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会津見て歩記(会津若松市編)
(A4で30ページほどありますのでご容赦ください。)

会津若松に転勤して来て、この会津は私と家族にとっては間違いなく特別な場所になった。この会津をある意味ではここに住んでいる人達以上に愛し、拘りをもって見てきたと思う。そこで、今までに見聞きしたことの記憶を辿りながら書きとめてみたいと思う。まずおことわりしておくが拘りが多すぎて、取り止めのないものになり膨大な量になりそうである。ただ会津を楽しむためのキーワードは「歴史との対話」でありこれなしには空虚なものになってしまうと考える。


(飯盛山)

 会津を語るにはまず、「飯盛山」について書き始める以外にないし、又あらゆる意味で正しいと思う。

 飯盛山はJR磐越西線会津若松駅の東約1.5キロのところにある標高360メートルほどの小高い丘である。会津盆地の東を南北に走る背炙(セアブリ)山地の里山の一つである。

この飯盛山は、「白虎隊自刃の地」として歴史に現れ、悲劇的英雄達とともに国民に広く知られるところとなっている。

 白虎隊は戊辰戦争の終わりに、押し寄せる西軍(官軍=会津では自らは賊軍であるという認識がないため、薩摩・長州を筆頭とする西南諸藩が幕藩体制を倒すための戦争だったとしてそれらを西軍といっている。)を迎え撃つために、飯盛山の北側にある会津藩の本陣(滝沢本陣)を猪苗代方面に出撃し、猪苗代湖から流れ出る日橋川(ニッパシガワ)に架かる十六橋の守備に回ったのであるが、戸の口の戦いで怒涛のごとく押し寄せる西軍の前に武運尽き、敗走して帰ってきたのがこの飯盛山である。

 会津に訪れて、飯盛山、鶴ヶ城を尋ねるためには車、電車で来てもバスを使っても決して迷うことはない。この両方の案内板は町中にあり必ず分るようになっている。「会津の道(案内板)は飯盛山と鶴ヶ城につながっている。」である。

 飯盛山の参道の階段は道路からは171段あり、その脇を有料のスロープコンベアー(歩道)がある。階段を登り終えるとそこはテニスコート2面程の広場に出る。広場より一段高くなった大きな石灯籠の奥には自刃した19基の白虎隊士の墓が並んでおり中央の焼香台には線香の煙の絶えることはない。

 その右脇には戦死した31基の白虎隊士の墓が少し寂しく並んでいる。この墓の中には14歳の少年の墓もある。

 白虎隊士の墓の左側には彼等が殉じた君主、第9代松平容保(カタモリ)公の哀悼の碑が建っている。それには「幾人(イクタリ)の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽ちじとぞ思う」とある。その名は「松平」ではなく「源容保」とある。松平家は清和源氏の末裔でということか。後に述べるが、会津にきて容保公と蒲生氏郷公の歌には本物の武士の教養を感じさせられるものがある。

 白虎隊の墓をあとにして広場に出ると山際には観音像と黒い御影石に「詩吟白虎隊」の彫られた碑があり、右正面にはこの広場で一番目立つ「イタリー記念碑」がある。

これは昭和3年(1928年)12月1日、白虎隊士の行動に感動したローマ元老院と市民の名において日伊親善の為に贈られた。

 この記念碑はかなり大きなもので碑文の刻まれた基礎部分の上には2メートル程のベスビオス火山の噴火で沈んだポンペイ宮殿から発掘された赤色花崗岩の古代円柱がのり、その上には右足にマサカリを持っていた鷲が羽を広げている。その碑文にはイタリア語で「文明の母なるローマは白虎隊勇士の遺烈に不朽の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。」と記され裏面には「武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より」と刻されている。

 この碑文は、第二次世界大戦後、会津に進駐した米軍の手により、削り取られ、鷲が左足に持っていたマサカリは撤去されたのであるが、碑文は昭和60年に全文復活された。

 そして広場の右手前に小さい十字記章の刻まれた「ドイツ記念碑」がある。これは昭和10年駐日ドイツ大使館付武官のハッソウ・フォン・エッドルフ大佐が白虎隊士の行動に深く感動し、ドイツ語で「会津の少年武士に贈る」と刻んだ碑を贈ったが、「イタリー記念碑」と同様に米軍により削り取られた。しかし、日本の主権が回復した後の昭和28年、当時駐カナダ西ドイツ大使をしていた同氏の希望により復元されたという。

 この両記念碑は、いみじくも、軍国主義、ファシズム等という日独伊三国軍事同盟の当事国であり、純真であるがゆえに悲劇的な結末をむかえた白虎隊士の行為が悲しい時代を背景として彼らの思いとは違う利用のされ方をされている。またしても時代が彼らの純真さを弄んだのである。

 そもそも、白虎隊が世界に紹介されたのは1920年のボーイスカウトの第1回世界大会である。軍人精神で少年を鍛えようとする元英国軍人の創立者は34ヶ国の代表の前で「白虎隊の精神こそ万国少年団の模範だ。」と演説した。戦意高揚に利用しようとする意図が見え見えである。今、この前では観光茶店の女性による白虎隊の踊りが舞われ、記念写真が撮られる場所となっている。

 それにしても超国宝級のポンペイの石柱を気前良く一本贈るムッソリーニは凄いと思うのは私だけであろうか。この前に立つと私は幾分複雑な気持ちになる。

 イタリー記念碑とドイツ記念碑の間を一段降りて小道を少し進むとそこに白虎隊士自刃メンバーの中で唯一の生き残り、「飯沼貞吉(後貞雄)」の墓がある。彼が生存したため白虎隊の行動が後世に残されたのであるが、彼は生前多くを語らなかったという。

彼は有能な逓信技師として仙台市に住み、そこで没した。彼の墓は戊辰戦争90年祭の昭和32年に彼らが自刃した場所と自刃を遂げた19名の墓の間に移されたのである。 

 飯沼貞吉の墓を出ると、すぐに視界が広がり会津若松の市街が一望できる。急な階段を降りるとそこが白虎隊士自刃の場所である。彼らはそのすぐ下の道から20メートル程、急坂を駆け上りお城の惨状を目にしたのである。

 広場には白虎隊士の墓標と共にその脇に額に手をかざして燃え落ちる鶴ヶ城を悲しく望む白虎隊士の像がある。ここから南西の方角を見ると鶴ヶ城が小さく見える。たしかにお城はここから2キロほどある、周りの武家屋敷や民家が燃えていると、その煙と炎でお城が燃えていると思えても不思議ではない。

 ここから見るお城は思ったほど大きくない。目がいい人でもすぐに見つける事はできない。ましてや視力の弱い人はなかなか難しいだろう。ここからお城を探すには、いささか無粋ではあるが、お城の正面にある赤白のNHKラジオの電波塔を見つけるとその後ろにある。

 ところで、あまり語られていないことであるが、鶴ヶ城を望む白虎隊士の像について付言する。これを建ててくれた有志の方々にとっては失礼な、ある意味では禁句なのかもしれない。私にはこの像はどう見ても、精悍なる白虎隊士の少年の姿には見えず、10歳ほどの童子にしか見えない。鶴ヶ城の四層の壁に掛けられている肖像画にある精悍な少年達のイメージはまったくなく、はっきりいって不釣合いであると思う。

 最初にこの場所を訪れた時にも又雑誌の写真を見たときもそう思った。そしてそのことは、会津戦争における女性のヒロイン「中野竹子」の像を見たときも同じ思いをした。中野竹子は会津東山から大川(阿賀川)に流れる湯川のほとりで西軍兵士と戦いになり、薙刀に「武士の武き心にくらぶれば数にも入らぬわが身なれども」という辞世の短冊をつけて壮絶な戦死を遂げるのである。彼女は飯盛山の「白虎隊記念館」にある肖像画では殿様の手紙の代筆をするほどの素晴らしい書道家(彼女の書は20歳そこそこの女性の手によるとは思えないほど素晴らしいものである。)であり、かなりの美人であるといわれていた。

 私は会津に赴任してきた翌日に引継ぎと挨拶回りで彼女の墓のある会津坂下町(バンゲマチ)に行き彼女の辞世を知り会津の女性の強さを知った。そして興味を持って彼女のことを調べていた。会津天宝味噌の工場の隣が彼女の戦死の地であり辞世を刻んだ碑と像があると聞き訪ねたことがある。ところがそこにある中野竹子像は明らかに10歳程の童女にしか見えなかった。そして彼女が持つ薙刀はどう見ても日本の薙刀には見えなかった。

 このことは後に妻が公民館の主催する転入者講座で答えを見つけてきてくれた。郷土史研究家の講師が「天宝味噌の会社の有志が資金を出し合って作ろうとしたが、制作費が高くて国内で作れず中国に発注したら、このようなものになってしまった。」という話しをしたらしい。飯盛山の白虎隊士の像もまったく同じ材質と同じ雰囲気の像であり、多分同じく中国で作られたものなのではないかと思っている。平成11年春のNHKのニュースで「赤穂浪士ゆかりの神社に47士の石像を立てたが中国で作ったため、中国風の浪士になってしまった。」と伝えていたが同じ雰囲気のものであった。私には中国の兵馬俑の様に見えた。

 自刃の場所と階段を登り墓地のある広場に戻る間の小道は雪と雨の日を除いて老女が箒で掃き清めている。朝6時ごろに散歩をすると黙々と掃除をしている姿を目にすることが出きる。私は一度だけ話をしたが、「20年程になるかねー」笑って答えてくれた。観光客でごった返す自刃の地はこのような方の努力できれいに保たれている。小道の脇の真新しい箒の痕を見たらこれを思い起こしてほしい。

 自刃の碑の灯篭には誰が備えたのか線香と蝋燭、そしてマッチが置かれており誰でも線香を手向けられるようになっている。そして、この場所は一年中線香の煙が絶えることがない。朝早くから煙が立っている。

 夏の朝5時半ごろであったろうか、やっとのことで線香を手向けている男性を目撃することができた。ところがこの男性、なんと私のよく知る長崎出身の会津若松市役所に勤める方であった。

 彼は「居合道」をやっており、数年前、全国の居合の達人達が会津に集まった時にお手伝いをした折、「居合という刀を道具とし、命と向かい合う武道をやる以上、白虎隊の精神に対する慰霊(このような表現でなく敬意だったかもしれない)をすべきではないか」といわれ、通うようになったといっていた。居合道のことはほとんど知識がないが、彼は6段と7段との間の教導(正確ではない。)であるといっていた。

 白虎隊の墓地を後にし、お茶屋の脇を過ぎ、階段を右に外れて、なだらかなスロープを降りていく。私はここから見る鶴ヶ城が一番絵になるのではないかと思っている。

ここから見ると正面にある杉の木と桜の枝がフレームになるためまことに日本的であり風情のある眺めになる。

 そして、少し降りると正面には宇賀神社と茶店が見えてくる。このスロープの山際には古く小さな碑が並んでいる。これは「花塚」、「水塚」、「茶筅塚」である。明治時代にこれらの道の先達達が立てたものらしい。何とかこの碑文を読もうとチャレンジしたがどうしても読み取ることができなかった。私の散歩は飯盛山の碑文を読む為に多くの時間をついやしていた。ところがほとんど漢文や古文あるいは草書体であるため難解であった。朝早く出かけて人通りのないうちに崖を上り、碑にかかれている薄い文字を解読しようとしたがこれはどうしても読むことができなかった。やむなく文献を調べたところ花塚にはあの松平容保公の「花という花をあつめてこの塚のいしもさこそは世にかおりらめ」とあるらしい。なんという風雅の極みであろうか。私はますます容保公を尊敬するようになった。

