見すると喫茶店に見間違えそうな小さな家具屋がある。狭いながら店内にはおしゃれな小物とセンスのいい家具が並べられている。奥様が描く綺麗なトールペイントと共に大人の目に耐えるエレガントな品がある。観光の途中で是非尋ねて欲しい所である。

 その先には「駄菓子資料館長門屋」がある。会津の庶民が口にしてきた駄菓子の老舗である。一階には駄菓子が所狭しと並べられており、入り口の右側には会津のどこのお菓子屋でも見られるお客様が御茶を飲みながら休む場所がある。2階には菓子を作りの昔の道具が並べられ、昭和30年代までどこの町でも見られた駄菓子屋のガラスケースの中に昔の子供のお菓子やカルタ、クジ等が色あせながら詰まっている。子供の頃竹ヒゴを曲げ、紙を張り、ゴム動力で飛ばした模型飛行機、剣玉、着色料一杯のゼリー菓子、35歳以上の人達が見たら思わず「懐かしい!」と口をつくのは間違いないものばかりである。いっときタイムスリップしてしまう空間である。

 長門屋の斜め向かいには「鈴木鮮魚店」という魚屋が有る。ところがここは日頃、店は開いているのにお客さんが店を訪れている光景はほとんど見られない。月に1回だけたくさんのお客さんが並んでいる。そのときにはかなり安い値段で販売されるらしく、遠方からお客が買いに来るほどである。会津のこの当たりの魚屋はこのような店が多く不思議に思っていた。それは、一般客に販売するのでなく東山のホテルや旅館に卸すことを専門にしている魚屋なのである。

 ここはかなり良いものを販売しており、我が家はこの4軒隣に住んでいる(いた)為、会津名物の山椒漬け用の鰊を友人の注文も受けて、月に5箱以上買付けていた。買付けてくる鰊の量の多さを見て私はまるで「仲買人だな!」等といってからかっていた。

 坂を下りて行くと中間当たりのところに「赤ベコの番匠」がある。会津の名物である赤ベコの由来は飯盛山の「厳島神社」のくだりで述べたが、ここでは張りぼての赤ベコに白と黒の絵具を使い絵付けをする事によりオリジナルの赤ベコを作ることができる。700円出せば30分程でできるため修学旅行の子供達や観光客でにぎわう場所である。

 赤ベコ番匠を出て最初の筋に「とばすな車、昔はわらじで歩いてた」という標語が立てられている場所である。

 この場所は賢いカラスが胡桃の実を道路に並べて車に轢かせて割っている場所である。

私は会社に歩いて通勤する時に三度ほど見かけた。カラスが道の中央で木の実を道路に置いたかと思うと道の脇の側石に避難する。木の実が割れないとちゃんと木の実の位置を車のタイヤが通る位置に移動させていた。朝夕は車の通りの激しい場所なのであるが、車が来るのを避けながら作業をしている。始めて見たときにあまりに驚き10分ほど脇で見ていた。この話を家族にしておいたところ次男もそのあと数回見かけたという。ところがこの話を近所の人にしても誰一人知る人はいなかった。

  坂を下りきると、コンビニがあり道が分れている。道を下に進むと、飯盛通りからはずれ慶山通りに入る。数分歩くと「徳一」という蕎麦屋がある。ここの蕎麦は二八蕎麦であるが、その美味しさは会津若松市内でも定評があり、その値段ももり蕎麦は500円ほどでリーズナブルである。というのもこの飯盛あたりは観光地であるがゆえに盛り蕎麦だけで900円以上するところがあるからなおさらである。

徳一 さらに会津松平家の初代保科正之公が信州高遠藩から持ち込んだといわれる、そばを「大根おろし」で食べるさっぱりした味の「高遠そば」は普通のそばとは全く違った味を楽しむ事ができる。さらに徳一は蕎麦の他にうどんも美味しい。

 この徳一に行かれたら是非賞味して欲しいものがある。それは「蕎麦がき」である。たかが蕎麦がきというなかれそのふっくらした蕎麦がきを「胡桃ダレ」と「蕎麦のつゆ」「たまり醤油」に付けて食べるのであるが、他で経験した事のない触感と美味しさにきっと感激するであろう。

