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馬来丸戦没者慰霊碑

久志湾の中央部の一番奥まった坊津青少年旅行村のこじま莊の脇から山に向かって200m登り、三叉路をさらに右に登るとその行き止まりに建ている。
木々に囲まれて視界は利かないが木々の間から戦時徴用船馬来丸(マレー丸)が撃沈された久志湾の方向が望める。
正面の慰霊碑の左脇に撃沈の経過と戦没者数が書かれ、碑の両脇に全戦没者の部隊、出身県、1612名の氏名が彫られている。
この場所の海岸線は久志湾の夕日を望むには一番いい場所である。 
慰霊碑の場所 MAP
沈没地点   北緯31度18分。東経130度10分、水深126m  MAP
馬来丸戦没者慰霊碑
撃沈された経過が書かれた碑文

船体と運命をともにしたもの1499名
陸地に到着して死亡した者76名
殉職した船員37名
合計1612名

碑文全文は下に記載
ブロンズのレリーフ
両脇に全戦没者の部隊と出身県、名前が彫られている。
慰霊碑の全景
撃沈された久志湾の方面に向かって建っている。
建設 昭和54年1初24日

建立者馬来丸戦没者慰霊碑建設委員会会長津田庄治
建設委員長 松下芳文
設計 日本芸術院会員鹿児島大学名誉教授中村晋也
施行 前迫石材且ミ長前迫初實

碑文

大東亜戦争の苛烈を極めていた昭和二十年一月、陸軍輸送船馬来丸(四、五五六屯)は、ソ連国境警備隊から南方転進を命ぜられた第十二師団隷下部隊(関門周辺で編入された部隊を含む)の兵員二、〇五五名を乗せ、ほかに軍馬、軍需品を満載して門司港を出航し、途中、海軍艦艇の護衛を受け、伊万里湾、牛深港に仮泊のあと、同月二十五日午後一時五十分、鹿児島県川辺郡坊津町久志湾の沖合を航行中、突如として、見張兵が敵潜水艦の雷跡を発見、「魚雷」と絶叫した瞬間、第一弾は、右舷二番船倉付近に大音響を発して命中、続く第二弾も、船橋下部付近に命中し、船体は急速に右舷に傾斜して沈下しはじめ、輸送指揮官が総員退船を命じたときは、既に船首より鯱立ちとなり、午後一時五十三分、船影は完全に海中に没したのであります。
 沈没地点、北緯三一度一八分。東経一三〇度一〇分、水深一二六米当時、海上は北寄りの風強く、波浪高く、水平線一帯に雪まじりの降雨という、視界不良の悪天候でありました。
天地を揺がす爆発音によって、馬来丸の遭難を知った地元久志湾沿岸の住民は、直ちに、あらゆる発動船、漁船を出動させ、枕崎湾から馳せつけた軍用救助艇と共に、必死の救出活動を展開したのでありますが、時化と寒気に阻まれて、作業は困難を極め、実に、
一、船体と運命をともにし、再び浮上することなく、或いは、脱出後、海中に呑まれて戦死。
一、四九九名。
一、陸地に漂着して遺体が確認され、或いは、陸地で力尽きて戦死。七六名。
一、殉職した船員。三七名。
併せて、一、六一二名の尊い犠牲を強いられたのであります。

参考 麹町ウぉーカー78号 靖国神社

夫婦で登る日本百名山 HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町