 宇賀神社には白虎隊の自刃の様子を描いた額縁がある。ここ描かれている白虎隊士の姿が最も実際の服装に近いものであるといわれている。

 そのとなりには「供養車」という銅製の2メートル程の円柱がある。その上部に大きな車輪が付けられておりそれを回すと「キーキー」と悲鳴に似た音を出す。説明文によると「この車を回せば悲痛な音を発し、これが冥土に届いて、白虎隊の霊魂を慰めるものです。」と書かれている。

 少し進むと、土産物屋の隣の狭い敷地に正六角形をした塔が見えてくる。これは「さざえ堂」といい、1796年に建立されたものである。この建物の特徴はなんと言っても内部の階段がらせん状になっており登る時と下る時同じ通路を通らないことである。往路と復路を異にするこのような建物は世界中でもここだけの珍しいものらしい。国の重要文化財であるが、本来の宗教的な要素がなくなって観光的な取り扱いの為か雑な取り扱いをされているように思えてならない。それにしても江戸時代の宮大工の発想と技術は驚くべきものがある。

 先に進み下に降りるとそこは大きな杉木の間に立てられた「厳島神社」がある。この縁起はこの神社の正面の参道を少し下りた社殿に向かって左側に小さな牛が祭られている場所に書かれている。それには「14世紀の頃、農夫が飯盛山麓を耕していると、紫雲がたなびき美しい霊妃が多くの童女を従えて現れ、この地こそ最高の龍王の霊場であると告げた。農夫はその地の石部氏などの豪族にこのことを伝え、荘厳な社殿を作った。その工事中、童女が赤牛に乗って現れ、赤飯を器に盛って人夫たちに与え、いくら食べても尽きなかったという。それでこのあたりを「飯盛」「牛墓」等の地名と民芸品「赤べこ」の由来になった。」と書かれている。

 この厳島神社の左側には飯盛山を貫いた洞門があり、白虎隊が戦いに敗れ、ここを通って逃れてきたことで有名である。これは猪苗代湖から灌漑の為に江戸時代の初期に作られたもので、「戸ノ口用水堰」と呼ばれている。全長が30キロを超え、東山温泉の入り口に当たる天寧寺町に至るものである。

 この隋道は全長が150メートル程あり、表からは昔ながらの山肌を掘っただけのものに見えるが、入り口から5メートル程入るとセメントでできており、大人が立って歩ける高さがある。会津の小学生は三年生になるとこの洞門の水を止めて通りぬける体験をする。我が家の子供達は三年生ではなかったが通りぬけに参加させてもらい白虎隊体験をした。

もともと、池の隣に立つ「用水堰神社」の裏から飯盛山の北側を流れていたのらしいが、毎年崩壊する為この洞門を作ったという。

 水が流れ出て落ち込むところは砂がたまり浅い池のようになっているが、昔は青々とした深い池で、切り立った随道の上の崖から飛びこんでも底につかなかったという。しかし今では流れ込む砂を定期的に運び出さない為浅い池になってしまっている。

 この用水は厳島神社の脇を通り、飯盛山の山腹を南に流れている。この用水堰沿いの道は白虎隊が通った道であり、堰沿いに5〜60メートル程歩くと、飯盛山の参道の入り口にある白虎隊記念館の真上に出る。白虎隊はここで初めて城下が炎上しているのを知ったという。

 用水は参道と交差しスロープコンベアーの乗り継ぎ地点の下を通り、南に100メートルほど進むと彼らが自刃した場所の真下に出る。そしてそこに架かる橋を渡り急な墓の参道を駆け上り、鶴ヶ城が炎に包まれているのを見て、もはやこれまでと幼い頃からの教えに従い黄泉にての再会を約して自刃して果てたのである。

飯盛山はこの他にもいくつか触れておくべきものがある。

 その一つは、参道脇の白虎隊記念館の左側にはえている「太夫桜」であろうか。その昔ここを尋ねた太夫が、暴漢に襲われて命を落した。それを悲しんだ弟の僧侶が植えたものであるという。

 ただ時としていささか不釣合いなものもある。厳島神社の右奥に立てられた市内の俳句会の建立した「そびえたつピサの斜塔とさざえ堂」という碑はいかなるものであるろうか。

 蛇足を承知でもう一つ紹介すると、飯盛山の前の通り(いまは「いにしえ夢街道」と住民の感覚とかけ離れた観光本位のネーミングがされている。)に「とばすな車、昔はわらじで歩いてた。」と黒御影石に署名入りで彫られている。意味は理解できるが、後段についてはなんという時代感覚なのだろうか。私はいつも吹き出してしまうが、皆さんはどのように考えられるか。

 さらにこの飯盛山には階段や記念碑や石壁をいろんな方が寄進、建立している。しかし、どれも一番目立つところに寄進者の名前が彫られたり埋め込まれたりしている。私有地であるがゆえに、地権者の承諾があればいろんな方がいろんな方法により自分の名を残すことが許される。ただ、私には本来忠魂の場所であるべきこの場所(この認識が大きく違うのが現状なのであろう)が、このような形で利用されているのが残念でならない。

 この脇にある白虎隊記念館と会津戦争資料館には狭いところにこれでもかというほど戊辰戦争の資料が詰めこまれている。ほとんどごった煮状態である。

 白虎隊記念館は元弁護士をしておられた早川氏が尽力してできたものであるが、氏は平成11年1月になくなられた。記念館の中には土井晩翠の手紙などその交友の広さと人徳をしのばせる多くの資料も残っている。私は2代目館長である息子さんにいろんな話をゆっくりと聞かせてもらう幸運に恵まれた。ところがこの館長、元会津若松市長であり、その前は国際経済学者である。

 神社の前の参道を下り、太夫桜を過ぎ、右に折れて民家の庭先を3分も歩くとすぐに大きな道に出る。昔の白河街道に連なる滝沢街道である。その前には、戊辰戦争の時の「旧滝沢本陣」がある。白虎隊は陣頭指揮に立った松平容保公の護衛としてここにやってきた。ところが戸の口の戦況が不利との報告を受け、容保公の命によりここから出陣して行ったのである。

 この本陣跡は中を見ることが出来るが、奥の部屋には西軍の撃ち込んだ弾の後や刀で切り会った際できた柱の「刀尻」など激戦の様子が伺える。

 ここあたりまでが飯盛山周辺ということになろうか。

 これからは飯盛山番外編である。私の住んでいた場所は飯盛山の南側の閑静な住宅街である。家から白虎隊の自刃の場所まで5分ほどしかない為、赴任してきてから毎週のように観光客とまったく反対のコースを辿り、白虎隊が渡った橋を渡り彼らが登った急坂を登り、参拝と共に会津盆地の四季の変化を見つめてきた。そして、自刃の地で線香を手向けていた。それもほとんど早朝である。

 飯盛山の南側には2本の大きな樹(我が家では「トトロの木」といっている)にまもられた社があり、その脇から稜線に沿って山頂まで登る道がある。山頂の手前で広い笹薮になっておりこれをこいで上がるのが大変である。約15分程である。飯盛山の山頂は思ったより広い場所で、小さな石の祠がある。ここから会津の町並みと平野が杉木の間から見え隠れする。飯盛山に登った時、登ってきた道を引き返す事をせずに市街地側の藪の中を下りたことがある。かなりの急斜面でスリリングであるが、白虎隊の墓の並ぶ場所の裏に下りられる。

 これは会津若松のほとんどの人が知らない道である。とりあえず、飯盛山登頂の記録として付記しておく。

 ここまでの文脈で書くことができなかった白虎隊についての語られていない事実について書いておく。白虎隊記念館の早川館長と市立図書館で市史編纂の専門家である野口真一氏に聞いた話である。多分これが事実であろうと思う。

飯盛山の白虎隊の墓は19基であるが、それはもともと一人だけ生き残った飯沼定吉少年の証言に基づくものであるらしい。彼が飯盛の洞門を出てくるときに数えたという。ところがここに収められている遺骨は飯盛の肝いりをしていた吉田氏が自刃の地から妙国寺に一度仮埋葬したのを新政府の軍務局の命令により再度もとの場所に戻された。

その後埋葬されたときには遺体の数すら確認できない状態だったらしい。またひそかに遺体を移動させに行ったためそれほどの人手を連れていっていないという。さらにここに埋葬された白虎隊士の内3名は明らかにこの飯盛山で死んだものではなく、猪苗代と若松の中間ほどにある金堀という場所で死んだ遺体と近くの山中にあった2体であるという。

すなわち自刃した白虎隊士が20人であるという前提事実がいささか疑問なのである。

 また飯沼定吉は家のお手伝いさんに助けられたというが、そのお手伝いさんは飯盛山から1.5キロほど離れた家に来ていたのであり、戦いの最中に定吉を探しに来たというのはいささか腑に落ちない。むしろ蘇生して飯盛の近くにあった奉公人の家に助けを求めて行き、探しに来て偶然に見つけられたことにしたとしたのではないかというのである。 これが白虎隊に関する事実であると思う。飯盛山の白虎隊はある意味では後世の人達によって美化されたものというほうが正しいような気がする。


若松城(鶴ヶ城)

 若松城は、約600年前の芦名直盛公の時代に「東黒川館」として築かれたのが始まりとされている。蒲生氏郷の時代には8層だった。その後地震により崩壊し、加藤氏の代に修復して、5層のお城の型が整った。

 芦名氏の後、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤明成等の名だたる戦国武将がこの城の主となった。そして、加藤氏の後、徳川家康の孫で3代将軍徳川家光の異母兄弟保科正之公が封ぜられ、その後は子孫である松平氏の居城となった。

 そして、慶応四年(明治元年)戊辰戦争の時には西軍の激しい攻撃に晒されながら1ヶ月間に及ぶ篭城に耐え、名城としての名を天下に知らしめた。ただそれだけではない、関東以北でこのような立派な五層の天守閣を持っているのは江戸城のほかはこの鶴ヶ城のみなのである。さらに蒲生氏郷は安土城を作った織田信長の娘を妻としているのであり安土城と同じ金箔瓦が使われていたという意味でも名城といえるのであろう。

 明治7年に政府の命令により取り壊されたが、昭和40年に現在の形に再建された。

 因みに若松城と鶴ヶ城の呼び名についてはいずれも正しい。このお城は蒲生氏郷によって「鶴ヶ城」と命名されている。ただ、昭和9年に国の重要史跡に指定された時に「若松城跡」とされていたことから、今でも公的な文書では若松城と記されている。

 まず、お城の北側の、裁判所のある交差点を渡ると大きな「お城入り口」の柱があり、お堀の桜並木が正面に見える。門柱の左側には「会津葵」というお城ご用達のお菓子を収めていた蔵作りの老舗のお菓子屋がある。しっとりしたカステラの中に餡子の入った「会津葵」という菓子は、なかなかの一品である。ただそれなりの値段はする。その他に綺麗な箱に収まった「干菓子」がお勧めである。