 先ほど下りてきた飯盛通りに戻り、東山温泉に向けて少し坂を登るとそこに「大龍寺」の入り口がある。参道の石の階段を登ると大龍寺(ダイリュウジ)の本堂がある。ところがこの寺は階段を登りきった正面に寺の本堂の入り口がない。普通の寺であれば階段を登りきった正面に本堂が配されており、そこに入り口があるのが普通の光景と思っていたので、初めてこの寺を訪れたとき違和感があった。後にここの住職の奥様に話を聞いたらこの寺は会津の武士達の寺であり、いざ戦というときには、敵が正面から攻めてきても防御しやすくする為にこのような作りになっていると聞いた。

 境内の右側には立派な釣鐘堂が在る。この鐘は毎日日没時になると鳴らされており、季節によって鐘の鳴る時間が異なる。静かな夕暮れでないと聞くことはできないが、仏都会津らしい風情のある夕暮れを象徴している。ただ、この鐘が日々違う時間に鳴っていることをどれほどの会津の人達が知っているのであろうか。

 この鐘は除夜の鐘としても使われており、我が家も平成9年と10年の大晦日に紅白歌合戦を見た後、家族で出かけて打たせてもらった。雪の降る中、釣鐘堂の前の広場では薪が焚かれ、集まった人達に樽酒が振舞われ、スルメが焼かれ誰彼となく分けてくれる。私達もスキーのスポーツ少年団の関係で多くの知り合いがおり、知らない人達の中にいるということはなく楽しい一時を過ごす事ができた。

 私達がこの寺を訪れたのは銀杏の実が落ちている晩秋の頃であった。家族で散歩をしている途中、銀杏の実を拾い集めている大奥様に声を掛けたのが最初であった。この銀杏は釣鐘堂の脇にある「長命不動尊」の祠を訪れる人に振舞われている。そしてこの不動尊の中に「なで達磨」がある。これをなでると幸運が訪れるとのことで、昔から多くの人がなでる為黒光りする達磨様になっている。そして賽銭を入れると置いてあるお札をもらうことができる。

 奥様は私達の質問に答えてくれると共に「せっかくだから裏庭を見ていきなさい。」といって案内してくれた。裏庭は手入れが行き届かないと見えていて少し荒れているが、裏山都一体となった庭園の中心には小堀遠州流の「心の字の池」がある。この池は後に述べる会津の「飯盛山」、「鶴ヶ城」と並ぶもう一つの観光地である「御薬園」の池の原型になっているらしい。

 昔は慶山の山からの涌き水で池が満々と満ちていたらしいが今は水も少なくなったという。ところがこの池は小枝に泡のような卵を産みつけその中で孵ったオタマジャクシが池に落ちて育つ「モリアオガエル」の産卵地である。蛙の産卵の季節になるとどこから沸いてくるのか多くの蛙が飯盛通りを越えてこの池を目指して登ってきて境内中が蛙で足の踏み場もなくなるという話を聞いた。ここは東山慶山地区で蛙の最大の産卵場所であるらしい。かすかに残ったこの東山の水の聖地は今では絶滅種と言われるメダカがおよいでいた。

 この寺は現在、臨済宗の寺である。天寧寺を頂点とする曹洞宗の寺の多い会津では珍しいような気がする。この寺は身分の高い武士達のもので、松平家の殿様もここを産所としていたという。

 この寺にはもう一つ面白いものがある。本堂の中に「幽霊の足跡」が残っているのである。

薄暗い本堂の中に在る本尊の正面の中央に確かに幽霊の足跡が残っていた。形はネクタイの「ペーズリー」の形であり、火の玉の形、あるいは足のない幽霊の尾っぽの形(?)といえば想像がつくであろう。平成9年に会津に赴任してきて、五月におこなわれた東山小学校の運動会で、仮装リレーのなかに「幽霊の足跡」というのがあり「なんのこっちゃ?」と思っていたのであるが、この会津東山地区では当然の知識というか常識なのである。

