会津見て歩記トップ

会津若松の街中

 会津若松の町をどこから書き始めたらいいか悩むところである。やはり、JR会津若松駅に下り立ったところから始めることにする。

 会津若松の駅舎を出ると銃を持ち手をかざしてお城を望んでいる二人の白虎隊士の銅像が立っている。私が会津の地を踏んだその日、駅を出て初めて目にしたのが雪の中に立っているこの銅像で、思わず「おお、会津に来たぞ。」と呟いてしまったことを覚えている。

 駅の正面約1.5キロのところに飯盛山がある。駅を背にして歩き始めると、すぐに大きな通りに出る。そこにはお城の形をした入り口を持つ地下道が作られている。四方の入り口の正面には中国の四神が描かれており、東が「青龍」、西が「白虎」、南が「朱雀」、北が「玄武」で、戊辰戦争の時に会津藩が急遽軍制近代化の為に編成した組織の名前である。ここもやはり会津である。因みに、朱雀隊は18歳から35歳、青龍隊は36歳から49歳、玄武隊は50歳以上、白虎隊は16、17歳である。

 通りに出て右に向かうと街中に向かって進むことになる。「大町通り」といい平成9年までは国道であった。この通りは、会津らしいたたずまいを残している町並みである。歩き始めて2〜3分もすると、左側に「五郎兵衛飴本舗」がある。ここの「五郎兵衛飴」は800年前に源義経が兄頼朝に追われて、平泉に逃れる時にこの地を訪れ、この屋の主人に餅を求めその借用証を残したといわれる場所である。これは武蔵坊弁慶の直筆といわれ、あの吉川栄治も「新平家物語」を執筆中に、この書面を調査したらしい。この会津にはこの他にも隣町の河東町に義経と皆鶴姫の悲しい物語などが残されている。

 その米の粉を練った飴はほんのりとした甘さと共に古の香りを運んでくれる。

 この通りの魚屋の軒先には乾燥した「鱈」がつるされ、乾燥した「鰊」の箱が並べられている。鱈は水で戻して、味りんや砂糖、醤油等で煮こんだ会津名物「棒たら煮」ができ、鰊は米のとぎ汁に一夜漬け柔らかくし、それを同量の醤油とお酢(味りんを足したりもする)とたっぷりの山椒の若芽に漬けておき「鰊の山椒漬け」ができる。棒たら煮といい鰊の山椒漬けといい山国会津の民が作り上げた北海の海の幸を使った絶妙の食文化である。

 さらに会津の魚屋には「ホタテの貝柱」と「丸麩(マルフ)」が売られている。人参やサトイモ、キクラゲ、ホタテ、丸麩などを入れて作る具沢山の「こづゆ」というホタテが出すコクのある吸い物が作られる。会津では宴席では必ず出されるもので、昔は何杯でもお代りが許されていたらしい。

「棒たら煮」は会津の町中を抜けて芦ノ牧温泉に向かう門田町一の堰という所に在る「梅屋」のおばあちゃんの作るものが最高の味である。水で戻された硬い棒たらが、秘伝の味付けとばあちゃんの拘りでじっくり時間をかけまきで煮こまれる。少し甘めの口の中でとろける絶妙の味である。怪我をした妻の父に贈ったところ、これで食欲が出て元気になったといっていた。秘伝の味はこのばあちゃんがなくなると作る者がいなくなると嘆いておられた。(2003年年末会津を訪ねたときおばあちゃんが亡くなられたという話を聞きました。御冥福をお祈りするとともに素晴らしい会津の味を楽しませてくれたことに心から感謝します。)

 この「梅屋」の前にある「六地蔵尊」は2メートルほどの高さがあり、祠の中に収められているが誰でも自由に入って参拝できる。六体の木製の地藏尊は会津の厳しい風土の中で庶民に信仰されてきた為か、黒光りする中にどの顔もやさしく微笑んでいる。いつも季節の供え物が供えられ、薄暗い中に蝋燭の明かりが厳かな気持ちにさせてくれる。あまり知られてはいないが会津の文化に触れるには静かでいい場所である。

 「鰊の山椒漬け」についてはそれぞれの家庭でいろんな味があるようであるが、会津の家の庭先には山椒の木が植えられているところが多い。私の住んでいた借家の庭先にも2本の大きな山椒の木が在り、新芽を取っては山椒漬けにしていた。

 かって会津の女性は嫁ぐ時に、「会津本郷焼」でできた山椒漬け用の長方形の容器を持ってきたものらしいが、今ではあまり見かけなくなったと聞いた。

通りをさらに南に進むと、お寺が多くなる。その中でも入り口に「西軍墓地入り口」と書かれた門柱を右に折れると、そこには小さな墓地がある。

西軍墓地 長州藩士、薩摩藩士、土佐藩士等の戊辰戦争で戦死した兵士の墓が並んでいる。私が初めてこの墓地を訪れたのは、会津に赴任してきた2日目であった。黒い門塀には眠る兵士の藩の紋が飾られていたが、その墓は半ば雪に埋もれ長州から薩摩土佐という順で墓の大きさが大きくなる。長州兵の墓はほとんど雪に埋もれていた。長州と薩摩は特に会津に藩士にとって仇敵であり、このような形で現れているのである(そのように説明を受けた。)。

