会津見て歩記(会津若松市編)

会津若松に転勤して来て、この会津は私と家族にとっては間違いなく特別な場所になった。この会津をある意味ではここに住んでいる人達以上に愛し、拘りをもって見てきたと思う。そこで、今までに見聞きしたことの記憶を辿りながら書きとめてみたいと思う。まずおことわりしておくが拘りが多すぎて、取り止めのないものになり膨大な量になりそうである。ただ会津を楽しむためのキーワードは「歴史との対話」でありこれなしには空虚なものになってしまうと考える。


(飯盛山)

 会津を語るにはまず、「飯盛山」について書き始める以外にないし、又あらゆる意味で正しいと思う。

 飯盛山はJR磐越西線会津若松駅の東約1.5キロのところにある標高360メートルほどの小高い丘である。会津盆地の東を南北に走る背炙(セアブリ)山地の里山の一つである。

この飯盛山は、「白虎隊自刃の地」として歴史に現れ、悲劇的英雄達とともに国民に広く知られるところとなっている。

 白虎隊は戊辰戦争の終わりに、押し寄せる西軍(官軍=会津では自らは賊軍であるという認識がないため、薩摩・長州を筆頭とする西南諸藩が幕藩体制を倒すための戦争だったとしてそれらを西軍といっている。)を迎え撃つために、飯盛山の北側にある会津藩の本陣(滝沢本陣)を猪苗代方面に出撃し、猪苗代湖から流れ出る日橋川(ニッパシガワ)に架かる十六橋の守備に回ったのであるが、戸の口の戦いで怒涛のごとく押し寄せる西軍の前に武運尽き、敗走して帰ってきたのがこの飯盛山である。

 会津に訪れて、飯盛山、鶴ヶ城を尋ねるためには車、電車で来てもバスを使っても決して迷うことはない。この両方の案内板は町中にあり必ず分るようになっている。「会津の道(案内板)は飯盛山と鶴ヶ城につながっている。」である。

 飯盛山の参道の階段は道路からは171段あり、その脇を有料のスロープコンベアー(歩道)がある。階段を登り終えるとそこはテニスコート2面程の広場に出る。広場より一段高くなった大きな石灯籠の奥には自刃した19基の白虎隊士の墓が並んでおり中央の焼香台には線香の煙の絶えることはない。

 その右脇には戦死した31基の白虎隊士の墓が少し寂しく並んでいる。この墓の中には14歳の少年の墓もある。

 白虎隊士の墓の左側には彼等が殉じた君主、第9代松平容保(カタモリ)公の哀悼の碑が建っている。それには「幾人(イクタリ)の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽ちじとぞ思う」とある。その名は「松平」ではなく「源容保」とある。松平家は清和源氏の末裔でということか。後に述べるが、会津にきて容保公と蒲生氏郷公の歌には本物の武士の教養を感じさせられるものがある。

 白虎隊の墓をあとにして広場に出ると山際には観音像と黒い御影石に「詩吟白虎隊」の彫られた碑があり、右正面にはこの広場で一番目立つ「イタリー記念碑」がある。

これは昭和3年(1928年)12月1日、白虎隊士の行動に感動したローマ元老院と市民の名において日伊親善の為に贈られた。

イタリー碑 この記念碑はかなり大きなもので碑文の刻まれた基礎部分の上には2メートル程のベスビオス火山の噴火で沈んだポンペイ宮殿から発掘された赤色花崗岩の古代円柱がのり、その上には右足にマサカリを持っていた鷲が羽を広げている。その碑文にはイタリア語で「文明の母なるローマは白虎隊勇士の遺烈に不朽の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。」と記され裏面には「武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より」と刻されている。

 この碑文は、第二次世界大戦後、会津に進駐した米軍の手により、削り取られ、鷲が左足に持っていたマサカリは撤去されたのであるが、碑文は昭和60年に全文復活された。

 そして広場の右手前に小さい十字記章の刻まれた「ドイツ記念碑」がある。これは昭和10年駐日ドイツ大使館付武官のハッソウ・フォン・エッドルフ大佐が白虎隊士の行動に深く感動し、ドイツ語で「会津の少年武士に贈る」と刻んだ碑を贈ったが、「イタリー記念碑」と同様に米軍により削り取られた。しかし、日本の主権が回復した後の昭和28年、当時駐カナダ西ドイツ大使をしていた同氏の希望により復元されたという。