 釣鐘堂とは反対の境内には「小笠原長時」の墓がある。初めてこの墓を見たときに「何故こんなところに、小笠原流の宗家の墓があるのか?」と思った。小笠原流といえば「いわゆる三つ指をついてお辞儀をする礼法」の宗家である。調べてみたら、甲斐の武田信玄に諏訪湖のそばの塩尻峠で敗れて諸国を流亡し、芦名氏の時代にここで客分として過ごしていたらしい。ただ最期は家臣に妻と子供と共に殺されこの寺に葬られた。

大龍寺の右奥の小道を進むと次ぎに向かう「愛宕神社」に向かう近道がある。

 400メートルほど歩くと愛宕神社の長い石階段の中間地点に出る。大きな杉が両脇に生える急な長い参道の石段は石組みが崩れ、なかなか歩きにくい。息を切らしながらやっとの事で登りきると少し広い場所に出る。その右奥に最後の会津藩主松平容保公の胸像が立っている。写真で見る若いときのお顔である。

 正面の階段を少し登るとそこにそれほど大きくはないが時代を感じさせる造りの本殿が立っている。いつもその正面の扉は開かれ薄暗いながらその奥のご神体がかすかに見える。建物の大きさの割には奥行きが深く見えて神秘的である。ここの本殿には多くの絵馬がかけられている。その中でも三国志の英雄「関羽」の絵馬がある。正面手前の右奥に架かっている。その他にも多くの絵馬が奉納されている。

 本殿の周りにも面白い絵馬がかけられている。本殿右側の軒下には横幅が1間以上もある赤穂浪士の討ち入りの様子を描いた絵馬がある。吉良邸の門を打ち破る様子や炭小屋に潜む上野介を引き出してまさに首を討たんとする様子など風雪により色あせながらも、所々に残る絵具の色から奉納時の色鮮やかな姿を連想させる素晴らしい絵馬である。

そしてもう一つ、鶴ヶ城の城下を描いた絵馬である。絵馬の一番下に多くの寄進者達の名前が書かれているがほとんど消えかけている。

 城下を描いた絵はいろんな物が現存しており、鶴ヶ城を紹介する本に出てきているがそこに紹介されているような立派なものではないが、お城が取り壊される前の様子や焼ける前の町並みが詳細に描かれている。そしてその下には壊れてしまっているが鶴ヶ城の模型の絵馬(?)放置されている。

 本殿の右から小道が延びており、50メートルも歩くと「近藤勇」の墓がある。新撰組局長の近藤勇である。ご存知の通り、新撰組は江戸幕府の傭兵部隊であるが松平容保公が京都所司代時代に会津藩預かりとなる。そして新撰組は会津藩の名前と威光によって活動していく。長州藩による朝廷襲撃の計画を画策していた「池田屋騒動」など倒幕の志士の取り締まりに当たり、長州藩にとっては戊辰戦争の最大の敵として会津が位置付けられる事になるのである。

 近藤勇は千葉県の流山で名前を変えて戦っていたのであるが、裏切り者の密告により、捕らえられ、東京の板橋で処刑され、首は京都三条河原にさらされた。ところがその首が何者かに持ち去られ行方不明になった。その首がここに運ばれたあるいは、遺髪が葬られたとの説がある。

 この墓は戊辰戦争の時に会津で戦っていた新撰組副隊長の土方歳三が会津藩に願い出て建てられ、その戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は松平容保公の書であるという。ここからも会津藩と新撰組との関係の深さがわかる。

 近藤勇の墓を過ぎると曲がりくねった下り坂になり天寧寺の本堂の裏に出る。そこに「萱野権兵衛」、「郡長正」親子の墓がある。天寧寺の墓所の一番奥まった分りにくいところにある。萱野家の墓地が並ぶ中で一番大きな墓が権兵衛の墓である。

 萱野権兵衛は1500石取りの家老であるが、会津藩が降伏するに当たっては容保公が軍監中村半次郎に対して謝罪状を提出し、家老達は連名で「戦争の責任は家臣達に在り藩主容保親子に対しては寛大な処置を」という嘆願書を出した。

