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昭和30年代から40年代前半の
坊津町の子供の世界

私の故郷坊津町は合併で現在は鹿児島県南さつま市になってしまったが、薩摩半島の突端に位置するリアス式の海岸作る美しい海岸線と遣唐使が行き来したと言われる歴史の町である。
私が生まれた昭和30年は戦後ベビーブームの子供達が多く町の人口も多く、村が町になった年であった。ただ特に産業があったわけでもなく半農半漁の貧しい村だった。
その故郷に生まれてから高校を卒業するまで住み、また社会人になって29歳から34歳までの期間を過ごした。その意味で学校を卒業して故郷を離れたきりというわけではなく子供達が生まれたとても貴重な時期を故郷で過ごしている。そして今、人生の午後を迎え、もう少しでリタイヤとなるというこの時期遠い子供の頃の坊津を振り返ってみる。 以下に書いたのは今岳の子供の目で見た30年代の故郷である。

私の生まれた坊津久志今岳は下の村は末柏、上の村の池屋敷からなっていた。小学校は上の村の池屋敷にあった。私の生れた家は小学校の隣にあり、私の家の前が旧農協だった。

節句節句】春になると小学校の周り植えられた桜の木が満開になり子供心にもウキウキとした心持になった。私の今岳小学校の同級生は男8人女8名計16名の小さな学年だったが卒業式は桜の花吹雪の中で行われたことを記憶している。

春はやはり節句であった。どの家でも重箱にお弁当を詰めて出かけていた。かまぼこやツケアゲ、コガ焼等が入っていた。どこに出かけたのかは記憶ははっきりしないが、見晴らしのいい草地や木陰だったような気がする。

子供用の小さな箱に3段の重箱が入った私だけの節句の弁当を作ってもらって出掛けたのを覚えている。その小さな重箱が長男が生まれて親戚とともに出かけた吹上浜の写真の中に写っていて驚いていヨモギる。

ヨモギ】そして、春先になると祖母に連れられて田んぼの畦道に行き若いヨモギの若葉を剃刀の刃で切り取り集めてきて、祖母がヨモギ餅にしてくれた。坊津では「フッの餅」という。今町で見るヨモギ持ちとは異なりヨモギの葉が沢山いれられしているため深い緑のとても味の濃厚な餅である。そして余ったヨモギの葉は団子状にして乾燥させて保存して使うのである。ヤマモモ

ヤマモモ】梅雨のころになるとタケノコもたくさん取れた。孟宗竹ではなく真竹やコサン竹だった。そしてこの時期、山にはヤマモモが沢山実を付ける。ヤマモモの木は、濡れると滑りやすくまた裂けて折れやすい木であるため木に登ると滑って落ちて怪我をする。そこで、大人たちは子供達にヤマモモの木には山姥がいて悪さをするから濡れた木には登るなと教えられた。

海水浴】夏になると浜に海水浴に行ったのが一番の思い出である。

夏休みになる末柏の砂浜で親達が交代で監視員として日差しの強い時間を避けて3時から5時ごろまで毎日泳がせてくれた。

上の集落の池屋敷の子供に比べ浜に近い末柏の子供達は毎日が浜で遊んでいたため泳ぎもうタカジまかった。同い年の男の子たちは潜りも舟を漕ぐのもうまくたくましかった。
私がいつから泳げるようになったかははっきりした記憶がある。小学4年生であった。県内でも有名な水泳選手だった教頭先生が平泳ぎを教えてくれた。

とはいえ、泳ぎを覚える一番の手段は伝馬船で沖まで行き着き落とされて必死で浜まで泳ぐことだった。

潜り】高学年の子供達の海の遊びは海水浴ではなかった。ウズッ(モリ)を持って潜り魚を取ることだったこの魚は管理者はモリで突いて獲った魚 腹を取られたもモハメはウツボに持っていかれた。。ハンタクイ(ブダイ)や、ガラコイ(カサゴ)、タカジや、アワビ等を潜って突いて取っていた。それがいっぱしの男の証だった。私が初めてモリでハンタクイを取ったのは小学校6年生だった。6年生の時に自分のモリ作ったと思う。これでいっぱしの男になれたという気持ちになれた。

潜れるようになると末柏の浜の海の中は勝手知ったる庭のような場所で、海の中の瀬がどのようになっていて、どのような潮の時にどこの岩の下に魚が集まる・・というようなこともわかるようになった。
子供たちが生まれて4年間鹿児島で住んだ時も鹿児島の仕事から今岳に帰り毎週のように海に潜りハンタクイやガラコイ、タコなどを獲っていた。右の写真は管理者が1回の潜りで獲ってきたもの。ほら貝にタカジ、アワビ、ハタノハダイ、それにガラコイ(カサゴ)です。大きなハンタクイの腹がないのは突いた後に紐に吊るして引いていたら大きなウツボに喰われてしまった。結構緊張の瞬間でした。)