 この両記念碑は、いみじくも、軍国主義、ファシズム等という日独伊三国軍事同盟の当事国であり、純真であるがゆえに悲劇的な結末をむかえた白虎隊士の行為が悲しい時代を背景として彼らの思いとは違う利用のされ方をされている。またしても時代が彼らの純真さを弄んだのである。

 そもそも、白虎隊が世界に紹介されたのは1920年のボーイスカウトの第1回世界大会である。軍人精神で少年を鍛えようとする元英国軍人の創立者は34ヶ国の代表の前で「白虎隊の精神こそ万国少年団の模範だ。」と演説した。戦意高揚に利用しようとする意図が見え見えである。今、この前では観光茶店の女性による白虎隊の踊りが舞われ、記念写真が撮られる場所となっている。

 それにしても超国宝級のポンペイの石柱を気前良く一本贈るムッソリーニは凄いと思うのは私だけであろうか。この前に立つと私は幾分複雑な気持ちになる。

 イタリー記念碑とドイツ記念碑の間を一段降りて小道を少し進むとそこに白虎隊士自刃メンバーの中で唯一の生き残り、「飯沼貞吉(後貞雄)」の墓がある。彼が生存したため白虎隊の行動が後世に残されたのであるが、彼は生前多くを語らなかったという。

彼は有能な逓信技師として仙台市に住み、そこで没した。彼の墓は戊辰戦争90年祭の昭和32年に彼らが自刃した場所と自刃を遂げた19名の墓の間に移されたのである。 

 飯沼貞吉の墓を出ると、すぐに視界が広がり会津若松の市街が一望できる。急な階段を降りるとそこが白虎隊士自刃の場所である。彼らはそのすぐ下の道から20メートル程、急坂を駆け上りお城の惨状を目にしたのである。

 広場には白虎隊士の墓標と共にその脇に額に手をかざして燃え落ちる鶴ヶ城を悲しく望む白虎隊士の像がある。ここから南西の方角を見ると鶴ヶ城が小さく見える。たしかにお城はここから2キロほどある、周りの武家屋敷や民家が燃えていると、その煙と炎でお城が燃えていると思えても不思議ではない。

 ここから見るお城は思ったほど大きくない。目がいい人でもすぐに見つける事はできない。ましてや視力の弱い人はなかなか難しいだろう。ここからお城を探すには、いささか無粋ではあるが、お城の正面にある赤白のNHKラジオの電波塔を見つけるとその後ろにある。

 ところで、あまり語られていないことであるが、鶴ヶ城を望む白虎隊士の像について付言する。これを建ててくれた有志の方々にとっては失礼な、ある意味では禁句なのかもしれない。私にはこの像はどう見ても、精悍なる白虎隊士の少年の姿には見えず、10歳ほどの童子にしか見えない。鶴ヶ城の四層の壁に掛けられている肖像画にある精悍な少年達のイメージはまったくなく、はっきりいって不釣合いであると思う。

 最初にこの場所を訪れた時にも又雑誌の写真を見たときもそう思った。そしてそのことは、会津戦争における女性のヒロイン「中野竹子」の像を見中野竹子像たときも同じ思いをした。中野竹子は会津東山から大川(阿賀川)に流れる湯川のほとりで西軍兵士と戦いになり、薙刀に「武士の武き心にくらぶれば数にも入らぬわが身なれども」という辞世の短冊をつけて壮絶な戦死を遂げるのである。彼女は飯盛山の「白虎隊記念館」にある肖像画では殿様の手紙の代筆をするほどの素晴らしい書道家(彼女の書は20歳そこそこの女性の手によるとは思えないほど素晴らしいものである。)であり、かなりの美人であるといわれていた。

 私は会津に赴任してきた翌日に引継ぎと挨拶回りで彼女の墓のある会津坂下町(バンゲマチ)に行き彼女の辞世を知り会津の女性の強さを知った。そして興味を持って彼女のことを調べていた。会津天宝味噌の工場の隣が彼女の戦死の地であり辞世を刻んだ碑と像があると聞き訪ねたことがある。ところがそこにある中野竹子像は明らかに10歳程の童女にしか見えなかった。そして彼女が持つ薙刀はどう見ても日本の薙刀には見えなかった。