 政府軍の間では戦争責任の論議が行われたが「藩主は門閥の出身であるから、謀反を企てるはずがない。したがって、会津藩によって首謀者を出頭させるように。」という命が下され、上席の家老二人はすでに死亡していたため名乗りをあげ、会津藩の戦争責任を一身に引き受けて切腹して果てたのである。遺族に対しては容保公から金5,000両が下賜されたという。萱野権兵衛が切腹した事により家は断絶し、家族は郡と姓を改めた。

 息子の郡長正は福岡県小倉藩の小笠原家よりその藩校「育徳館」で会津藩の子弟を教育したいとの申し出うけて、選ばれて小倉に行った。あるとき東京の松平邸に住んでいた母親に食事についての不満を書いたところ母親から「なんとさもしい人間に成り果てたのか」という叱正の返事をもらい、長正は自分の不徳を恥じ、それを大事に肌身はなさず持っていたがある時その手紙を落としてしまい、小笠原の子ども達に拾われてしまった。小笠原の子供達から「客分でありながら食事の事で不平をいうのはけしからん。」とののしられ「会津の武士魂が疑われては郷里の人達に申し訳が立たぬ。」といって切腹した。ときに長正16歳であった。親子共に会津士魂を貫いた武士の鑑と称えられているのである。

 長正の墓は萱野家の墓の左奥から少し山道を登ると郡家の墓にでる。古い墓が多く文字が読みにくいため長政の墓が見つけられずにいると、突然大きな墓の影から小さな野ウサギが現れ逃げて行った。その野ウサギの追いかけると逃げ去った草むら前にある墓にくっきりした文字で「郡長正」と書かれていた。長正と同じような小さな野ウサギが私にこの墓を教えてくれたのである。これよりもっと不思議な体験を磐梯町の恵日寺のそばにある古い墓でしたことは、いずれ(多分第2編になると思う)書くことにする。

 天寧寺は会津にある曹洞宗の50数カ寺の頂点に位置する寺である。

 天寧寺の参道を下りて行くと、飯盛通りが東山温泉と鶴ヶ城方面に分かれる、奴郎ケ前(ヤロウガマエ)交差点に出る。

 飯盛山からここまで約1.5kmほどの場所である。道なりに大きく右に曲がりながら直進すると800メートル程で鶴ヶ城に至り、左折すると5百メートル程で東山温泉に至る。

 この交差点を右折して数百メートル進むと松平家の別邸「御薬園」がある。御薬園の正式名称は「会津松平氏庭園」という。芦名氏の代から別荘として使われていたものを松平氏の代に復興し、主に藩主の保養の場としていた庭園である。第2代藩主の正経(マサツネ)公の代に薬草を植え、特に朝鮮人参は、後に会津の重要な産業の一つとなった。

園内に入ると前方の高い木々を背景にして中央に綺麗な「心字の池」がある。池の正面には茅葺きの御茶屋御殿があり、その中で抹茶をいただく事ができる。庭園の池の周りは散策するには手ごろな広さであり、池の中央には亀島という島があり楽寿亭が建てられており、そこから見る池の全景もまた見事である。池を一回りした所に薬用植物園があり多くの薬草が植えられている。入り口の左手には二階建ての「重陽閣」とよばれる東山の旅館を移築した建物がある。ここでは「御薬園会席料理」がリーズナブルな値段でいたいただくことができる。

 大龍寺と愛宕神社から山道を通らずに、飯盛通りに戻り、奴郎ケ前交差点までの間には、桐屋夢見亭という南会津只見町の曲屋を移築したの蕎麦屋があり水蕎麦で有名である。ただこの水蕎麦以外はすべて1000円以上という値段には疑問がある。

 その敷地の奥には福島県双葉郡の豪壮な養蚕農家の建物を移築した「会津松本東西館」という会津の桐の家具と共にヨーロッパのアンテック家具それに西洋の小物などが並び、そこでお茶も楽しむ事もできるなんとも不思議な空間である。

ここを出て少し進むと「会津慶山焼き」の窯元がある。廃れていたのを復活したものらしい。青い釉の特徴的な焼き物である。その窯元から少し離れたところに手びねりをさせてくれるスペースがある。