 さらに進むと、同菓子屋の別館というべき「シルクロード館」があり、石で作られた蔵の中にシルクロードを運ばれてきた品が置かれており、塩コーヒー等遊牧民の飲み物を提供しており、ゆったりした時間を過ごすことができる。何故に会津でシルクロードなのかという疑問が出る。この城を鶴ヶ城と命名した城主、蒲生氏郷公は「レオ」という洗礼名をもつキリシタン大名であり、山国会津に西方の文化が流入したのであろう。私は会津に来て初めて「会津葵」のお菓子を食べた時に「何故この山国にカステラの御菓子が?」と想ったがこのような事が答えなのであろう。

 この「会津葵」というカステラ菓子は普通のカステラの様にパサパサしておらず、本場長崎のカステラのようにしっとりしている。

 「追手門」の頑強な石の門を入るとそこは「北出丸」である。この北出丸には「武徳殿」がありそこで剣道や空手の修練に励む子供達の声が聞こえる。その脇には「弓道場」があり、古き時代の会津の精神を彷彿とさせる場所である。

 城内に入る「椿坂」を渡きるとそこは天守閣のある場所にでる。その坂を渡りきった右側の石垣に見た目にも一辺が三メートル近くある大きな石がある。これは「遊女石」といわれている。

 鶴ヶ城の石はお城から東に1キロほどの東山温泉の入り口にある天寧町石山から運ばれてきたもので、大きな石を石工に運ばせるときその石の上に遊女達を乗せ、躍らせて、元気付けて運搬したものらしい。

 ところで、鶴ヶ城の石には「×」や「+」の印のついた石がある。案内人の方に「お城で不思議な話はないのですか?」と尋ねたら教えてくれた。探してみたが西出丸で三つ、三の丸口で二個しか見つける事ができなかった。18個は確認されており、なぜこの印があるのか謎らしい。ある大学の先生は「城地安泰、怨敵撃退を願う呪符」とう説を提示しているらしい。私はこの石を刻んだ石工の落書きであって欲しいと思っている。

 城内に入り、観光案内所がありそこでお願いすると無料で城内を案内してくれる。各自がかなり勉強しておられ、薀蓄のある話しを聞かせてくれる。

 天守閣に向かう為には、人の流れに沿って左折することになるが、そのまま直進すると、

本丸への正門ともいうべき門柱や扉をすべて鉄板で覆っている鉄門(クロガネモン)がある。

 会津戦争では土佐藩の板垣退助や薩摩藩の大山巌が南東にある小田山からストロング砲で弾を撃ち込み城内のどこも安全な場所がなく、重臣達はここで会議を開いたといわれている。あまりの砲撃の激しさに、女性はもしもの時の恥じらいから厠にいくのもはばかられた伝えられている。

 これを入ると本丸の大きな広場が現れる。現在、鉄門の上は南走長屋と日干櫓の再建が進められている。この再建は天守閣の反省から(天守については安く作りすぎたとの批判がある)、本格的なものになっている。

 私はどちらかというと、三の丸駐車場からお堀を渡り、二の丸に入り「廊下橋」を渡り本丸に入るルートが好きである。二の丸に入るとそこはテニスコートになっており朝早くから多くの人達がテニスを楽しんでいる。道の右側は一段下がっているがそこもテニスコートになっている。「伏兵丸」と呼ばれている。

 本丸と二の丸との間に架かる朱塗りの欄干の橋が「廊下橋」である。ここから天守閣の三層目より上が見える。青空を背景にしてくっきりと見える天守閣にはハットさせられる。この橋は攻めてくる敵の攻撃が激しくなると、切り落とすことができたらしい。この間のお堀と石垣が一番高く、忍び返しになっている。ここから歩を進めると天守閣が見えてくるとともにその前に本丸の広場が広がっている。

 天守閣を右手に見て本丸の左手奥には千利休の息子「少庵」の庵だ茶室が移築されている。千利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れたため切腹させられ、蒲生氏郷がその息子(実は後妻の連れ子になる)を会津で匿い、その際、利休の弟子で「千家十哲」に数えられた茶人でもある氏郷の求めに応じ、亡き千利休好みの草庵風の茶室「麟閣(リンカク)」を造ったのである。

この麟閣は歴代の藩主にも大切な茶室として伝えられ、明治7年に鶴ヶ城が取り壊される時に、会津石州流の家元森川家に払い下げられたものが、平成二年旧跡地に移築されたものである。

 彼が会津にいたのは二年ほどであるが、氏郷が秀吉に働きかけて京に戻ることが許され、茶道の千家を再興した。少庵の孫達によって、表、裏、武者小路の三家が興り、現在の茶道の礎ができた。会津での二年間がなければそれはなかったのかもしれない。ここでは抹茶のお手前を楽しむことができる。

 この麟閣の隣には「荒城の月」の碑がある。私はここをはじめて訪れた時に、「何故ここに荒城の月の碑が?」と訝しく思った記憶がある。荒城の月は滝廉太郎の住んだ大分県竹田市の「岡城」だと思っていたのである。ところが、たしかに作曲は滝廉太郎であるが作詞は土井晩翠であり「旧制二校のときここを訪れ、鶴が城の印象を素材とした。」と、昭和21年に会津女子高の音楽会に出席したときに話したため、早速寄付を募り、翌年にはこの碑を立てたらしい。

 晩翠の故郷である仙台の人達は、子供の頃から荒れた青葉城を見ていたから荒城の月の本籍は仙台にあると思っているに違いないと思い、お城の謎の「×印」を教えてくれた案内人の方に聞いたら「確かにそのような話しがあります。ただ本家争いはしていません。」といっておられた。

 「麟閣」と「荒城の月碑」の後ろの石垣は「月見櫓跡」と呼ばれている。ここから見る月が見事だったらしい。戊辰戦争のとき篭城に参加した山本八重子は落城寸前のお城の中で次ぎのような歌を詠みお城の壁に刻んだと伝えられている。

明日よりは何処の誰か眺むらん馴れにし大城に残る月影

「明日よりは・・」とあるところから(このくだりには諸説在るらしい)降伏が決まった夜にここで詠まれたのではないかと思っていた。後に調べたところ、三の丸にあった雑物庫に簪で刻んだものだと分った。

 山本八重子は後に新島襄と結婚して京都の同志社大学の発展に寄与するのである。彼女は男勝りで、父親が砲術師範だったため子供の頃から銃の扱いにたけ、篭城に際してもスペンサー銃を使って活躍したという。

 ところでこれを書いていてひとついい話を思い出した。「名月若松城」という講談である。これは松坂の領主だった蒲生氏郷が相撲を取ろうとした時、他の家臣は手加減したのだがたしか梶原(?あまり自信はない)という家臣は実直で負けようとはせず、氏郷を負かしてしまう。その後の発言が災いとなって、松坂藩を出奔せざるを得なくなってしまう。これは氏郷の誤解だった為氏郷は彼を探させたがとんとして行方が知れなかった。それから月日は過ぎ氏郷は会津92万石の大名になり何かの宴の席に10数年振りに彼が尋ねてきて、涙の再会を果たすという話だったと思う。この話もこのお城からの月の眺めが素晴らしいことを知っていた作者によるのだろう。

 

 さて天守閣に話しを戻そう。昭和40年に当時の1億5236万円あまりの工費をもって再建された。現在この中は第三層までが郷土資料館になっており、一層が会津の歴史、二層が武器、武具、甲冑等、三層が戊辰戦争に関する資料が整然と陳列され、四層には松平容保公と19人の白虎隊士の肖像画が飾られている。

 第五層は展望台になっており、城下から四方の会津盆地が一望できる。ほとんどの観光客は「飯盛山はどこ?」といいながら探している。展望台からは北東の方角に「磐梯山」が悠然とそびえたち、その前に小さく「飯盛山」が見える。北には雪をいただいた「飯豊連峰」が北をさえぎり、東には「背炙山」が南北に長く連なる。南西にあるの住宅街の裏山はこの城が落ちる原因となった「小田山」があり、その中腹の少し切り開かれた場所が戦争当時の砲台跡であり現在では展望台になっている。

 会津盆地の南には「小野ガ岳」、南西には「博士山」がそびえる。盆地の中央には南北に阿賀川が流れ日本海に流れて行く。そこには会津の広い平野が広がっている。南西には「本郷焼き」の会津本郷、その先には「伊佐須見神社」や「高田梅」で有名な会津高田、西には蛍の名所北会津村、その山際に広がる新鶴村、北西には「高田馬場の決闘」や「忠臣蔵」で有名な堀部(中山)安兵衛の生まれた会津坂下(バンゲ)町、北の飯豊(イイデ)連峰の手前には蔵とラーメンで有名な喜多方市やその他の会津盆地の町々が広がる。

 展望台から目を下に向けると、多くの木々の緑がお城を覆っている。この鶴ヶ城は春には桜で埋まり、冬は雪で覆われる。桜で埋まる鶴ヶ城は全国的に有名であり、これを求めて多くの観光客が訪れる。その為桜の季節になるとお城は桜用のライトアップが施される。このライトアップは見事である。是非鶴ヶ城の夜桜を一度見ることをお勧めしたい。

 そしてその開花は、会津若松市のホームページで桜が散るまで公開されている。鶴ヶ城での花見は上野公園などの賑やかなどちらかというと騒がしい花見とは異なり比較的静かなものである。ただ桜の季節に静かに花見を楽しむ人々の間を我が物顔で神輿を担ぎ練り歩くのはいささか興ざめである。会津には祭りが多く、夏場になるとどこの町内でも大小の祭りが行われるが、浅草の三社祭のように神輿がメインの祭りが、特に在るわけではない。神輿を楽しむ人たちが楽しみとして集うことには異論はないのだが、ところが比較的静かな花見の場に「桜だ!花見だ!神輿だ!」といってくりだすのはいささか考えさせられてしまう。

 会津では1月10日に「十日市」が江戸時代から連綿と続き、どんな吹雪の日でも開かれ多くの人達が集まる。夏祭りの「お日市」は町々の小さな神社を中心として毎日のようにいたるところで、屋台が出て人々が浴衣姿で集っている。

 本来祭りとは、宗教的なところから発し、人々が五穀豊穣、家内安全などを祈願し、日頃の苦労を癒す為のものであった。祭りは文化である。

 ところが、今の会津の祭りは本来の在り方から多少離れて観光客集客の為な「イベント」的なものになっているようでならない。地元の人に支持され観光客が楽しめるものなら、昨年(98年)の「10万人会津夏祭り」のように3日目の踊り手が数百人程ということはあり得ないと思う。

 もともとこの鶴ヶ城には桜の木はほとんどなかったという。戊辰戦争の後、お城が払い下げられそれを管理していた人物により、桜が植えられたと博物館前の記念碑にかかれている。

 鶴ヶ城には桜も似合うが雪も似合う。飯盛山から真っ白な鶴ヶ城を見るのもなかなかであるが、雪を踏みしめて朝早くの静かな鶴ヶ城も格別である。風雅を友にするには雪の鶴ヶ城は最高のロケーションであると思っている。

