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                           会津の柔道家青木五郎先生

会津の「柔道家青木五郎」という偉大な柔道家を御存知であろうか。

青木五郎先生は講道館9段で全日本柔道連盟参与・会津武道会会長等を勤め福島県柔道を指導してきた偉大な柔道家である。

平成13年に亡くなられたが会津の柔道のために一生を尽くした「柔道家青木五郎先生」の人となりを私がお聞きした範囲で可能な限り紹介してみたい。


青木先生は明治43年(1910年)福岡県で黒田藩藩士の青木和四郎、ヤスの六人兄弟の五男末子として生まれた。

大正13年に旧制福岡中学時代に入学し、ここで柔道と出会った。中学卒業後、京都にあった大日本武徳会武道専門学校(京都武専)に入学し柔道の腕を磨いた。


*大日本武徳会は,桓武天皇(737〜806)が平安京武徳殿で武技を奨励したことに因んで,明治28(1895)年平安神宮創設を機に設立された。明治38年、平安神宮境内に武術教員養成所が開設され、のち武道専門学校となった。会長を東条英機等の陸軍大将が勤めていた関係から、敗戦いともない昭和21(1946)年にGHQの命令により解体された。


昭和8年3月、柔道4段、武道学士の称号を得て京都武専を卒業の後1年間、山口県立徳山商業高校に赴任する。ところが翌昭和9年3月30日、恩師の「東北の鎮台になり、昭和の白虎隊の養成に当たれ」という勧めで旧制会津中学(現会津高校)に柔道、国語、漢文の教師として赴任した。


会津若松駅(大正6年に若松駅から会津若松駅になっている)に降り立った翌日、飯盛山の白虎隊の墓に土下座して参拝したという。

会津中学は文武両道の校風で、柔道の練習時間が十分に取れないため稽古は実践本意の練習を行なった。そして昭和12年の全国中等学校大会で準優勝を果たし、昭和16年の明治神宮大会では準々決勝で長崎に破れたたものの、翌年も県大会優勝し全国大会に出場したという。会津中学の寝技は「参った」なしの落ちるのが基本だったという。白虎隊精神を重んじ、「参った」を恥じとしたからである。

13年間在職した会津高校から昭和24年に福島県立若松商業高等学校に赴任し、昭和45年に定年により退職している。その間、8回もインターハイに出場させ東北に「若商」ありという時代を築いたという。

そして昭和47年から昭和60年まで日本大学東北高等学校の講師を務めている。

教職を離れてからは知人お勧めでガソリンスタンド(会津興産鉱油代表取締役会長)を経営されておられた。

そして昭和27年宮城、山形、福島の三県共催の第7回国体においては若松市(会津若松市は昭和30年1月1日から)が柔道会場として選ばれ、大会運営に参加した。さらに昭和53年のインターハイでは審判長として、さらに平成7年第50回福島国体も柔道は会津若松市 鶴ヶ城公園鶴ヶ城体育館が会場となり、成人男子第一位、女子も第三位となった。会津若松市が柔道の会場となったのは青木先生の存在が大きかったといわれている。

 


会津の柔道発展のために尽力してきた先生は友人お勧めと関係者の協力を得て昭和33年4月に念願かなって「青雲塾」という柔道場を開いた。104畳の道場に更衣室、シャワー室、師範代室まで備えた先生の言葉を借りると「日本一の町道場」であった。

 

私は平成9年1月転勤により縁あって会津若松市に赴任した。その翌年平成10年に取引先の紹介で会津に九州出身者で組織する「会津九州会」というのがあると知り参加させていただき、そこで始めて会長の青木五郎先生にお会いした。

先生は当時ですでに88歳と高齢であったが矍鑠とした姿勢にびっくりしたとことを覚えている。

初めて参加した会で同年5月3日の「生涯柔道家栄誉の九段位」という先生が載った新聞記事が配られそこに「青雲塾道場主宰」とあった。この青雲塾という道場名は、たまたま息子達が参加していた東山スキースポーツ少年団のメンバーで競技スキーと柔道を両立させている「明日香」という少女が通っていたため知っていた。そこで自己紹介の後、「明日香がお世話になっていますね。」と切り出すと「明日香は根性もあり真剣に取り組んでいる。いい娘だ。」と話しを頂いたのが最初の会話であったと記憶している。

 


九州会で数回お会いしたあと、あるとき神明通りにあった会社の窓からふと下を見ると青木先生が暑い中、とぼとぼと歩いておられた。すぐに駆け下りて先生に声をかけると「湯川の会社に帰るところ」であるという。そこで「私の車で送りましょう」というと「そうしてくれるか」といって微笑んでいただき、経営されておられるガソリンスタンドまでお送りした。

そしたら「お茶でも」ということでガソリンスタンドの2階にある会長室に案内していただいた。


そこで私の高校時代の柔道の先生は当時講道館八段で昭和47年の鹿児島国体の時、古武道の模範演技を行った高名な方であったのでお話したら、当然その方をご存知であった。その話しをきっかけとして、先生の生い立ちから会津での武道家、教員時代の話など聞く機会に恵まれた。そして最後に先生の活躍などを紹介した「全国高等学校体育連盟柔道部平成10年度第38回研究調査報告」等の本やコピーを貸していただいて帰った。そしてその資料を読んで会津九州会の会長青木五郎先生が会津いや福島柔道界における偉大な人物であることを初めて自覚した