今岳の浜の海の中我が家の息子達も坊津生まれの男の子として帰省しては海に潜りモリを使ってハンタクイやイセ海老、タコなどを突けるようになった。ところが今の坊津の子供達はゲームの方が楽しいらしく、今岳の先輩が我が家の息子達のように毎日海に潜って魚を獲っている子供はほとんどいないと嘆いていた。その先輩は自分が潜りに行くときに自分の息子は誘わずに我が家の息子達を「おーい、潜ぐっけいっど」と誘い軽トラの後ろに乗せて海に下りって行った。

ただ、今岳の海に子供のころから潜っている子供達が中高校になった頃「フィリピンの海ほどではないが海水が生暖かくなっている。」と言っていた。確かに今の海は昔ほど冷たくない。末柏の浜でも私が子供の頃にはなかった場所(ナッゴラ浜)に沢山のテーブルサンゴが群生するようになっている。地球温暖化は間違いなく迫っている。


南さつまでは「ガシタ」と呼ばれる小魚類。このガシタの正式名称は「イシモチダイ」ガシタ釣り
低学年の時には浜で竹ざおでガシタという小さな小魚を釣ったことであろうか。釣竿は山で竹を切ってきて曲がったところは火で焼いて真っ直ぐに伸ばして作った。

「ガシタ」はテンジクダイ科の小魚の総称である。右の写真の「ネンブツダイ」や一回り小さく頭の上に黒い星のある「クロホシイシモチ」が代表的な小魚。
とても美味しいだしの出る魚で味噌汁や煮物にすると最高においしい。

坊津の古謡で「おいどんがちんけときゃよ・毎日浜に釣りに行って・ガシタもついださんでよ。ねて(泣いて)てもどたっよ。」とうのがあった。
(右の写真は26年正月千葉県鯛の浦で撮影したもの。この小魚に興味を示すのは田舎でこのガシタを遊んだことがある者だけです。)

遠泳大会】そして海の話題と言えば、久志中学校の夏の行事は博多浦から久志の海岸まで約1・5q程の遠泳大会であった。漁船に先導されて一列になって入り江を横断する。私達が泳いだ年は私達のすぐそばまでイルカがやって来た。タモ網から渡される飴が海水と微妙に溶けてとても美味しかった記憶がある。その4年後、私の妹もこの入り江を横断した。

カメ】末柏の浜にはよくカメも上がって砂浜に卵を産んだ。卵を産むときに見に行きいくつかせしめてきてボール代わりにして遊んだものである。カメの思い出は漁師の網にカメがかかると一度は酒を飲ませて甲羅に久志漁協とペンキを書いて放流する。しかし2度目の網に掛かる、解体されて村中にふるまわれた。「ガメが上がったぞー。」という掛け声を子供心におぼえている。

肉は赤身とドロドロした緑の脂である。味噌と煮込むととても美味しかった。汗が油のにおいがすると言われていた。このカメの解体は未婚の男や子供のいない男は行ったり見たりしてはいけないとされていた。首を切り落とし甲羅をバールで剥がすのは年寄りの仕事だった。子供ができなくなると言い伝えられていた。エギ

イカ釣り】磯ではイカ釣りもよくした。小あじをテグスの先に付けて沖に投げるとイカがついてくる。それをカギで引っ掛けるものだった。

また、餌木(えっぎ)という今風に言えばルアーであるが小魚の形をした後ろに針がついているものを竿に付けて堤防で上下させるとイカがかかった。
エギは先輩方は手作りしていた。右の写真のようなきれいな物から歯ブラシの柄に針を付けた簡単なものまであったと思う。

十五夜】秋になると十五夜である。十五夜は中秋の明月の夜に村中が集まって大きな綱を引いて勝敗を決め十五夜の相撲る楽しい村祭りである。そして綱が切れたら何度か繋いで綱を引く。最後に切れた綱を土俵にしてその中に藁を敷きその上で村の男達が相撲を取る。盆踊りに次いで賑わう村祭りである。その段取は全て子供達だけで行う。

坊津の各地でいろんな十五夜が行われるが今岳では夏休みになると中学2年生と頭にして小学3年生までの男の子が準備をする。リーダーになる中学2年生を一番頭(がした)といい、それから一番下まで序列がつく。これが薩摩の男たちが最初に経験する組織であり序列であった。それによりその組織の中で薩摩男としてのいろんな経験をする。

まず、十五夜の大綱の材料となる藁を村中から集める。農家からは1戸5束だったと記憶している。農家でないところからはお金をもらってくる。

それを村の農家の小屋を借りてそこに収める。大縄をなう藁は脱穀した稲の束では使えない。藁をほどいて半分にしてそれを10センチほどずらしてしっかりと束にする。その段差の部分が縄をなうときの食い込み部分になるのである。初めて十五夜の団員になった小学校3年生は先輩達からこの藁の組み方を教わってその技術が伝承されていく。それまで可愛く育てられた子供が男の集団の中で男の世界と村の伝統を経験していく。そして序列が上に上がるにつれて薩摩のニセ達(若者)のリーダーシップが身についていく。そして中学2年(中学校では立志式が挙行され薩摩の男になる)になると「一番頭」になり同じ年の者たちとその年の十五夜のリーダーシップをとる。