 戊辰戦争はこのお城を中心にいろんな悲劇を生んでいる。

その中で一番有名なのが、飯盛山の白虎隊の自刃であるが、私はどちらかというと白虎隊より西郷頼母(タノモ)の妻子の自害がそれ以上の悲劇であろうとおもう。お城に入る北門の前に北に向かう大きな通りがあり左側は裁判所であるが,その向かい側は家老西郷頼母の屋敷跡である。ここでは、お城の篭城の早鐘が鳴ったとき、妻の千恵子は夫の頼母と長男をお城に上げ、足手まといにならないようにと一族21人が自害して果てた悲劇の場所である。非戦闘員の死は白虎隊より悲劇である。

 妻の西郷千恵子は「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節の在りとこそきけ」という辞世を残して自害して果てた。(因みに白虎隊の唯一の生き残り飯沼貞吉は千恵子の甥に当たる。)死にきれずに苦しんでいるところに土佐藩士中島信行が踏みこみ「敵か見方か?」の問いに「味方だ」と答え介錯したという。この場面は東山温泉の入り口に在る「会津武家屋敷」に西郷邸が復元され、妻子が自害し、中島が介錯せんとする人形が置かれている。

 その娘二女の瀑布子(タキコ)が「手をとりて共に行きなば迷はじな」と詠み長女細布子(タエコ)が「いざたどらまし死出の山道」と詠み加えてはてている。

 天守閣の南東に見える小田山の下にある善龍寺に夫の頼母とともに葬られており、彼女の辞世が「なよ竹の碑」として建てられ、祀られている。

 ところが夫の西郷頼母は、もともと主戦派でなく講和派だったため、城内では浮いており、命の危険があったため、ひそかに場外に出され、その際刺客まで送られた。かれは函館の五稜郭で榎本武揚等と共に終戦を向かえるのである。因みに彼の息子が「姿三四郎」のモデルであるといわれている。

 私が会津に来てこの西郷頼母翁がこの会津を追われた人であるにもかかわらず、会津武家屋敷では彼の屋敷が復元され、いろんな刊行物で会津を案内するガイド役に借り出されたりしているのを見て奇異に思っていた。確かに西郷翁は身長が低く白いあご髭が七掴みもあったということでかなりキュートなおじいちゃんで、家族の悲劇と相俟って生き残った家老の中では最も有名な人である。とはいえ刺客まで送って追い出した人が会津を代表する顔になっている。この疑問を市史編集の野口真一氏に「西郷翁は会津では復権したのですか。」とぶつけたところ「復権なんてしていませんけど、ここ10年ほど突然いろんなところに使われる様になってきましたね。」と笑って答えられた。現在彼が編集している会津を紹介するビデオのガイド役も西郷翁なのである。

 この西郷邸と向かいにある裁判所の白露庭という庭園の間の通りは、会津戦争の降伏式の行われたところである。この通りに緋毛氈(ヒモウセン)が敷かれ、正面の参謀の土佐藩士板垣退助とその脇の軍監である薩摩藩士中村半次郎(若い頃は「人切り半次郎」と呼ばれ、10年後、西郷隆盛の片腕として実質的に西南戦争の指揮をした「桐野利明」である。)に対して会津中将松平容保公が降伏状を手渡す場面が錦絵に残っている。

 これは会津藩士にとっては屈辱であり、この屈辱を忘れまいと秋月悌次郎が細く切って生き残った藩士に渡したという。これを「泣血氈(キュウケツセン)」といわれている。

 中村半次郎はこの際、武運尽きた敗軍の将松平容保公に対して一人だけ頭を下げ、武士としての礼節を尽くしたのがこの場面の美談として残っている。

 裁判所の前の通りを西に進むと若松女子高の交差点がある。この交差点を渡った左側に「山鹿素行誕生の地」という碑がある。江戸時代の兵学者で「聖教要録」を書いて江戸幕府の朱子学を批判した為、赤穂に流される。それが縁で赤穂藩は山鹿素行の考え方に傾倒していく。そして四十七士の討ち入りに際しては、大石蔵之助が山鹿流陣太鼓を打ち吉良邸に討ち入っていくのはあまりにも有名である。その裏が会津武士を育てた「日新館」の跡である。日本水泳連盟の公認する日本最古の水練場(プール)を備えていたとされ、現在では北隣の河東町の高台に再現されて観光の目玉になっている。

 鶴ヶ城は現在会津若松市の所有となっているが、これには会津藩士の七十七銀行の初代頭取遠藤敬止が私財を投じて跡地を競売で落札し、旧藩主松平家に献納し、松平家がこれを若松市に売却したというのが定説であった。

 ところが、明治政府が明治23年に松平容大(容保公の長男)に対して発行した領収書が出てきた為、松平家が国から2,000円(現在の約4000万円)で払い下げを受け、それを何倍もの価格で若松市(会津若松市になるのは昭和30年である。)に転売したという疑惑が浮上している。転売価格は約30,000円であるが、若松市は10年の分割で金利込み合計3万8851円を支払ったという。約三割の高利である。当時の松平家は江戸に向かう路銀にすら事欠く有り様で、この払い下げをうける財力はなく、誰かが援助したのであろうが、「土地ころがし」であり財テクをしたというものである。どちらにしても松平家が大もうけしていることには違いないから大差はない。

 となると、北出丸に大手門を入ったところに在る「鶴ヶ城城址保存の恩人遠藤敬止」の碑はいかなる意味を持ってくるのか。実際のところ松平家に援助したのは彼に違いないと思うのだがどうだろうか。

 
(会津若松の街中)

 会津若松の町をどこから書き始めたらいいか悩むところである。やはり、JR会津若松駅に下り立ったところから始めることにする。

 会津若松の駅舎を出ると銃を持ち手をかざしてお城を望んでいる二人の白虎隊士の銅像が立っている。私が会津の地を踏んだその日、駅を出て初めて目にしたのが雪の中に立っているこの銅像で、思わず「おお、会津に来たぞ。」と呟いてしまったことを覚えている。

 駅の正面約1.5キロのところに飯盛山がある。駅を背にして歩き始めると、すぐに大きな通りに出る。そこにはお城の形をした入り口を持つ地下道が作られている。四方の入り口の正面には中国の四神が描かれており、東が「青龍」、西が「白虎」、南が「朱雀」、北が「玄武」で、戊辰戦争の時に会津藩が急遽軍制近代化の為に編成した組織の名前である。ここもやはり会津である。因みに、朱雀隊は18歳から35歳、青龍隊は36歳から49歳、玄武隊は50歳以上、白虎隊は16、17歳である。

 通りに出て右に向かうと街中に向かって進むことになる。「大町通り」といい平成9年までは国道であった。この通りは、会津らしいたたずまいを残している町並みである。歩き始めて2〜3分もすると、左側に「五郎兵衛飴本舗」がある。ここの「五郎兵衛飴」は800年前に源義経が兄頼朝に追われて、平泉に逃れる時にこの地を訪れ、この屋の主人に餅を求めその借用証を残したといわれる場所である。これは武蔵坊弁慶の直筆といわれ、あの吉川栄治も「新平家物語」を執筆中に、この書面を調査したらしい。この会津にはこの他にも隣町の河東町に義経と皆鶴姫の悲しい物語などが残されている。

 その米の粉を練った飴はほんのりとした甘さと共に古の香りを運んでくれる。

 この通りの魚屋の軒先には乾燥した「鱈」がつるされ、乾燥した「鰊」の箱が並べられている。鱈は水で戻して、味りんや砂糖、醤油等で煮こんだ会津名物「棒たら煮」ができ、鰊は米のとぎ汁に一夜漬け柔らかくし、それを同量の醤油とお酢(味りんを足したりもする)とたっぷりの山椒の若芽に漬けておき「鰊の山椒漬け」ができる。棒たら煮といい鰊の山椒漬けといい山国会津の民が作り上げた北海の海の幸を使った絶妙の食文化である。

 さらに会津の魚屋には「ホタテの貝柱」と「丸麩(マルフ)」が売られている。人参やサトイモ、キクラゲ、ホタテ、丸麩などを入れて作る具沢山の「こづゆ」というホタテが出すコクのある吸い物が作られる。会津では宴席では必ず出されるもので、昔は何杯でもお代りが許されていたらしい。

「棒たら煮」は会津の町中を抜けて芦ノ牧温泉に向かう門田町一の堰という所に在る「梅屋」のおばあちゃんの作るものが最高の味である。水で戻された硬い棒たらが、秘伝の味付けとばあちゃんの拘りでじっくり時間をかけまきで煮こまれる。少し甘めの口の中でとろける絶妙の味である。怪我をした妻の父に贈ったところ、これで食欲が出て元気になったといっていた。秘伝の味はこのばあちゃんがなくなると作る者がいなくなると嘆いておられた。

 この「梅屋」の前にある「六地蔵尊」は2メートルほどの高さがあり、祠の中に収められているが誰でも自由に入って参拝できる。六体の木製の地藏尊は会津の厳しい風土の中で庶民に信仰されてきた為か、黒光りする中にどの顔もやさしく微笑んでいる。いつも季節の供え物が供えられ、薄暗い中に蝋燭の明かりが厳かな気持ちにさせてくれる。あまり知られてはいないが会津の文化に触れるには静かでいい場所である。

 「鰊の山椒漬け」についてはそれぞれの家庭でいろんな味があるようであるが、会津の家の庭先には山椒の木が植えられているところが多い。私の住んでいた借家の庭先にも2本の大きな山椒の木が在り、新芽を取っては山椒漬けにしていた。

 かって会津の女性は嫁ぐ時に、「会津本郷焼」でできた山椒漬け用の長方形の容器を持ってきたものらしいが、今ではあまり見かけなくなったと聞いた。

通りをさらに南に進むと、お寺が多くなる。その中でも入り口に「西軍墓地入り口」と書かれた門柱を右に折れると、そこには小さな墓地がある。

 長州藩士、薩摩藩士、土佐藩士等の戊辰戦争で戦死した兵士の墓が並んでいる。私が初めてこの墓地を訪れたのは、会津に赴任してきた2日目であった。黒い門塀には眠る兵士の藩の紋が飾られていたが、その墓は半ば雪に埋もれ長州から薩摩土佐という順で墓の大きさが大きくなる。長州兵の墓はほとんど雪に埋もれていた。長州と薩摩は特に会津に藩士にとって仇敵であり、このような形で現れているのである。

 日本人は死しては平等に遇するというのが生死観であったのだと思っていたが、薩長に対する想いはそれを許さなかったらしい。私は会津に来るまで、長州と薩摩は白虎隊の件で会津の人達に嫌われているというぐらいの認識しかなかった。

 それゆえいまだに市長が萩の市長と握手をすることや友好関係を結ぶことを「行政レベルで合意することは時期尚早」というコメントや「市長あなたには行政的舵取りは委ねたが歴史的解釈について委ねたつもりはない」という投書など時代錯誤的な新聞記事を目にして奇異に想っていた。

 飯盛山の白虎隊士は薩摩や長州が殺したわけではなく、武士の忠節を昇華された形で実現したわけであり、そのこと自体が恨みの原因となるいわれはない。武士(モノノフ)は戦いがその存在の証明の場であり、命のやり取り自体は武士として当然の行為である。そして武士の生業の結末として、武運尽きたときには、その亡骸を礼を尽くして荼毘(ダビ)に付するのが「武士の道」だったはずである。