 日本人は死しては平等に遇するというのが生死観であったのだと思っていたが、薩長に対する想いはそれを許さなかったらしい。私は会津に来るまで、長州と薩摩は白虎隊の件で会津の人達に嫌われているというぐらいの認識しかなかった。

 それゆえいまだに市長が萩の市長と握手をすることや友好関係を結ぶことを「行政レベルで合意することは時期尚早」というコメントや「市長あなたには行政的舵取りは委ねたが歴史的解釈について委ねたつもりはない」という投書など時代錯誤的な新聞記事を目にして奇異に想っていた。

 飯盛山の白虎隊士は薩摩や長州が殺したわけではなく、武士の忠節を昇華された形で実現したわけであり、そのこと自体が恨みの原因となるいわれはない。武士(モノノフ)は戦いがその存在の証明の場であり、命のやり取り自体は武士として当然の行為である。そして武士の生業の結末として、武運尽きたときには、その亡骸を礼を尽くして荼毘(ダビ)に付するのが「武士の道」だったはずである。

 ところが西軍軍務局は「賊軍の死体一切取りかまいなきこと・」という触れを出した。そして会津の山野や城下には散在した腐乱した死体にはカラスや野犬が群がって凄惨たるありさまであったという。これが恨みの根源である。

 武士が江戸時代の300年間戦争をしない間に単なる復讐者になり下がってしまっていたのか。そして恨みの順に墓の大きさが違うということになって表れている。ところがこの事はほとんど知られていない。

 西軍墓地を出るとその前に「町方伝承館」という建物があり、庶民の暮らしの用具を展示しているが、テーマが今一つ地味であり、観光客に訴えるものがないような気がする。

 この大町通りは1月10日には「十日市」という江戸時代から続く市が立つ。江戸時代近郊の農家は肥料を町家の糞尿に頼っており、正月に各家に挨拶に来ては酒を飲み、帰りにいろいろ買い物をした事から起こったと聞いた。どんな雪のときでも続いており、この市が立って会津の松が開けるといわれている。私達も、吹雪の十日市で会津にきてから高くて買えずにいた蕎麦を打つ直径40センチ程の「こね鉢」をかなり安く手に入れる事ができた。

 駅から15分ほど歩くと、「七日町通り」と交差するところに出る。現在はこの当たりから「野口英世青春通り」と呼ばれている。

 この角にはレンガ作りの「会津西洋館」という古い喫茶店があり、土曜日の夜には素人のジャズメン達が心地良いスイングを聞かせてくれる。そしてこの交差点の50メートルほど先には野口英雄が医者になるための修行をした病院の建物が一階は喫茶店二階が資料館になっており100円で入れる。この二つの喫茶店はいずれもレトロな色調であり、美味しいケーキと挽きたての香ばしいコーヒーとゆったりした大人の時間を過ごすにはもってこいの静かな場所である。

 この交差点の一つ前の通りに「伊勢屋」といわれる老舗の菓子屋がある。このの名物はなんといっても鶴ヶ城の「椿阪」に由来するといわれる「椿餅」である。胡桃の入った米の粉で作った「ゆべし」であるが、絶妙の歯ざわりと控えめな甘さは最高である。

 この交差点は会津の街中を象徴する交差点である。会津の通りは北から南へ、すなわちお城に向かっては直線であるが東西に走る道は十文字に交差しない。東から西に向かう道は交差するところでいったん数メートル左に折れてそれから西に直進する。すなわち東西に走る道は必ずカギの様にクランクしながらすすむのである。まことに走りにくい道である。ここはあくまでも直進であり、方向指示器をつかってはいけない。この事について、赴任してきて金融機関に挨拶回りをしていた時に、「お城が攻められないようにした城下町の特徴だ。」と説明されたが、私にはにわかには同意できなかった。なぜかというと、お城に向かっては一直線だからである。それでは攻めてくる敵を防ぎ様がないと思ったからである。その疑問は、飯盛団地に家を借り、三ヶ月間単身で過ごし、朝夕会社のある大町まで歩く過程で解けてきた。それは多分、会津若松は飯盛山や東山から阿賀川にゆったりとしたスロープを描く地形であり、猪苗代から運ばれてきた水が一気に流れないようにスピードを制御する為の道なのではないかと思い始めた。何かの機会にこれが正解であろうという話しを、教育委員会の史跡を発掘している担当者から聞いた事がある。

 大町通り(野口英雄青春通り)と七日町との交差点を右折すると、昔の町並みを復元して町おこしに成功している「七日町通り」に入る。真っ直ぐ500メートル進むと「会津鉄道七日町駅」に至る通りで、会津と新潟県新発田を結ぶ「旧越後街道」である。

 まず目に付くのが白いルネッサンス様式の3階建てのどっしりした建物である。この「白木屋」さんは大正時代に建てられたもので会津塗りをメインとしてあらゆる漆器が並べられている。隣の白いローマの神殿の柱を使った建築会社の建物も立派である。