それだけではない大綱をなうためには芯となるカズラ(蔓)が必要である。芯となる大きなカズラの他に大綱に取りつけない女性や子供達が綱を引くための紐となる細いカズラを準備する。それ池屋敷の裏山や場合によっては今岳山のうらの網代のある閼伽の間の奥山に分け入り集めてくる。子供達だけでナタや鎌を持って山に入って行き、カズラを切り出して、十五夜まで枯れないように小川の水たまりに浸けておくのである。これにより村の子供達はそれまで怖く深い森であったものが皆で歩き回った勝手知ったる裏山になるのである。さらにナタや鎌を使いこなし、肥後の守というナイフが男の武器となってくる。

そして十五夜の日の午後になって初めて大人たちが出てくる。今岳小学校の前の道に大きな孟宗竹の櫓を組みそれを使って大縄をなう。芯となる大きなカズラを中心にして数本の大きな縄が1本になわれていく。大縄がなわれるとき芯の蔓にはまずその年の一番頭がぶら下がり、芯が揺れないようにする。それを一本に締める過程で掛け声とともに3本の縄が次から次からと一番頭の体を強く叩く。これを両親や村中の大人たちがうれしそうに見ている。これが今岳の十五夜の一番頭の試練であり、これにより少年集団のリーダーは大人の世界への仲間入りが許される。

私が一番頭の時幼馴は男二人女二人の4人だった。そして私と幼馴染はこの儀式を受けた。アケビ

そして十五夜縄は独特な謡で始まるのであるが当時私の祖父しか歌う者がいなかった。そして祖父が孫のために生で謡を披露してくれた。

秋になると山に木の実が豊富でアケビ(アック)やウンベ(ムベ)等が取れた。シイの実であるコウジも取りに行った。

相撲大会】子供心に冬の思い出は少ない。ただ、正月明けに行われた久志中学校の校庭にあった土俵で行われる相撲大会は盛大に行われた。

今岳でも年末から青年団により準備が行われた。海岸に浜砂を取りに行って公民館の庭先に作られた土俵の中に砂がまかれた。そこで夕方になると男たちが集まり相撲の練習をする。
年末の寒い公民館の庭先にたき火が焚かれ私も初めてまわしをつけて練習をし、相撲大会に参加したことを覚えていヒヨドリる。
池屋敷の公民館の中には沢山のまわしがあってそれをつけて練習した。当時、相撲はとても人気があったらしく公民館にはとても相撲が強かったが若くして亡くなった中村さんという青年の遺影が飾られていた。村のヒーローだったようである。

鳥のワナ】冬の遊びというと先輩達に連れて行かれたヒヨドリ(今岳ではチョッカといった)等の山鳥を捕るワナを掛けて鳥を撮っていた。

簡単な仕掛けである。山の中に入り木々の枝が1メートル四方ほど開けて空が見える場所を選んで仕掛ける。バネになる直径2センチほどの枝を見つけてその先に3本のタコ糸を張る。そして2本は15センチほどの小枝の両脇結び、1本の紐は10センチほどの小枝の一方に結ぶ。そして2又になった枝を切りだしてきて、その叉を杭にして横棒を押さえる。その横棒の下に2本の紐のついた枝を通す。その紐のついた枝は地面に打ち付けられた枝を支点にして上下する。そしてそれを10センチほど地面から持ち上げたところにもう一つの紐のついた枝の一方をひっかけ、枝のばねで下に落ちないようにして小枝で引っ掛ける。そしてその周りを小枝で囲むように立てて小屋を作り中にみかんを入れておく。するとゲートから中に入ろうとした鳥がストッパーを踏んで外れると2本の紐のついた枝が鳥の首を押さえてをとらえるというものであるた。エサの少ない冬場には面白いほど獲れて祖父に焼いてもらって食べていた。
埼玉の家の近くで作ってみた写真



テンギン
そのほかテンギンという遊びがあった。直径3から4センチほどの枝を45度と30度ほどの角度で切り出すと長い長辺を底にしてまるで鳥が立っているように見える。その立っている短い首の方を木の枝でたたくと宙に舞う。その舞っているものを木の枝でたたいて飛ばすというものだった。その距離を競うのである
この時、またの間から棒を出して行う、5点5点テンギンとお尻の後ろに棒を置いてたたく10点テンギンがあった。(28年10月帰省の折思い出して加筆した。)

.その他 【ヨメゾタタッ(嫁ゾたたき)】:村に嫁さんが来るとニセ(青年)達が嫁が来た家に行き、何かくれるまでさわぎ、いいものをもらうと去るという習慣。私も1度だけ経験したことがあるような記憶があります。(28年10月帰った時に幼馴染に言われて加筆しました。(by hiromi)

2016年10月12日(追加)


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