そして、しばらくして会津若松市の大手企業経営者の御家族の葬儀の席でたまたま御一緒したときも、親しく市長さんや、企業経営者の方に「九州の後輩です。」と紹介して歩いていただいた。

そのあと「家まで送ってくれるか。」という話になり、湯川の御自宅までお送りしたら、ぜひ「ぜひ青雲塾を見ていってくれ」と言われて見せていただいた。「私塾の道場で100畳の道場はここ以外にはない。」誇らしげに話しておられた。その際、道場の正面に掛けられた「力必達」は講道館の嘉納治五郎先生の筆になるもので「つとめれば必ず達する」という意味であると教えていただいた。そして左には柔道の奥義、「柔能制剛」という言葉が右側には「堅誠」という書額がある。


そして隣にある自宅に行き、葬儀の礼服から背広に着替えた後、以前頂いた資料からうかがい知れなかったいくつかの話しを聞かせていただいた。

一つは戦前九州人が会津に単身に赴任してきた時の人々の対応というか反応について聞いてみた。

最初の頃、多少の武勇伝はあったらしい。しかし武専を出た武道家が素人を相手にすると間違いなく怪我をさせるので我慢したという。しかし会津に来て最初の年にラジオの中継のある全国大会で勝って凱旋したら周りの見る目は一変したらしい。


もう一つはお母様の話である。先生は4歳のとき父親を失った。そしてその後気丈な母親に育てられたという。京都武専のときも母親の励ましで頑張れたという。そして会津に赴任する決心をしたのも「自分を知る人のためならば命をかけて戦え。」という母親の一言であるという。そのお母様も戦後会津を訪ねてきてそして会津でなくなったという。お母様のことを心から愛し慕っていたことが話しの節々に伺えた。
浄光寺

その後、何かの宴会があるからといってお城のそばの会場までお送りした。


最後にお会いしたのは平成11年の九州会の鶴ヶ城での花見の席であったであろう。この年先生は勲章を受章しており華やかな花見であった。家族で参加させていただき会津鶴ヶ城の満開の桜の下で心から会津の花見を楽しんだ。

11年秋に会津を離れて甲府に赴任して、その後お会いする機会はなかったが、先生が13年になくなったこと人伝に聞いた。

全国に名を馳せた昭和の武道家であるが、そばにいて猛々しさを微塵も感じさせず、むしろ誰にも慕われる懐の深い優しさを漂わせていた。


会津は夏目漱石の小説「姿三四郎」のモデルであるといわれる西郷頼母(たのも)の養子となった西郷四郎を生んだ土地であり、それほど上背のない小柄な青木先生に姿三四郎の姿を見るような思いがした。


青木先生の墓今になって思うことであるが今話題の映画「ラストサムライ」は西郷隆盛をモデルにしたといわれているが、青木先生は会津のラストサムライと思えてならない。

会津でご恩を受けた青木先生の足跡を多くの人に知っていただければと思い私がお聞きした範囲でまとめてみたものである。

青木五郎先生は会津若松市宝町4-25の浄光寺に眠っておられる。冥福をお祈りするとともに「会津の柔道家青木五郎先生」が会津の人々の記憶の中で何時までも語り継がれることを祈っている。


参考 講道館編集部「柔道」平成13年6月号「故青木五郎先生の御逝去を悼む」

青雲塾道場 会津若松市湯川町1−41 

追記(2007.11.24)
平成19年11月24日に会津を訪ねて先生の墓を訪ねてきた。左の写真がその墓の写真である。住職にお尋ねしたら上の写真の門を入り真っ直ぐに進んだ突き当り、五輪塔の裏にあった(比較的わかり易い。) 戒名は「秀道院法柔日朗居士」「五郎平成13年3月13日 92歳」
と彫られていた。海老名リンの像

海老名リンについて
浄光寺の参道を青木先生の墓に向かう途中の松の木の下に「海老名先生像」と書かれた老女の坐像があった。像の前の石版には「海老名リン  嘉永2年小田垣に生まれる。父は会津藩士日向新介 海老名郡治李昌(会津藩家老 初代市長(加筆 秋山清八)代行となる。)に嫁ぎ戊辰戦争を体験  斗南 東京などの試練の生活と斗い  キリスト教の感化を受ける中で 郷里会津に幼児及び   女子教育の必要性を痛感し明治26年私立若松幼稚園と若松女学校(現若松女子高)を創立する   昭和42年没する 昭和7年幼稚園卒園生により石像建立  昭和58年12月3日  創立90周年記念 学校法人若松幼稚園」と書かれていた。会津の偉大な先人である。この機会に青木先生のサイトに付記して紹介する事にする。

海老名郡治について
海老名郡治は戊辰戦争のさなかの慶応4年7月に若年寄になり8月には家老に就任している。慶応3(1867)年1月11日、パリ万博に出席する徳川昭武の随行員のなかに海老名郡治の名が見える。

                                平成19年11月24日更新

                 
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