 ところが西軍軍務局は「賊軍の死体一切取りかまいなきこと・」という触れを出した。そして会津の山野や城下には散在した腐乱した死体にはカラスや野犬が群がって凄惨たるありさまであったという。これが恨みの根源である。

 武士が江戸時代の300年間戦争をしない間に単なる復讐者になり下がってしまっていたのか。そして恨みの順に墓の大きさが違うということになって表れている。ところがこの事はほとんど知られていない。

 西軍墓地を出るとその前に「町方伝承館」という建物があり、庶民の暮らしの用具を展示しているが、テーマが今一つ地味であり、観光客に訴えるものがないような気がする。

 この大町通りは1月10日には「十日市」という江戸時代から続く市が立つ。江戸時代近郊の農家は肥料を町家の糞尿に頼っており、正月に各家に挨拶に来ては酒を飲み、帰りにいろいろ買い物をした事から起こったと聞いた。どんな雪のときでも続いており、この市が立って会津の松が開けるといわれている。私達も、吹雪の十日市で会津にきてから高くて買えずにいた蕎麦を打つ直径40センチ程の「こね鉢」をかなり安く手に入れる事ができた。

 駅から15分ほど歩くと、「七日町通り」と交差するところに出る。現在はこの当たりから「野口英世青春通り」と呼ばれている。

 この角にはレンガ作りの「会津西洋館」という古い喫茶店があり、土曜日の夜には素人のジャズメン達が心地良いスイングを聞かせてくれる。そしてこの交差点の50メートルほど先には野口英雄が医者になるための修行をした病院の建物が一階は喫茶店二階が資料館になっており100円で入れる。この二つの喫茶店はいずれもレトロな色調であり、美味しいケーキと挽きたての香ばしいコーヒーとゆったりした大人の時間を過ごすにはもってこいの静かな場所である。

 この交差点の一つ前の通りに「伊勢屋」といわれる老舗の菓子屋がある。このの名物はなんといっても鶴ヶ城の「椿阪」に由来するといわれる「椿餅」である。胡桃の入った米の粉で作った「ゆべし」であるが、絶妙の歯ざわりと控えめな甘さは最高である。

 この交差点は会津の街中を象徴する交差点である。会津の通りは北から南へ、すなわちお城に向かっては直線であるが東西に走る道は十文字に交差しない。東から西に向かう道は交差するところでいったん数メートル左に折れてそれから西に直進する。すなわち東西に走る道は必ずカギの様にクランクしながらすすむのである。まことに走りにくい道である。ここはあくまでも直進であり、方向指示器をつかってはいけない。この事について、赴任してきて金融機関に挨拶回りをしていた時に、「お城が攻められないようにした城下町の特徴だ。」と説明されたが、私にはにわかには同意できなかった。なぜかというと、お城に向かっては一直線だからである。それでは攻めてくる敵を防ぎ様がないと思ったからである。その疑問は、飯盛団地に家を借り、三ヶ月間単身で過ごし、朝夕会社のある大町まで歩く過程で解けてきた。それは多分、会津若松は飯盛山や東山から阿賀川にゆったりとしたスロープを描く地形であり、猪苗代から運ばれてきた水が一気に流れないようにスピードを制御する為の道なのではないかと思い始めた。何かの機会にこれが正解であろうという話しを、教育委員会の史跡を発掘している担当者から聞いた事がある。

 大町通り(野口英雄青春通り)と七日町との交差点を右折すると、昔の町並みを復元して町おこしに成功している「七日町通り」に入る。真っ直ぐ500メートル進むと「会津鉄道七日町駅」に至る通りで、会津と新潟県新発田を結ぶ「旧越後街道」である。

 まず目に付くのが白いルネッサンス様式の3階建てのどっしりした建物である。この「白木屋」さんは大正時代に建てられたもので会津塗りをメインとしてあらゆる漆器が並べられている。隣の白いローマの神殿の柱を使った建築会社の建物も立派である。

 最初の交差点には黒い蔵の形をした「レオ氏郷南蛮館」があり、蒲生氏郷に関する資料が展示されているが、観光の為のに無理やり作ったという感はぬぐえない。

 この交差点を左折するとそこに大きな暖簾の掛かる「満田屋」がある。もともとは味噌をうる老舗で中に入ると、いろんな種類の味噌や漬物が売られている。その中でも「田楽味噌」は逸品である。満田屋さんの奥には自家製の味噌を塗り囲炉裏の炭で焼いた田楽を食べる事ができる。味噌がこげる時の匂いはなんとも食欲をそそられる。

 長男真之介の中学校は1年生の時に街中を歩いて故郷の文化を調べるという授業がある。その時、この満田屋もコースに入っていて、子供達がここを訪れると「味噌田楽」三本を食べる事ができとても楽しい会津らしい授業だったという。

 通りに戻りさらに進むと「会津中将」という酒を作る「鶴乃江酒造」があり、その先に会津名物の「絵蝋燭」を売る「ほしばん絵ろうそく店」がある。和ろうそくの表面に菊やツバキなどが描かれている。この絵ろうそくは藩政時代、その製造技術の秘密を守るために登城するときしかろうそくを作ることが許されてなかったという。

 この当たりが、昔の町並みを復元しようという運動が最も実現している場所である。蔵作りや昔風の建物にリメイクされているがまだそれほど落ち着いた町並みという雰囲気は出てこない。とはいえ私が会津に赴任した2年前より格段に町並みは美しくなった。道幅が狭い事と電柱と電線がせっかくリメイクした町並みの雰囲気を削いでいる。少し時間が必要であろう。

 今ではこの観光の為の町並み復活に会わせてこの町とは縁のなかった商売も行われている。只見川沿いの金山町の「玉梨豆腐店」が店を出している。名物の「青ばと豆腐」が美味しく東京や京都の料亭にも出されているという。特に注文があれば一万円から三万円までの豆腐も作るというから驚きである。三万円の豆腐とはいかなるものであろう。因みに豆腐はここで食べるより、金山の本店で食べたほうがもっと美味しいような気がする。

 それでもこの通りの終わりに近い「渋川問屋」と「阿弥陀寺」は別格である。

渋川問屋はもともと魚の乾物を扱う問屋だった。鰊倉庫だった格子の古い建物は現在、会津郷土料理を食べさせてくれる場所になっており、その裏の別館は宿泊もできる。

中は高い天井と吹く抜けに重厚な蔵座敷があり、昔、鰊蔵だったとはとても思えない。大きな金看板が飾られ、むき出しの電線は大きな梁と柱を白い「碍子」で配線されており、思わず「懐かしい。」と口をついてしまう。

 渋川問屋の庭から外に出るとレンガが敷き詰められて通りになり、正面に3階建てになっている阿弥陀寺がある。この建物は阿弥陀寺の「御三階」といわれる建物で、もともと鶴ヶ城の中にあった。外見は三階であるが中は4層になっており、階段がうぐいす張りになっているところから密議を行った場所であるといわれている。

 この寺には戊辰戦争の東軍1200名あまりの戦死者が埋葬されている。ここでも墓標は「殉難之墓」と書かれていたが軍務局の命令により削除されてしまった。会津の歴史について数冊の本を出している、図書館の野口真一氏に会津藩の戦死者埋葬の様子を記録した古文書を見せてもらったが、会津の各地に葬られている墓地の最初にこのお寺にある墓の絵があった。その中でも最大の埋葬地がここである。

そしてこの通りに終点に線路がありここが会津線「七日町駅」である。

 七日町通りを戻り、変則交差点を右折して最初の信号機の角に真っ黒な2階建ての野口英雄が医者の修行をした病院の建物が喫茶店として残っている。

この角を左折するとそこが会津で一番大きな神明通り商店街である。長崎屋の前にある神明神社に由来している。

 長崎屋のアーケードの脇に「蒲生氏郷公の墓」の案内が立っている。筋を入ると「興徳寺」という臨済宗の寺にでる。鶴ヶ城の城郭の一番北に位置していた寺で現在の神明通りの中央あたりまでは城郭と堀であった。豊臣秀吉の奥州仕置きに際してはその中心地となった寺である。

 狭い境内の正面には蒲生氏郷公の辞世の碑がありその右奥に氏郷公の遺髪が納められている五輪塔がある。その五輪塔はそれほど高いものではないが、上から「空、風、火、水、地」と彫られている。その脇の辞世の碑には「限りあらば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」と刻まれている。会津に来て2番目に覚えた歌であるが、会津にある歌碑の中で一番好きなものである。鶴ヶ城の天守閣が完成した直後の冬、京都で40歳の若さで病死するのである(秀吉氏による毒殺説がある。秀吉は後に氏郷の妻で信長の二女冬姫を側室として上がるように申し出るが冬姫は出家して毅然と拒否するのである。)銀鯰の兜で知られ文武に秀でた有能な武将の無念の気持ちが表れている。

飯盛通りから東山温泉

 飯盛山通り(観光パンフレットでは「いにしえ夢街道」となっている。)は、一箕町の「大塚山古墳」から始める。この古墳は東北で最初に確認された「前方後円墳」である。この発見により大和朝廷の時代に東北に大きな勢力を持った豪族が居たことと中央文化の影響を受けていた事が確認されたのである。

 大塚山古墳から数百メートル飯盛山に向かって進むと住宅の切れ間から田んぼが広がり其の中腹に大きく枝を広げた木が見えてくる。川を渡り「春の小川はサラサラ行くよ・・」と歌いたくなるような畦道を4〜5分ほど歩くと樹齢600年の「石部の桜」が優雅に立っている。石部桜は会津を芦名氏が治めていた時代に重臣であった石部氏が邸を定めていた場所であるところから「石部の桜(イシベノサクラ)」と呼ばれている。

 この桜の木は8本ほどの木が立っているように見えるが実は1本の桜の木である。「会津五桜」の代表に数えられる。98年の春にはテレビ朝日の「ニュースステーション」の中継が行われた。中継用のプロが行うライトアップは見事で其の後他のライトアップを見るといささかがっかりしてしまう程の光の強さとアングルであった。

 会津にはこの桜の他に会津高田の「虎の尾桜」、「薄墨桜」、会津坂下の「杉糸桜」、猪苗代の「大鹿桜」がありこの五つを「会津五桜」といっている。それ以外にも名前のついた桜が多いのも会津の特徴である。これらの桜は樹齢が古いため花の勢いは落ちているがそれぞれの木の存在感は格別である。この桜の前に立つと思わず「ねがわくは花のしたにて春死なんその如月の望月の頃」という西行の歌が口をついてしまう。

 会津の桜は鶴ヶ城のソメイヨシノを除きほとんどそれ以外の種類の桜である。石部の桜はエドヒガン桜でありソメイヨシノのように華やかさはない。ただ五桜の中でも花の多さ華やかさは格別である。

 旅行会社のJTBも「会津五桜を見る旅行」という企画旅行をおこなっているが、これは事実上不可能である。というのは、この五桜は石部の桜を最初に高田の薄墨桜と順に咲いて行き最後に猪苗代で咲くのは半月近く後であり、一時期に見る事はできないのである。