 この黒い建物の2階は「土とき器の館」というギャラリーになっており、いろんな作家達の作品が展示されている。このギャラリーは靴を脱いで上がるのであるが、2階に至る階段の作りが特徴的である。少しずつ階段の高さが低くなり、普通の感覚で登ると異様な感じがして、歩きにくい。中は天井の高い黒い壁の丸い非日常的な空間であり、「階段を登る間に下界の感覚を捨ててくるように。」という意味があるように思えてならない。

 奴郎ケ前交差点の正面に見える小高い丘が戊辰戦争のとき西軍が砲台を築いた小田山である。交差点の正面に見える斜面は冬、市内の小学生達のスキー練習場になる。

 小田山は全山が葦名氏の墓が点在している。「花見が丘」という住宅街の奥から山の頂上に向けて小さな道がある。車が入ることが許されておらず、5百メートルほど歩くことになる。市内の裏山がこれほど静かなたたずまいを持っていることに驚かされる。中腹には西軍が砲台を築いた跡が展望台として気が切り開かれ、お城が正面に見える。ここに立つとこの高台からであればお城に対して大砲の弾を当てることがたやすかったことと、その先の惨状が容易に想像できる。山頂には会津藩中興の名家老といわれ殖産を興し藩校日新館を西出丸に作った田中玄宰(ハルナカ)の墓がある。

この小田山の遊歩道は住宅街の裏山でありながらそのままの自然が残されており、眼下の騒音を忘れさせてくれる不思議な静けさがある。私はここを二回歩いたが誰一人出会うことはなかった。とはいえ私の歩いたのが夕日が会津盆地の西の山の端に落ちていく薄暗い夕暮れ時で普通の人なら散策するような時間でないこともある。しかし、静けさとこの山の持つ歴史に想いをふけるには最高の時間帯である。

お秀茶屋 奴郎ケ前交差点には「奴郎ケ前茶屋」と「お秀茶屋」の二つの田楽を売る茶屋がある。餅と生揚げ、身欠きにしん、コンニャク等に田楽味噌を塗り囲炉裏の炭火で焼く。香ばしくて美味しい会津の名物である。田楽茶屋から東山温泉に200メートルも歩くと「会津武家屋敷」がある。会津藩家老西郷頼母の屋敷が復元され、武具や調度品などさらに西郷の妻たちが自害して果てた時の様子が人形を使って再現され、その他にも白河に在った精米所なども移築されている。弓を射たり、大砲を撃ったりする子ども達も遊べる場所も在る。

 この武家屋敷には「鶯宿亭」という食事処と会津地方の名産品を集めた「郷工房古今」がある。この「古今」は一度訪ねる価値のある場所である。普通の観光土産物屋と異なり会津の本当の意味での名品、特産品が並べられている。漆器に会津本郷の焼物、銘菓に名品間違いなく名のある一流のものばかりで、観光ガイドブックよりも凝縮された形で会津の名産を集めており会津の文化がそこにある。そこに並んでいるもので気に入ったものがあったら是非その本店を訪問する事をお勧めする。

 武家屋敷を後に東山温泉への坂を少し登ると「会津藩主松平家御廟」の立て札が見えてくる。そこを左折して蔵の並ぶ路地を進むと、御廟の入り口が見えてくる。ここは「松平御廟」と呼ばれており、御薬園と共に国の指定史跡になっている。鬱蒼として日差もささない大きな杉の生える湿気の多い参道を進むと、まず2代藩主正経(マサツネ)公の墓がある。それから五分ほど登ると大きな石の柱の林立する広場に出る。その石はどれも大きな亀の形をした台座に乗せられて、1メートル以上の正立方体の高さ三メートルはある。その表面にはそれぞれの墓の主に関する生い立ちや性格、業績などが漢文で書かれている。向かって右から第3代正容(マサカタ)公、第5代容頌(カタノブ)公、第6代容住(カタオキ)公、第7代容衆(カタヒロ)公、一番奥に入って第9代容保公と斗南藩主容大(ハルカタ)公と続きそこには夫人や側室の墓もある。 この墓の一番右側にある3代藩侯の墓の前から小道を進むとその奥に第4代容貞(カタサダ)公、第8代容敬(カタタカ)公の墓がある。