 このことは後に妻が公民館の主催する[転入者講座]で答えを見つけてきてくれた。郷土史研究家の講師が「天宝味噌の会社の有志が資金を出し合って作ろうとしたが、制作費が高くて国内で作れず中国に発注したら、このようなものになってしまった。」という話しをしたらしい。飯盛山の白虎隊士の像もまったく同じ材質と同じ雰囲気の像であり、多分同じく中国で作られたものなのではないかと思っている。平成11年春のNHKのニュースで「赤穂浪士ゆかりの神社に47士の石像を立てたが中国で作ったため、中国風の浪士になってしまった。」と伝えていたが同じ雰囲気のものであった。私には中国の兵馬俑の様に見えた。

 自刃の場所と階段を登り墓地のある広場に戻る間の小道は雪と雨の日を除いて老女が箒で掃き清めている。朝6時ごろに散歩をすると黙々と掃除をしている姿を目にすることが出きる。私は一度だけ話をしたが、「20年程になるかねー」笑って答えてくれた。観光客でごった返す自刃の地はこのような方の努力できれいに保たれている。小道の脇の真新しい箒の痕を見たらこれを思い起こしてほしい。

 自刃の碑の灯篭には誰が備えたのか線香と蝋燭、そしてマッチが置かれており誰でも線香を手向けられるようになっている。そして、この場所は一年中線香の煙が絶えることがない。朝早くから煙が立っている。

 夏の朝5時半ごろであったろうか、やっとのことで線香を手向けている男性を目撃することができた。ところがこの男性、なんと私のよく知る長崎出身の会津若松市役所に勤める方であった。

 彼は「居合道」をやっており、数年前、全国の居合の達人達が会津に集まった時にお手伝いをした折、「居合という刀を道具とし、命と向かい合う武道をやる以上、白虎隊の精神に対する慰霊(このような表現でなく敬意だったかもしれない)をすべきではないか」といわれ、通うようになったといっていた。居合道のことはほとんど知識がないが、彼は6段と7段との間の教導(正確ではない。)であるといっていた。

 白虎隊の墓地を後にし、お茶屋の脇を過ぎ、階段を右に外れて、なだらかなスロープを降りていく。私はここから見る鶴ヶ城が一番絵になるのではないかと思っている。

ここから見ると正面にある杉の木と桜の枝がフレームになるためまことに日本的であり風情のある眺めになる。

 そして、少し降りると正面には宇賀神社と茶店が見えてくる。このスロープの山際には古く小さな碑が並んでいる。これは「花塚」、「水塚」、「茶筅塚」である。明治時代にこれらの道の先達達が立てたものらしい。何とかこの碑文を読もうとチャレンジしたがどうしても読み取ることができなかった。私の散歩は飯盛山の碑文を読む為に多くの時間をついやしていた。ところがほとんど漢文や古文あるいは草書体であるため難解であった。朝早く出かけて人通りのないうちに崖を上り、碑にかかれている薄い文字を解読しようとしたがこれはどうしても読むことができなかった。やむなく文献を調べたところ花塚にはあの松平容保公の「花という花をあつめてこの塚のいしもさこそは世にかおりらめ」とあるらしい。なんという風雅の極みであろうか。私はますます容保公を尊敬するようになった。

 宇賀神社には白虎隊の自刃の様子を描いた額縁がある。ここ描かれている白虎隊士の姿が最も実際の服装に近いものであるといわれている。

 そのとなりには「供養車」という銅製の2メートル程の円柱がある。その上部に大きな車輪が付けられておりそれを回すと「キーキー」と悲鳴に似た音を出す。説明文によると「この車を回せば悲痛な音を発し、これが冥土に届いて、白虎隊の霊魂を慰めるものです。」と書かれている。

さざえ堂 少し進むと、土産物屋の隣の狭い敷地に正六角形をした塔が見えてくる。これは「さざえ堂」といい、1796年に建立されたものである。この建物の特徴はなんと言っても内部の階段がらせん状になっており登る時と下る時同じ通路を通らないことである。往路と復路を異にするこのような建物は世界中でもここだけの珍しいものらしい。国の重要文化財であるが、本来の宗教的な要素がなくなって観光的な取り扱いの為か雑な取り扱いをされているように思えてならない。それにしても江戸時代の宮大工の発想と技術は驚くべきものがある。