とはいえ最初に咲く石部の桜は見事で、その感激にしたった後、観光バスで会津高田の花のない虎の尾桜に連れて行かれまだ蕾の木を見て「これが虎の尾桜か!」等と感激しているのはなんともおかしな光景である。

 会津の桜について一つだけ付け加えるならば、見事さという点では鶴ヶ城の三の丸口にある県立博物館の駐車場の「コヒガン桜」である。県立博物館ができたときに保科正之公の以前の領地長野県高遠町から贈られたものである。小ぶりの薄紅のコヒガン桜は樹勢があり若々しく、そのとなりにある陸上競技上の満開の白いソメイヨシノを背景にして一段と華やかである。

 長男はお城の前の若松第2中学校に通っている(た)が、全体が桜で埋まる陸上競技場で練習をし、試合をするのが何よりも自慢であり、そして競技場の隣の薄紅のコヒガン桜が綺麗だといっている。

 石部の桜を過ぎるとすぐに飯盛通りと旧滝沢街道(白河街道)の交差点に出る。その左側に旧滝沢本陣跡がある。滝沢街道を進むとすぐに左折するが、それを曲がらずに直進すると山道に入るとそこは白虎隊士が意気揚揚と歩いた道である。

途中の滝沢峠に松尾芭蕉の「ひとつ脱いでうしろに負ひぬ衣がえ」歌碑が立っている。そして一時間半も歩くと猪苗代湖の戸ノ口に近い強清水(コワシミズ)に至るのである。長男の小学校の行事でこの道を家族で歩いた事がある。雨の中で歩いたが楽しいトレッキングであった。

 このとき引率してくれた先生から、この句碑は松尾芭蕉が奥の細道の道中この会津を訪れてはいないが、会津の歌人たちがそれを残念がって建てたものだという事を教えていただいた。

 滝沢本陣の交差点を右折して坂を下るとそこに「妙国寺入り口」という看板が見えてくる。

白虎隊が自刃した後、お触れにより遺体の埋葬を禁止されていたのを不憫に思った土地の肝煎(今の区長さんか)が処罰を覚悟で仮埋葬した寺であり、戊辰戦争で会津藩が降伏した藩主松平容保公親子が謹慎した場所でもある。

 滝沢の交差点をそのまま進むと、すぐに飯盛山の参道であり多くの観光売店が並んでいる。思うにここの売店には特に名物というものがあるわけではない。当然のこととして白虎隊のグッズがあるがほとんどがキャラクター化されたもので、白虎隊の悲劇性や本質が具現されたものはない。

 ここの名物といえばいくぶん批判めいて聞こえるかもしれないが各売店の客引きの姿であろうか。駐車場の前に立ち小旗を持って観光客の車を駐車場に誘導する姿は異様に映る。

毎日前を通る私達の車を見ても誘導する。「2年も通っているのだからいいいかげん覚えろよ!」といいたくもなる。この光景は私だけの感想でなかったようで99年の春に福島の地方紙で取り上げられ、多少問題になり、自粛の方向であるなどと書かれていたが、観光シーズンになると相変わらず異様な光景が繰り返されている。背に腹は代えられないのである。

 飯盛山の「セブンイレブン」の後ろが白虎隊自刃の地である。ここから長い下り坂になるが、その山側に「オーク・ビレッジ」という一見すると喫茶店に見間違えそうな小さな家具屋がある。狭いながら店内にはおしゃれな小物とセンスのいい家具が並べられている。奥様が描く綺麗なトールペイントと共に大人の目に耐えるエレガントな品がある。観光の途中で是非尋ねて欲しい所である。

 その先には「駄菓子資料館長門屋」がある。会津の庶民が口にしてきた駄菓子の老舗である。一階には駄菓子が所狭しと並べられており、入り口の右側には会津のどこのお菓子屋でも見られるお客様が御茶を飲みながら休む場所がある。2階には菓子を作りの昔の道具が並べられ、昭和30年代までどこの町でも見られた駄菓子屋のガラスケースの中に昔の子供のお菓子やカルタ、クジ等が色あせながら詰まっている。子供の頃竹ヒゴを曲げ、紙を張り、ゴム動力で飛ばした模型飛行機、剣玉、着色料一杯のゼリー菓子、35歳以上の人達が見たら思わず「懐かしい!」と口をつくのは間違いないものばかりである。いっときタイムスリップしてしまう空間である。

 長門屋の斜め向かいには「鈴木鮮魚店」という魚屋が有る。ところがここは日頃、店は開いているのにお客さんが店を訪れている光景はほとんど見られない。月に1回だけたくさんのお客さんが並んでいる。そのときにはかなり安い値段で販売されるらしく、遠方からお客が買いに来るほどである。会津のこの当たりの魚屋はこのような店が多く不思議に思っていた。それは、一般客に販売するのでなく東山のホテルや旅館に卸すことを専門にしている魚屋なのである。

 ここはかなり良いものを販売しており、我が家はこの4軒隣に住んでいる(いた)為、会津名物の山椒漬け用の鰊を友人の注文も受けて、月に5箱以上買付けていた。買付けてくる鰊の量の多さを見て私はまるで「仲買人だな!」等といってからかっていた。

 坂を下りて行くと中間当たりのところに「赤ベコの番匠」がある。会津の名物である赤ベコの由来は飯盛山の「厳島神社」のくだりで述べたが、ここでは張りぼての赤ベコに白と黒の絵具を使い絵付けをする事によりオリジナルの赤ベコを作ることができる。700円出せば30分程でできるため修学旅行の子供達や観光客でにぎわう場所である。

 赤ベコ番匠を出て最初の筋に「とばすな車、昔はわらじで歩いてた」という標語が立てられている場所である。

 この場所は賢いカラスが胡桃の実を道路に並べて車に轢かせて割っている場所である。

私は会社に歩いて通勤する時に三度ほど見かけた。カラスが道の中央で木の実を道路に置いたかと思うと道の脇の側石に避難する。木の実が割れないとちゃんと木の実の位置を車のタイヤが通る位置に移動させていた。朝夕は車の通りの激しい場所なのであるが、車が来るのを避けながら作業をしている。始めて見たときにあまりに驚き10分ほど脇で見ていた。この話を家族にしておいたところ次男もそのあと数回見かけたという。ところがこの話を近所の人にしても誰一人知る人はいなかった。

  坂を下りきると、コンビニがあり道が分れている。道を下に進むと、飯盛通りからはずれ慶山通りに入る。数分歩くと「徳一」という蕎麦屋がある。ここの蕎麦は二八蕎麦であるが、その美味しさは会津若松市内でも定評があり、その値段ももり蕎麦は500円ほどでリーズナブルである。というのもこの飯盛あたりは観光地であるがゆえに盛り蕎麦だけで900円以上するところがあるからなおさらである。

 さらに会津松平家の初代保科正之公が信州高遠藩から持ち込んだといわれる、そばを「大根おろし」で食べるさっぱりした味の「高遠そば」は普通のそばとは全く違った味を楽しむ事ができる。さらに徳一は蕎麦の他にうどんも美味しい。

 この徳一に行かれたら是非賞味して欲しいものがある。それは「蕎麦がき」である。たかが蕎麦がきというなかれそのふっくらした蕎麦がきを「胡桃ダレ」と「蕎麦のつゆ」「たまり醤油」に付けて食べるのであるが、他で経験した事のない触感と美味しさにきっと感激するであろう。

 先ほど下りてきた飯盛通りに戻り、東山温泉に向けて少し坂を登るとそこに「大龍寺」の入り口がある。参道の石の階段を登ると大龍寺(ダイリュウジ)の本堂がある。ところがこの寺は階段を登りきった正面に寺の本堂の入り口がない。普通の寺であれば階段を登りきった正面に本堂が配されており、そこに入り口があるのが普通の光景と思っていたので、初めてこの寺を訪れたとき違和感があった。後にここの住職の奥様に話を聞いたらこの寺は会津の武士達の寺であり、いざ戦というときには、敵が正面から攻めてきても防御しやすくする為にこのような作りになっていると聞いた。

 境内の右側には立派な釣鐘堂が在る。この鐘は毎日日没時になると鳴らされており、季節によって鐘の鳴る時間が異なる。静かな夕暮れでないと聞くことはできないが、仏都会津らしい風情のある夕暮れを象徴している。ただ、この鐘が日々違う時間に鳴っていることをどれほどの会津の人達が知っているのであろうか。

 この鐘は除夜の鐘としても使われており、我が家も平成9年と10年の大晦日に紅白歌合戦を見た後、家族で出かけて打たせてもらった。雪の降る中、釣鐘堂の前の広場では薪が焚かれ、集まった人達に樽酒が振舞われ、スルメが焼かれ誰彼となく分けてくれる。私達もスキーのスポーツ少年団の関係で多くの知り合いがおり、知らない人達の中にいるということはなく楽しい一時を過ごす事ができた。

 私達がこの寺を訪れたのは銀杏の実が落ちている晩秋の頃であった。家族で散歩をしている途中、銀杏の実を拾い集めている大奥様に声を掛けたのが最初であった。この銀杏は釣鐘堂の脇にある「長命不動尊」の祠を訪れる人に振舞われている。そしてこの不動尊の中に「なで達磨」がある。これをなでると幸運が訪れるとのことで、昔から多くの人がなでる為黒光りする達磨様になっている。そして賽銭を入れると置いてあるお札をもらうことができる。

 奥様は私達の質問に答えてくれると共に「せっかくだから裏庭を見ていきなさい。」といって案内してくれた。裏庭は手入れが行き届かないと見えていて少し荒れているが、裏山都一体となった庭園の中心には小堀遠州流の「心の字の池」がある。この池は後に述べる会津の「飯盛山」、「鶴ヶ城」と並ぶもう一つの観光地である「御薬園」の池の原型になっているらしい。

 昔は慶山の山からの涌き水で池が満々と満ちていたらしいが今は水も少なくなったという。ところがこの池は小枝に泡のような卵を産みつけその中で孵ったオタマジャクシが池に落ちて育つ「モリアオガエル」の産卵地である。蛙の産卵の季節になるとどこから沸いてくるのか多くの蛙が飯盛通りを越えてこの池を目指して登ってきて境内中が蛙で足の踏み場もなくなるという話を聞いた。ここは東山慶山地区で蛙の最大の産卵場所であるらしい。かすかに残ったこの東山の水の聖地は今では絶滅種と言われるメダカがおよいでいた。

 この寺は現在、臨済宗の寺である。天寧寺を頂点とする曹洞宗の寺の多い会津では珍しいような気がする。この寺は身分の高い武士達のもので、松平家の殿様もここを産所としていたという。

 この寺にはもう一つ面白いものがある。本堂の中に「幽霊の足跡」が残っているのである。

薄暗い本堂の中に在る本尊の正面の中央に確かに幽霊の足跡が残っていた。形はネクタイの「ペーズリー」の形であり、火の玉の形、あるいは足のない幽霊の尾っぽの形(?)といえば想像がつくであろう。平成9年に会津に赴任してきて、五月におこなわれた東山小学校の運動会で、仮装リレーのなかに「幽霊の足跡」というのがあり「なんのこっちゃ?」と思っていたのであるが、この会津東山地区では当然の知識というか常識なのである。