 それぞれの墓はそれぞれ大きさが異なるがここで一番大きな正容公の墓は約1メートル80センチはあろうかという約三メートルの高さの石柱(竿石)と一段高くなった丘の上に墓石(御表石)、その又一段奥の峰に八角形をした奥の院の三つがセットになった神式の作りになっている。

 この作り方は初代保科正之公の猪苗代にある土津(ハニツ)神社と全く同じである。

しかし、第2代藩主正経公の墓は仏式の作りとなっている。

 松平御廟を出るとすぐに信号機があり右折すると東山温泉の川沿いの温泉街に入る道であり、直進すると東山温泉のバイパスである。

 東山温泉は1200年以上の歴史を持つ会津の奥座敷として栄えてきた。湯川沿いにホテルや旅館が並んでいる。約1200年前、僧行基が修行で会津を訪れたとき、三本足のカラスが現れ、それに導かれるように湯川の辺に来ると岩の間からお湯が涌き出ていた。それが東山温泉の始まりであるという。

 夏には行基上人の開湯の伝承を持つ老舗の旅館「不動滝」の前に櫓を組み盆踊りが開かれかなりの踊り手があつまる。この祭りは芸者さんたちが櫓の上で歌い、踊る普通の夏祭りでは絶対に経験できない老舗の温泉地ならではの色っぽい夏祭りである。
 数日行われる祭りの1日はさらしを巻き半被姿の芸者さんが神輿の上に乗り、観光客等が温泉の手桶を使ってお湯かける少し色っぽいお湯かけ祭りがある。初めて参加した時、息子たちもずぶぬれになりながら誰彼かまわずお湯をかけて楽しんでいた。お湯をかけられてもとても楽しいワクワクする祭りらしい祭りであった。ただお湯をかけられた後はかなり冷え込む為震えていた。

 旅館街の中央ほどに「松本屋」羊羹の老舗がある。平成9年に会津に住み始めた8月にこの松本屋さんの店舗改装オープンがあり初日に訪ねて、会津本郷焼きの「酔月窯」の器をもらった事をきっかけにここに良く通うようになった(この酔月焼きが素晴らしいもので羊羹と共に焼き物にも目覚めた。)。

 ここの名物はやはり「水羊羹」である。上品に仕上がった控えめな甘さは伝統の重みを感じさせるものである。ステック状になっている一口で食べられる「花羊羹」は、家族でフィリピンに旅行した時に持っていき世話になったホテルのスタッフに食べさせたら喜んでくれた。

 平成11年夏長男の真之介が私の浴衣を着て桐の下駄を履き、帯の後ろに団扇を差して粋に東山盆踊りにデビューした夜、新しい発見をした。「足湯処」と呼ばれるもので、家の壁際に縁台が作られその前に左右に6人がいっしょに足をつけることができるような深さ15センチほどの桶(?)になっており、その上にテーブルがつけられ松本屋のかき氷を楽しむことができる。

 羊羹を買い、外に出ると顔見知りの店の人たちから声をかけられ、かき氷と羊羹を食べながら足湯を楽しむことができた。下駄を脱ぎ素足を湯につける感覚は妙にリラックスさせてくれるものである。この夜私達が話しかけた男性が温泉組合の方でこの施設を作る責任者だった。これを作るに際してのこの方と頑固な大工の「日本式縁台にテーブルはない。俺は絶対作らない。」と言われ説得するのに大変だったなどというエピソードをいろいろと教えてくれた。

 ちなみにこの場所は以前ストリップ劇場のあった場所で「ステージはこのへんにあったな!」などと教えてくれた。

 この東山に来たらぜひ訪ねてもらいたいところがある。この松本屋の前の階段を登ったところにある食堂「卯之屋」さんである。ここの「味噌タンメン」と「ソースカツ丼」は最高である。特に味噌タンメンはコクのある上品なスープで絶品であり思わず最後まで飲み干してしまう。喜多方ラーメンや会津ラーメン等美味しいラーメンの多い中で口コミで美味しいうわさが広がっている。何度も通ったがそのたびにおいしいと思う。「卯之屋の味噌タンメン」である。