 最初の交差点には黒い蔵の形をした「レオ氏郷南蛮館」があり、蒲生氏郷に関する資料が展示されているが、観光の為のに無理やり作ったという感はぬぐえない。

 この交差点を左折するとそこに大きな暖簾の掛かる「満田屋」がある。もともとは味噌をうる老舗で中に入ると、いろんな種類の味噌や漬物が売られている。その中でも「田楽味噌」は逸品である。満田屋さんの奥には自家製の味噌を塗り囲炉裏の炭で焼いた田楽を食べる事ができる。味噌がこげる時の匂いはなんとも食欲をそそられる。

 長男の中学校は1年生の時に街中を歩いて故郷の文化を調べるという授業がある。その時、この満田屋もコースに入っていて、子供達がここを訪れると「味噌田楽」三本を食べる事ができとても楽しい会津らしい授業だったという。

 通りに戻りさらに進むと「会津中将」という酒を作る「鶴乃江酒造」があり、その先に会津名物の「絵蝋燭」を売る「ほしばん絵ろうそく店」がある。和ろうそくの表面に菊やツバキなどが描かれている。この絵ろうそくは藩政時代、その製造技術の秘密を守るために登城するときしかろうそくを作ることが許されてなかったという。

 この当たりが、昔の町並みを復元しようという運動が最も実現している場所である。蔵作りや昔風の建物にリメイクされているがまだそれほど落ち着いた町並みという雰囲気は出てこない。とはいえ私が会津に赴任した2年前より格段に町並みは美しくなった。道幅が狭い事と電柱と電線がせっかくリメイクした町並みの雰囲気を削いでいる。少し時間が必要であろう。

七日町玉梨豆腐 今ではこの観光の為の町並み復活に会わせてこの町とは縁のなかった商売も行われている。只見川沿いの金山町の「玉梨豆腐店」が店を出している。名物の「青ばと豆腐」が美味しく東京や京都の料亭にも出されているという。特に注文があれば一万円から三万円までの豆腐も作るというから驚きである。三万円の豆腐とはいかなるものであろう。因みに豆腐はここで食べるより、金山の本店で食べたほうがもっと美味しいような気がする。

 それでもこの通りの終わりに近い「渋川問屋」と「阿弥陀寺」は別格である。

渋川問屋はもともと魚の乾物を扱う問屋だった。鰊倉庫だった格子の古い建物は現在、会津郷土料理を食べさせてくれる場所になっており、その裏の別館は宿泊もできる。

中は高い天井と吹く抜けに重厚な蔵座敷があり、昔、鰊蔵だったとはとても思えない。大きな金看板が飾られ、むき出しの電線は大きな梁と柱を白い「碍子」で配線されており、思わず「懐かしい。」と口をついてしまう。

 渋川問屋の庭から外に出るとレンガが敷き詰められて通りになり、正面に3階建てになっている阿弥陀寺がある。この建物は阿弥陀寺の「御三階」といわれる建物で、もともと鶴ヶ城の中にあった。外見は三階であるが中は4層になっており、階段がうぐいす張りになっているところから密議を行った場所であるといわれている。

 この寺には戊辰戦争の東軍1200名あまりの戦死者が埋葬されている。ここでも墓標は「殉難之墓」と書かれていたが軍務局の命令により削除されてしまった。会津の歴史について数冊の本を出している、図書館の野口真一氏に会津藩の戦死者埋葬の様子を記録した古文書を見せてもらったが、会津の各地に葬られている墓地の最初にこのお寺にある墓の絵があった。その中でも最大の埋葬地がここである。

そしてこの通りに終点に線路がありここが会津線「七日町駅」である。

 七日町通りを戻り、変則交差点を右折して最初の信号機の角に真っ黒な2階建ての野口英雄が医者の修行をした病院の建物が喫茶店として残っている。

この角を左折するとそこが会津で一番大きな神明通り商店街である。長崎屋の前にある神明神社に由来している。

 長崎屋のアーケードの脇に「蒲生氏郷公の墓」の案内が立っている。筋を入ると「興徳寺」という臨済宗の寺にでる。鶴ヶ城の城郭の一番北に位置していた寺で現在の神明通りの中央あたりまでは城郭と堀であった。豊臣秀吉の奥州仕置きに際してはその中心地となった寺である。

 狭い境内の正面には蒲生氏郷公の辞世の碑がありその右奥に氏郷公の遺髪が納められている五輪塔がある。その五輪塔はそれほど高いものではないが、上から「空、風、火、水、地」と彫られている。その脇の辞世の碑には「限りあらば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」と刻まれている。会津に来て2番目に覚えた歌であるが、会津にある歌碑の中で一番好きなものである。鶴ヶ城の天守閣が完成した直後の冬、京都で40歳の若さで病死するのである(秀吉氏による毒殺説がある。秀吉は後に氏郷の妻で信長の二女冬姫を側室として上がるように申し出るが冬姫は出家して毅然と拒否するのである。)銀鯰の兜で知られ文武に秀でた有能な武将の無念の気持ちが表れている。


HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町