 釣鐘堂とは反対の境内には「小笠原長時」の墓がある。初めてこの墓を見たときに「何故こんなところに、小笠原流の宗家の墓があるのか?」と思った。小笠原流といえば「いわゆる三つ指をついてお辞儀をする礼法」の宗家である。調べてみたら、甲斐の武田信玄に諏訪湖のそばの塩尻峠で敗れて諸国を流亡し、芦名氏の時代にここで客分として過ごしていたらしい。ただ最期は家臣に妻と子供と共に殺されこの寺に葬られた。

大龍寺の右奥の小道を進むと次ぎに向かう「愛宕神社」に向かう近道がある。

 

400メートルほど歩くと愛宕神社の長い石階段の中間地点に出る。大きな杉が両脇に生える急な長い参道の石段は石組みが崩れ、なかなか歩きにくい。息を切らしながらやっとの事で登りきると少し広い場所に出る。その右奥に最後の会津藩主松平容保公の胸像が立っている。写真で見る若いときのお顔である。

 正面の階段を少し登るとそこにそれほど大きくはないが時代を感じさせる造りの本殿が立っている。いつもその正面の扉は開かれ薄暗いながらその奥のご神体がかすかに見える。建物の大きさの割には奥行きが深く見えて神秘的である。ここの本殿には多くの絵馬がかけられている。その中でも三国志の英雄「関羽」の絵馬がある。正面手前の右奥に架かっている。その他にも多くの絵馬が奉納されている。

 本殿の周りにも面白い絵馬がかけられている。本殿右側の軒下には横幅が1間以上もある赤穂浪士の討ち入りの様子を描いた絵馬がある。吉良邸の門を打ち破る様子や炭小屋に潜む上野介を引き出してまさに首を討たんとする様子など風雪により色あせながらも、所々に残る絵具の色から奉納時の色鮮やかな姿を連想させる素晴らしい絵馬である。

そしてもう一つ、鶴ヶ城の城下を描いた絵馬である。絵馬の一番下に多くの寄進者達の名前が書かれているがほとんど消えかけている。

 城下を描いた絵はいろんな物が現存しており、鶴ヶ城を紹介する本に出てきているがそこに紹介されているような立派なものではないが、お城が取り壊される前の様子や焼ける前の町並みが詳細に描かれている。そしてその下には壊れてしまっているが鶴ヶ城の模型の絵馬(?)放置されている。

 本殿の右から小道が延びており、50メートルも歩くと「近藤勇」の墓がある。新撰組局長の近藤勇である。ご存知の通り、新撰組は江戸幕府の傭兵部隊であるが松平容保公が京都所司代時代に会津藩預かりとなる。そして新撰組は会津藩の名前と威光によって活動していく。長州藩による朝廷襲撃の計画を画策していた「池田屋騒動」など倒幕の志士の取り締まりに当たり、長州藩にとっては戊辰戦争の最大の敵として会津が位置付けられる事になるのである。

 近藤勇は千葉県の流山で名前を変えて戦っていたのであるが、裏切り者の密告により、捕らえられ、東京の板橋で処刑され、首は京都三条河原にさらされた。ところがその首が何者かに持ち去られ行方不明になった。その首がここに運ばれたあるいは、遺髪が葬られたとの説がある。

 この墓は戊辰戦争の時に会津で戦っていた新撰組副隊長の土方歳三が会津藩に願い出て建てられ、その戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は松平容保公の書であるという。ここからも会津藩と新撰組との関係の深さがわかる。

 近藤勇の墓を過ぎると曲がりくねった下り坂になり天寧寺の本堂の裏に出る。そこに「萱野権兵衛」、「郡長正」親子の墓がある。天寧寺の墓所の一番奥まった分りにくいところにある。萱野家の墓地が並ぶ中で一番大きな墓が権兵衛の墓である。

 萱野権兵衛は1500石取りの家老であるが、会津藩が降伏するに当たっては容保公が軍監中村半次郎に対して謝罪状を提出し、家老達は連名で「戦争の責任は家臣達に在り藩主容保親子に対しては寛大な処置を」という嘆願書を出した。

 政府軍の間では戦争責任の論議が行われたが「藩主は門閥の出身であるから、謀反を企てるはずがない。したがって、会津藩によって首謀者を出頭させるように。」という命が下され、上席の家老二人はすでに死亡していたため名乗りをあげ、会津藩の戦争責任を一身に引き受けて切腹して果てたのである。遺族に対しては容保公から金5,000両が下賜されたという。萱野権兵衛が切腹した事により家は断絶し、家族は郡と姓を改めた。

 息子の郡長正は福岡県小倉藩の小笠原家よりその藩校「育徳館」で会津藩の子弟を教育したいとの申し出うけて、選ばれて小倉に行った。あるとき東京の松平邸に住んでいた母親に食事についての不満を書いたところ母親から「なんとさもしい人間に成り果てたのか」という叱正の返事をもらい、長正は自分の不徳を恥じ、それを大事に肌身はなさず持っていたがある時その手紙を落としてしまい、小笠原の子ども達に拾われてしまった。小笠原の子供達から「客分でありながら食事の事で不平をいうのはけしからん。」とののしられ「会津の武士魂が疑われては郷里の人達に申し訳が立たぬ。」といって切腹した。ときに長正16歳であった。親子共に会津士魂を貫いた武士の鑑と称えられているのである。

 長正の墓は萱野家の墓の左奥から少し山道を登ると郡家の墓にでる。古い墓が多く文字が読みにくいため長政の墓が見つけられずにいると、突然大きな墓の影から小さな野ウサギが現れ逃げて行った。その野ウサギの追いかけると逃げ去った草むら前にある墓にくっきりした文字で「郡長正」と書かれていた。長正と同じような小さな野ウサギが私にこの墓を教えてくれたのである。これよりもっと不思議な体験を磐梯町の恵日寺のそばにある古い墓でしたことは、いずれ(多分第2編になると思う)書くことにする。

 天寧寺は会津にある曹洞宗の50数カ寺の頂点に位置する寺である。

 天寧寺の参道を下りて行くと、飯盛通りが東山温泉と鶴ヶ城方面に分かれる、奴郎ケ前(ヤロウガマエ)交差点に出る。

 飯盛山からここまで約1.5kmほどの場所である。道なりに大きく右に曲がりながら直進すると800メートル程で鶴ヶ城に至り、左折すると5百メートル程で東山温泉に至る。

 この交差点を右折して数百メートル進むと松平家の別邸「御薬園」がある。御薬園の正式名称は「会津松平氏庭園」という。芦名氏の代から別荘として使われていたものを松平氏の代に復興し、主に藩主の保養の場としていた庭園である。第2代藩主の正経(マサツネ)公の代に薬草を植え、特に朝鮮人参は、後に会津の重要な産業の一つとなった。

園内に入ると前方の高い木々を背景にして中央に綺麗な「心字の池」がある。池の正面には茅葺きの御茶屋御殿があり、その中で抹茶をいただく事ができる。庭園の池の周りは散策するには手ごろな広さであり、池の中央には亀島という島があり楽寿亭が建てられており、そこから見る池の全景もまた見事である。池を一回りした所に薬用植物園があり多くの薬草が植えられている。入り口の左手には二階建ての「重陽閣」とよばれる東山の旅館を移築した建物がある。ここでは「御薬園会席料理」がリーズナブルな値段でいたいただくことができる。

 大龍寺と愛宕神社から山道を通らずに、飯盛通りに戻り、奴郎ケ前交差点までの間には、桐屋夢見亭という南会津只見町の曲屋を移築したの蕎麦屋があり水蕎麦で有名である。ただこの水蕎麦以外はすべて1000円以上という値段には疑問がある。

 その敷地の奥には福島県双葉郡の豪壮な養蚕農家の建物を移築した「会津松本東西館」という会津の桐の家具と共にヨーロッパのアンテック家具それに西洋の小物などが並び、そこでお茶も楽しむ事もできるなんとも不思議な空間である。

ここを出て少し進むと「会津慶山焼き」の窯元がある。廃れていたのを復活したものらしい。青い釉の特徴的な焼き物である。その窯元から少し離れたところに手びねりをさせてくれるスペースがある。

 この黒い建物の2階は「土とき器の館」というギャラリーになっており、いろんな作家達の作品が展示されている。このギャラリーは靴を脱いで上がるのであるが、2階に至る階段の作りが特徴的である。少しずつ階段の高さが低くなり、普通の感覚で登ると異様な感じがして、歩きにくい。中は天井の高い黒い壁の丸い非日常的な空間であり、「階段を登る間に下界の感覚を捨ててくるように。」という意味があるように思えてならない。

 奴郎ケ前交差点の正面に見える小高い丘が戊辰戦争のとき西軍が砲台を築いた小田山である。交差点の正面に見える斜面は冬、市内の小学生達のスキー練習場になる。

 小田山は全山が葦名氏の墓が点在している。「花見が丘」という住宅街の奥から山の頂上に向けて小さな道がある。車が入ることが許されておらず、5百メートルほど歩くことになる。市内の裏山がこれほど静かなたたずまいを持っていることに驚かされる。中腹には西軍が砲台を築いた跡が展望台として気が切り開かれ、お城が正面に見える。ここに立つとこの高台からであればお城に対して大砲の弾を当てることがたやすかったことと、その先の惨状が容易に想像できる。山頂には会津藩中興の名家老といわれ殖産を興し藩校日新館を西出丸に作った田中玄宰(ハルナカ)の墓がある。

この小田山の遊歩道は住宅街の裏山でありながらそのままの自然が残されており、眼下の騒音を忘れさせてくれる不思議な静けさがある。私はここを二回歩いたが誰一人出会うことはなかった。とはいえ私の歩いたのが夕日が会津盆地の西の山の端に落ちていく薄暗い夕暮れ時で普通の人なら散策するような時間でないこともある。しかし、静けさとこの山の持つ歴史に想いをふけるには最高の時間帯である。

 奴郎ケ前交差点には「奴郎ケ前茶屋」と「お秀茶屋」の二つの田楽を売る茶屋がある。餅と生揚げ、身欠きにしん、コンニャク等に田楽味噌を塗り囲炉裏の炭火で焼く。香ばしくて美味しい会津の名物である。田楽茶屋から東山温泉に200メートルも歩くと「会津武家屋敷」がある。会津藩家老西郷頼母の屋敷が復元され、武具や調度品などさらに西郷の妻たちが自害して果てた時の様子が人形を使って再現され、その他にも白河に在った精米所なども移築されている。弓を射たり、大砲を撃ったりする子ども達も遊べる場所も在る。

 この武家屋敷には「鶯宿亭」という食事処と会津地方の名産品を集めた「郷工房古今」がある。この「古今」は一度訪ねる価値のある場所である。普通の観光土産物屋と異なり会津の本当の意味での名品、特産品が並べられている。漆器に会津本郷の焼物、銘菓に名品間違いなく名のある一流のものばかりで、観光ガイドブックよりも凝縮された形で会津の名産を集めており会津の文化がそこにある。そこに並んでいるもので気に入ったものがあったら是非その本店を訪問する事をお勧めする。