 街の中央ほどの「新瀧」旅館の入り口に竹久夢二の「宵待草」を刻んだ詩碑がある。

 東山温泉を抜けると東山グランドホテルを過ぎるとすぐに東山ダムに出る。この周りには桜の木が植えられており桜の季節は見事である。まだ桜の木が若いがもう少しすると桜の名所になるだろう。ダムの少し手前に「雨降りの滝」がる。今はそれほど水量が多くはないが松平家の照姫が詠んだ「たち寄れば袖もしぶきにぬれにけりげに雨ふりの滝のしらなみ」という歌がある。

 東山温泉から5分ほどで東山ダムがありそれから10分ほどで廃業した「おおすごスキー場」ある。東山ダムはルワーで釣りをする人達で賑わい、対岸には桜の木が植えられ春は素晴らしい桜並木になる。会津に赴任してきた平成9年の春はじめてここの桜を見に来たら多くの「ウソ」という鳥が桜の芽を食べているのを見かけた。会津は鳥の宝庫であり我が家の子供達は「会津はスズメよりほかの鳥が多い。」等と言うほどであるが鳥の話は別の機会にしよう。

 スキー場は平成9年まで営業していたが赤字により営業を中止してしまい雪国会津若松市にスキー場がないということになってしまった。小さいながら山頂部の急斜面に中間地点の緩斜面と初級者から上級者までで楽しめるいいスキー場だったのであるが残念である。転勤してきて家族で1回だけ滑って素晴らしいスキー場で、妻はせっかく会津に住むのだから「夢のシーズン券(関東のスキーヤーにとってシーズン券を持つことは夢のまた夢である)」でうまくなろうと誓った場所である。ところが実際はそれ以上のスキーの世界に入り込んでしまった。

 市内から25分程で行ける料金も安い市内のスキー場は、雪国の子でなければできないスキーを身近なものにする為にも、また、雪国だけでしかできないスキー競技に取り組む子供達にとっても必要である。雪は冬の厄介者である側面はあるものの、それが毎年やってくるのが定めなら、子供のころからそれに正面から向き合ってそれを楽しむことは必要であり、雪のない国の子供達からすれば最高の財産であると思う。ただ雪との付き合い方は親掛かりであり親がそれに目覚めないとどうしようもない(これはスキーの限ったことではないが)。我が家の子供達が競技スキーを始め、12月初めのカナダ合宿からシーズン中60日ほどピステにいる生活をしてみて思うことである。埼玉に住んでいたときにこのような生活をするとはまったく想像しなかった。

 この東山ダムの奥の一本道は東山温泉の中を流れる湯川沿いに進むことになる。バブルの時代を象徴する今は使われていないホテルのヘリポートがあり、少し進むと一之渡戸(イチノワタリド)という集落がありここまで人が住んでいる。それから5分ほど走ると未舗装の道になり脇の湯川がますます狭くなり多くの滝が見え、沢登りには最高のポイントである。しかし夏でも水がかなり冷たく、暑い夏でもこの渓流沿いにたたずむと最高の涼を得ることができる。それも東山ダムまで続いている。会津若松市内では最高の渓流であろう。

 一之渡戸の集落の手前に清水の涌き出るところがあり、いつも誰かが水を汲んでいる。

会津には磐梯町の龍ヶ水湧水をはじめとして強清水(コワシミズ)等多くの清水がある。その他にも博士山の湧水、会津高田松沢荘の裏の清水など等多くの人がそれぞれの水にこだわりを持って楽しんでおられる。

 8月の押し迫った夕暮れに妻と二人でこの清水を汲んでいるとの一台の車が私達の前に止まり、フライフィッシングのロッドを持った男性が薄暗い川面に向けてキャスティングをはじめた。

 整備工場の社長さんの様であり、仕事が終えてこの東山温泉の奥の湯川に釣りに来るという。6月から釣れ初めてこのあたりでも25センチ以上の岩魚や、ヤマメが釣れるという。フライのほうがルアーより格段に釣れ、一度はじめるとはまってしまう奥の深い大人の釣りだといっていた。釣りをやらない私もこの出会いがフライフィッシングを始める大きなきっかけになり、早速道具を買いそろえ、ここでロッドを振るようになった。それにしても家から20分ほどの場所が渓流釣りの名所があるには驚かされる。