 先に進み下に降りるとそこは大きな杉木の間に立てられた「厳島神社」がある。この縁起はこの神社の正面の参道を少し下りた社殿に向かって左側に小さな牛が祭られている場所に書かれている。それには「14世紀の頃、農夫が飯盛山麓を耕していると、紫雲がたなびき美しい霊妃が多くの童女を従えて現れ、この地こそ最高の龍王の霊場であると告げた。農夫はその地の石部氏などの豪族にこのことを伝え、荘厳な社殿を作った。その工事中、童女が赤牛に乗って現れ、赤飯を器に盛って人夫たちに与え、いくら食べても尽きなかったという。それでこのあたりを「飯盛」「牛墓」等の地名と民芸品「赤べこ」の由来になった。」と書かれている。

 この厳島神社の左側には飯盛山を貫いた洞門があり、白虎隊が戦いに敗れ、ここを通って逃れてきたことで有名である。これは猪苗代湖から灌漑の為に江戸時代の初期に作られたもので、「戸ノ口用水堰」と呼ばれている。全長が30キロを超え、東山温泉の入り口に当たる天寧寺町に至るものである。

 この隋道は全長が150メートル程あり、表からは昔ながらの山肌を掘っただけのものに見えるが、入り口から5メートル程入るとセメントでできており、大人が立って歩ける高さがある。会津の小学生は三年生になるとこの洞門の水を止めて通りぬける体験をする。我が家の子供達は三年生ではなかったが通りぬけに参加させてもらい白虎隊体験をした。

もともと、池の隣に立つ「用水堰神社」の裏から飯盛山の北側を流れていたのらしいが、毎年崩壊する為この洞門を作ったという。

 水が流れ出て落ち込むところは砂がたまり浅い池のようになっているが、昔は青々とした深い池で、切り立った随道の上の崖から飛びこんでも底につかなかったという。しかし今では流れ込む砂を定期的に運び出さない為浅い池になってしまっている。

 この用水は厳島神社の脇を通り、飯盛山の山腹を南に流れている。この用水堰沿いの道は白虎隊が通った道であり、堰沿いに5〜60メートル程歩くと、飯盛山の参道の入り口にある白虎隊記念館の真上に出る。白虎隊はここで初めて城下が炎上しているのを知ったという。

 用水は参道と交差しスロープコンベアーの乗り継ぎ地点の下を通り、南に100メートルほど進むと彼らが自刃した場所の真下に出る。そしてそこに架かる橋を渡り急な墓の参道を駆け上り、鶴ヶ城が炎に包まれているのを見て、もはやこれまでと幼い頃からの教えに従い黄泉にての再会を約して自刃して果てたのである。

飯盛山はこの他にもいくつか触れておくべきものがある。

 その一つは、参道脇の白虎隊記念館の左側にはえている「太夫桜」であろうか。その昔ここを尋ねた太夫が、暴漢に襲われて命を落した。それを悲しんだ弟の僧侶が植えたものであるという。

 ただ時としていささか不釣合いなものもある。厳島神社の右奥に立てられた市内の俳句会の建立した「そびえたつピサの斜塔とさざえ堂」という碑はいかがなものであろうか。

 蛇足を承知でもう一つ紹介すると、飯盛山の前の通り(いまは「いにしえ夢街道」と住民の感覚とかけ離れた観光本位のネーミングがされている。)に「とばすな車、昔はわらじで歩いてた。」と黒御影石に署名入りで彫られている。意味は理解できるが、後段についてはなんという時代感覚なのだろうか。私はいつも吹き出してしまうが、皆さんはどのように考えられるか。

 さらにこの飯盛山には階段や記念碑や石壁をいろんな方が寄進、建立している。しかし、どれも一番目立つところに寄進者の名前が彫られたり埋め込まれたりしている。私有地であるがゆえに、地権者の承諾があればいろんな方がいろんな方法により自分の名を残すことが許される。ただ、私には本来忠魂の場所であるべきこの場所(この認識が大きく違うのが現状なのであろう)が、このような形で利用されているのが残念でならない。