 武家屋敷を後に東山温泉への坂を少し登ると「会津藩主松平家御廟」の立て札が見えてくる。そこを左折して蔵の並ぶ路地を進むと、御廟の入り口が見えてくる。ここは「松平御廟」と呼ばれており、御薬園と共に国の指定史跡になっている。鬱蒼として日差もささない大きな杉の生える湿気の多い参道を進むと、まず2代藩主正経(マサツネ)公の墓がある。それから五分ほど登ると大きな石の柱の林立する広場に出る。その石はどれも大きな亀の形をした台座に乗せられて、1メートル以上の正立方体の高さ三メートルはある。その表面にはそれぞれの墓の主に関する生い立ちや性格、業績などが漢文で書かれている。向かって右から第3代正容(マサカタ)公、第5代容頌(カタノブ)公、第6代容住(カタオキ)公、第7代容衆(カタヒロ)公、一番奥に入って第9代容保公と斗南藩主容大(ハルカタ)公と続きそこには夫人や側室の墓もある。 この墓の一番右側にある3代藩侯の墓の前から小道を進むとその奥に第4代容貞(カタサダ)公、第8代容敬(カタタカ)公の墓がある。

 それぞれの墓はそれぞれ大きさが異なるがここで一番大きな正容公の墓は約1メートル80センチはあろうかという約三メートルの高さの石柱(竿石)と一段高くなった丘の上に墓石(御表石)、その又一段奥の峰に八角形をした奥の院の三つがセットになった神式の作りになっている。

 この作り方は初代保科正之公の猪苗代にある土津(ハニツ)神社と全く同じである。

しかし、第2代藩主正経公の墓は仏式の作りとなっている。


 松平御廟を出るとすぐに信号機があり右折すると東山温泉の川沿いの温泉街に入る道であり、直進すると東山温泉のバイパスである。

 東山温泉は1200年以上の歴史を持つ会津の奥座敷として栄えてきた。湯川沿いにホテルや旅館が並んでいる。約1200年前、僧行基が修行で会津を訪れたとき、三本足のカラスが現れ、それに導かれるように湯川の辺に来ると岩の間からお湯が涌き出ていた。それが東山温泉の始まりであるという。

 夏には行基上人の開湯の伝承を持つ老舗の旅館「不動滝」の前に櫓を組み盆踊りが開かれかなりの踊り手があつまる。この祭りは芸者さんたちが櫓の上で歌い、踊る普通の夏祭りでは絶対に経験できない老舗の温泉地ならではの色っぽい夏祭りである。
 数日行われる祭りの1日はさらしを巻き半被姿の芸者さんが神輿の上に乗り、観光客等が温泉の手桶を使ってお湯かける少し色っぽいお湯かけ祭りがある。初めて参加した時、息子たちもずぶぬれになりながら誰彼かまわずお湯をかけて楽しんでいた。お湯をかけられてもとても楽しいワクワクする祭りらしい祭りであった。ただお湯をかけられた後はかなり冷え込む為震えていた。

 旅館街の中央ほどに「松本屋」羊羹の老舗がある。平成9年に会津に住み始めた8月にこの松本屋さんの店舗改装オープンがあり初日に訪ねて、会津本郷焼きの「酔月窯」の器をもらった事をきっかけにここに良く通うようになった(この酔月焼きが素晴らしいもので羊羹と共に焼き物にも目覚めた。)。

 ここの名物はやはり「水羊羹」である。上品に仕上がった控えめな甘さは伝統の重みを感じさせるものである。ステック状になっている一口で食べられる「花羊羹」は、家族でフィリピンに旅行した時に持っていき世話になったホテルのスタッフに食べさせたら喜んでくれた。

 平成11年夏長男の真之介が私の浴衣を着て桐の下駄を履き、帯の後ろに団扇を差して粋に東山盆踊りにデビューした夜、新しい発見をした。「足湯処」と呼ばれるもので、家の壁際に縁台が作られその前に左右に6人がいっしょに足をつけることができるような深さ15センチほどの桶(?)になっており、その上にテーブルがつけられ松本屋のかき氷を楽しむことができる。

 羊羹を買い、外に出ると顔見知りの店の人たちから声をかけられ、かき氷と羊羹を食べながら足湯を楽しむことができた。下駄を脱ぎ素足を湯につける感覚は妙にリラックスさせてくれるものである。この夜私達が話しかけた男性が温泉組合の方でこの施設を作る責任者だった。これを作るに際してのこの方と頑固な大工の「日本式縁台にテーブルはない。俺は絶対作らない。」と言われ説得するのに大変だったなどというエピソードをいろいろと教えてくれた。

 ちなみにこの場所は以前ストリップ劇場のあった場所で「ステージはこのへんにあったな!」などと教えてくれた。

 この東山に来たらぜひ訪ねてもらいたいところがある。この松本屋の前の階段を登ったところにある食堂「卯之屋」さんである。ここの「味噌タンメン」と「ソースカツ丼」は最高である。特に味噌タンメンはコクのある上品なスープで絶品であり思わず最後まで飲み干してしまう。喜多方ラーメンや会津ラーメン等美味しいラーメンの多い中で口コミで美味しいうわさが広がっている。何度も通ったがそのたびにおいしいと思う。「卯之屋の味噌タンメン」である。

 街の中央ほどの「新瀧」旅館の入り口に竹久夢二の「宵待草」を刻んだ詩碑がある。

 東山温泉を抜けると東山グランドホテルを過ぎるとすぐに東山ダムに出る。この周りには桜の木が植えられており桜の季節は見事である。まだ桜の木が若いがもう少しすると桜の名所になるだろう。ダムの少し手前に「雨降りの滝」がる。今はそれほど水量が多くはないが松平家の照姫が詠んだ「たち寄れば袖もしぶきにぬれにけりげに雨ふりの滝のしらなみ」という歌がある。

 東山温泉から5分ほどで東山ダムがありそれから10分ほどで廃業した「おおすごスキー場」ある。東山ダムはルワーで釣りをする人達で賑わい、対岸には桜の木が植えられ春は素晴らしい桜並木になる。会津に赴任してきた平成9年の春はじめてここの桜を見に来たら多くの「ウソ」という鳥が桜の芽を食べているのを見かけた。会津は鳥の宝庫であり我が家の子供達は「会津はスズメよりほかの鳥が多い。」等と言うほどであるが鳥の話は別の機会にしよう。

 スキー場は平成9年まで営業していたが赤字により営業を中止してしまい雪国会津若松市にスキー場がないということになってしまった。小さいながら山頂部の急斜面に中間地点の緩斜面と初級者から上級者までで楽しめるいいスキー場だったのであるが残念である。転勤してきて家族で1回だけ滑って素晴らしいスキー場で、妻はせっかく会津に住むのだから「夢のシーズン券(関東のスキーヤーにとってシーズン券を持つことは夢のまた夢である)」でうまくなろうと誓った場所である。ところが実際はそれ以上のスキーの世界に入り込んでしまった。

 市内から25分程で行ける料金も安い市内のスキー場は、雪国の子でなければできないスキーを身近なものにする為にも、また、雪国だけでしかできないスキー競技に取り組む子供達にとっても必要である。雪は冬の厄介者である側面はあるものの、それが毎年やってくるのが定めなら、子供のころからそれに正面から向き合ってそれを楽しむことは必要であり、雪のない国の子供達からすれば最高の財産であると思う。ただ雪との付き合い方は親掛かりであり親がそれに目覚めないとどうしようもない(これはスキーの限ったことではないが)。我が家の子供達が競技スキーを始め、12月初めのカナダ合宿からシーズン中60日ほどピステにいる生活をしてみて思うことである。埼玉に住んでいたときにこのような生活をするとはまったく想像しなかった。

 この東山ダムの奥の一本道は東山温泉の中を流れる湯川沿いに進むことになる。バブルの時代を象徴する今は使われていないホテルのヘリポートがあり、少し進むと一之渡戸(イチノワタリド)という集落がありここまで人が住んでいる。それから5分ほど走ると未舗装の道になり脇の湯川がますます狭くなり多くの滝が見え、沢登りには最高のポイントである。しかし夏でも水がかなり冷たく、暑い夏でもこの渓流沿いにたたずむと最高の涼を得ることができる。それも東山ダムまで続いている。会津若松市内では最高の渓流であろう。

 一之渡戸の集落の手前に清水の涌き出るところがあり、いつも誰かが水を汲んでいる。

会津には磐梯町の龍ヶ水湧水をはじめとして強清水(コワシミズ)等多くの清水がある。その他にも博士山の湧水、会津高田松沢荘の裏の清水など等多くの人がそれぞれの水にこだわりを持って楽しんでおられる。

 8月の押し迫った夕暮れに妻と二人でこの清水を汲んでいるとの一台の車が私達の前に止まり、フライフィッシングのロッドを持った男性が薄暗い川面に向けてキャスティングをはじめた。

 整備工場の社長さんの様であり、仕事が終えてこの東山温泉の奥の湯川に釣りに来るという。6月から釣れ初めてこのあたりでも25センチ以上の岩魚や、ヤマメが釣れるという。フライのほうがルアーより格段に釣れ、一度はじめるとはまってしまう奥の深い大人の釣りだといっていた。釣りをやらない私もこの出会いがフライフィッシングを始める大きなきっかけになり、早速道具を買いそろえ、ここでロッドを振るようになった。それにしても家から20分ほどの場所が渓流釣りの名所があるには驚かされる。

 背炙山

 東山の温泉街に入る交差点を直進してすぐに左折すると背炙山の山頂を越え猪苗代湖に続いている道である。東鳳という大きなホテルを過ぎ曲がりくねった山道を8キロほど登ると山頂に到着する。その途中一箇所だけ会津盆地と猪苗代、磐梯山が一望できる場所がある。現在はテレビ局のアンテナが立ち並びアスレチック施設と休憩所の建物がある。ここは幾分山の中に入っているため会津盆地が一望というわけにはいかないが、会津若松市内が眼下に見える。道路の下は大きな広場になっており「関白平」と呼ばれている。

 天下が豊臣秀吉の時代、有名な「小田原攻め」の後、遅れて参陣した伊達政宗などのいわゆる「奥州仕置き」の為に豊臣秀吉はこの峠を越えて会津の地にやってきた。

伊達政宗はその際、豊臣秀吉ににらまれている政宗より弟を藩主にしたほうが伊達家の為になると画策する母親から毒殺されそうになり、実の弟をその手で切るという悲劇が起こったのもこのときである。その際引き連れてやってきたのが会津の領主となる蒲生氏郷である。せっかく葦名氏を滅ぼして念願の会津の地を手に入れた伊達政宗は無念のうちに1年足らずで仙台に赴くのである。

 この関白平には「おけいの墓」が建っている。明治時代アメリカに渡りかの地で客死した少女の墓である。東山小学校の子供達が山道を2時間ほど登り墓の掃除にやってくる。

これが一時期中断されていたが、平成11年に再開された。この再開が我が家が少なからずかかわっているらしい。次男が先生から「背炙り登った事があるの。」と聞かれ「ハイ行ったことがあります。」と答えたところから、企画していた先生が校長先生に「H君も登った事があるのですから子供達も登れます。」と説得して実現したのだという。

ここまでが飯盛通りから東山温泉までの私の記憶と体験の記述である。それ以外にもまだ多くの話があるのだがここまでにしておく。
第一篇会津若松市 以上


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