 背炙山

 東山の温泉街に入る交差点を直進してすぐに左折すると背炙山の山頂を越え猪苗代湖に続いている道である。東鳳という大きなホテルを過ぎ曲がりくねった山道を8キロほど登ると山頂に到着する。その途中一箇所だけ会津盆地と猪苗代、磐梯山が一望できる場所がある。現在はテレビ局のアンテナが立ち並びアスレチック施設と休憩所の建物がある。ここは幾分山の中に入っているため会津盆地が一望というわけにはいかないが、会津若松市内が眼下に見える。道路の下は大きな広場になっており「関白平」と呼ばれている。

 天下が豊臣秀吉の時代、有名な「小田原攻め」の後、遅れて参陣した伊達政宗などのいわゆる「奥州仕置き」の為に豊臣秀吉はこの峠を越えて会津の地にやってきた。

伊達政宗はその際、豊臣秀吉ににらまれている政宗より弟を藩主にしたほうが伊達家の為になると画策する母親から毒殺されそうになり、実の弟をその手で切るという悲劇が起こったのもこのときである。その際引き連れてやってきたのが会津の領主となる蒲生氏郷である。せっかく葦名氏を滅ぼして念願の会津の地を手に入れた伊達政宗は無念のうちに1年足らずで仙台に赴くのである。

 この関白平には「おけいの墓」が建っている。明治時代アメリカに渡りかの地で客死した少女の墓である。東山小学校の子供達が山道を2時間ほど登り墓の掃除にやってくる。
これが一時期中断されていたが、平成11年に再開された。この再開の我が家が少なからずかかわっているらしい。次男が先生から「背炙り登った事があるの。」と聞かれ「ハイ行ったことがあります。」と答えたところから、企画していた先生が校長先生に「H君も登った事があるのですから子供達も登れます。」と説得して実現したのだという。

(平成237月10日加筆。)平成2373日BS歴史館発見「戊辰戦争 東北列藩・プロイセン連合」という番組が放映されていた。ドイツの軍事アーカイブで日本公使が当時の宰相ビスマルクにあてた外交書面の中で会津藩と庄内藩が領していた北海道を売り払おうとしていたという話が書かれていたという。そのなかで戊辰戦争が終わった後、会津の3家族が米国カルフォルニア州エルドラド郡コロマに移り住んだという。当地の新聞では「内戦でミカドの軍と戦って敗れた3家族が日本から移民としてやってきた。引率いてきたのはシュメルというプロイセン人。」と新聞記事があるという。今でもシュメル(スメル)の家は残っており彼らは松平再興のために会津からお茶や竹、桑の種を持て来て「ワカマツコロニー」を作ったという。地元では日本の男子は威厳を備え教養に富み、女子は容姿端麗、彼らは良き市民となるだろうと、入植を歓迎されたという。しかし、持ち込んだお他の苗などは気候が合わず枯れてしまい、今では桑の大木だけが残っているという。そしてシュメルが資金調達のために売った松平容保公から頂いた蒔絵にカイラギザメの握りの付いた短刀や会津藩の旗が映っていた。最後にシュメルが会津にいた時から子守として雇っていた少女の白い墓が映っていた。そこにはおけいの墓という紹介はなかったが、白い墓石には「IN Memory of OKEI Died 1871 Aged 19 Years (A Japanes Giel)」と刻まれていた。これがおけいの墓である。おけいはコロニー崩壊後地元のピアンカプ家に引き取られ、まもなく熱病で死亡したのだという。

シュネル(スネル)は会津では砲術軍事顧問として松平容保公から餌鷹町(現材木町)に屋敷と平松武兵衛の日本名を賜と名乗っていたという

ここまでが飯盛通りから東山温泉までの私の記憶と体験の記述である。それ以外にもまだ多くの話があるのだがここまでにしておく。
第一篇会津若松市 以上


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