 この脇にある白虎隊記念館と会津戦争資料館には狭いところにこれでもかというほど戊辰戦争の資料が詰めこまれている。ほとんどごった煮状態である。

 白虎隊記念館は元弁護士をしておられた早川氏が尽力してできたものであるが、氏は平成11年1月になくなられた。記念館の中には土井晩翠の手紙などその交友の広さと人徳をしのばせる多くの資料も残っている。私は2代目館長である息子さんにいろんな話をゆっくりと聞かせてもらう幸運に恵まれた。ところがこの館長、元会津若松市長であり、その前は国際経済学者である。

 神社の前の参道を下り、太夫桜を過ぎ、右に折れて民家の庭先を3分も歩くとすぐに大きな道に出る。昔の白河街道に連なる滝沢街道である。その前には、戊辰戦争の時の「旧滝沢本陣」がある。白虎隊は陣頭指揮に立った松平容保公の護衛としてここにやってきた。ところが戸の口の戦況が不利との報告を受け、容保公の命によりここから出陣して行ったのである。

 この本陣跡は中を見ることが出来るが、奥の部屋には西軍の撃ち込んだ弾の後や刀で切り会った際できた柱の「刀尻」など激戦の様子が伺える。

 ここあたりまでが飯盛山周辺ということになろうか。

 これからは飯盛山番外編である。私の住んでいた場所は飯盛山の南側の閑静な住宅街である。家から白虎隊の自刃の場所まで5分ほどしかない為、赴任してきてから毎週のように観光客とまったく反対のコースを辿り、白虎隊が渡った橋を渡り彼らが登った急坂を登り、参拝と共に会津盆地の四季の変化を見つめてきた。そして、自刃の地で線香を手向けていた。それもほとんど早朝である。

 飯盛山の南側には2本の大きな樹(我が家では「トトロの木」といっている)にまもられた社があり、その脇から稜線に沿って山頂まで登る道がある。山頂の手前で広い笹薮になっておりこれをこいで上がるのが大変である。約15分程である。飯盛山の山頂は思ったより広い場所で、小さな石の祠がある。ここから会津の町並みと平野が杉木の間から見え隠れする。飯盛山に登った時、登ってきた道を引き返す事をせずに市街地側の藪の中を下りたことがある。かなりの急斜面でスリリングであるが、白虎隊の墓の並ぶ場所の裏に下りられる。

 これは会津若松のほとんどの人が知らない道である。とりあえず、飯盛山登頂の記録として付記しておく。

 ここまでの文脈で書くことができなかった白虎隊についての語られていない事実について書いておく。白虎隊記念館の早川館長と市立図書館で市史編纂の専門家である野口真一氏に聞いた話である。多分これが事実であろうと思う。

飯盛山の白虎隊の墓は19基であるが、それはもともと一人だけ生き残った飯沼定吉少年の証言に基づくものであるらしい。彼が飯盛の洞門を出てくるときに数えたという。ところがここに収められている遺骨は飯盛の肝いりをしていた吉田氏が自刃の地から妙国寺に一度仮埋葬したのを新政府の軍務局の命令により再度もとの場所に戻された。

その後埋葬されたときには遺体の数すら確認できない状態だったらしい。またひそかに遺体を移動させに行ったためそれほどの人手を連れていっていないという。さらにここに埋葬された白虎隊士の内3名は明らかにこの飯盛山で死んだものではなく、猪苗代と若松の中間ほどにある金堀という場所で死んだ遺体と近くの山中にあった2体であるという。

すなわち自刃した白虎隊士が20人であるという前提事実がいささか疑問なのである。

 また飯沼定吉は家のお手伝いさんに助けられたというが、そのお手伝いさんは飯盛山から1.5キロほど離れた家に来ていたのであり、戦いの最中に定吉を探しに来たというのはいささか腑に落ちない。むしろ蘇生して飯盛の近くにあった奉公人の家に助けを求めて行き、探しに来て偶然に見つけられたことにしたとしたのではないかというのである。 これが白虎隊に関する事実であると思う。飯盛山の白虎隊はある意味では後世の人達によって美化されたものというほうが正しいような気がする。


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