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=======麹町ウォーカー(麹町遊歩人)NO58============= ダイエー優勝で終了した日本シリーズ。今度は、長島ジャパンのオリンピックアジア予選やバレーボールのワールドカップで毎晩テレビ中継に釘付けの方も多いのではないでしょうか。 気になるのは、中継のアナウンサーが絶叫型であることです。やたら煽り立てるのです。当然、日本のチームを応援しているのですが、あの絶叫アナウンスを耳にすると興醒めしてしまいますよね。サッカーの海外中継で「ゴ〜〜〜〜〜〜ル!!!」と絶叫する外人アナウンサーを耳にした頃から中継が絶叫型になってしまったようです。 昔のアナウンサーは、興奮だけじゃなく試合の様子もきちんと伝わってくる中継をしていました。 さて、H氏は古くから麹町界隈に住んでおられる方々から、貴重な情報を仕入れたようです。この興奮と拘りが伝わってくる『食違見附』のレポートです。 ====================================== 紀尾井町の清水谷からホテルニューオオタニと紀尾井ホール、ハウス食品工業東京本社の間にある紀尾井坂を登りきった所が『食違見附』である(四ッ谷駅からイグナチオ教会の土手沿いに5分歩くとここに至る)。現在では土手に「食違見附跡」という標識が建っているが、通りは、歩道もない狭い道である。両方の土手の上にある大きな木の枝が伸び、木のトンネルを作っている。以前紹介した小泉八雲の「怪談」の中で「のぺらぼう」が出てくる「狢(むじな)」の舞台となった場所である。 食違見附は1659年(万治2年)に築造された土橋の門で、別名伊賀町新土橋とも呼ばれた。江戸城の見附の中では最も標高の高い場所にあり、他の見附門とは異なり左右の柱の上に1本の貫(ぬき)を通しただけの簡単な冠木門(かぶきもん)が設けられていただけであった。 この食違見附の名前の由来は道が、ジグザクの食違いになっていたところからついたという。 先日昼休みに歩いていた折、この近辺の歴史を訪ね歩くツアーのメンバーと遭遇した。 その際説明をしていた方が太平洋戦争敗戦後に駐留したGHQ(連合国最高司令官総司令部)のジープが紀尾井坂を飛ばしてきて食違い見附で曲がりきれず壁にぶつかる事故があったと話しをしておられた。 この見附門は明治5年に廃止されたが翌明治6年に皇居が炎上し、現在の赤坂迎賓館の場所にあった紀州徳川藩上屋敷が仮皇居となったところから、食違見附が重要な連絡路として歴史上に現れてきた。 よく知られるところでは明治11年(1878年)5月14日早朝、紀尾井坂の下にある清水谷で、時の内務卿大久保利通が石川県士族島田一郎らによって暗殺されたが、この大久保の馬車はこの食違見附を渡って赤坂仮御所に向かう途中であった。大久保49歳であった。
お堀に逃げて命拾いした「食違見附の変」も起こっている。これは「明治6年の変」といわれる西郷隆盛の朝鮮派遣(いわゆる征韓論)をめぐる対立で大久保とともに岩倉具視がこれを否決したため反感を買い征韓派の不平士族が襲ったといわれている。 当時の新聞記事によると、23歳の明治天皇が侍女と深い中になり、それを知った皇后が立腹したが、仲裁に尽力した岩倉具視により何とか話が納まった。その慰労の酒宴が開かれた帰りに襲われ、危うく命を落とすところだったのだとある。 それにしても当時は天皇の不倫を報道できるような時代だったと見える。 つい先だって、「麹町界隈今昔物語」という江戸開府400年事業の一環として、麹町小学校の同窓生の史料編纂委員会が主催した催しに参加させていただいた。私を含めて7名の小さな催しであったが、麹町、平河町、紀尾井町で生まれ育った方々の貴重な話を聞くことが出来た。この時の主要テーマであった「2・26事件」はまたの機会に書くことにして、今回はその中で話に出た『御通り(おとおり)』について紹介する。 今上天皇が皇太子時代、父君である昭和天皇は、皇太子と一緒に住まず慣例に従って赤坂御所に住まわせていた。そして皇太子は週に1回だけ宮城(きゅうじょう:昭和23年まではこのように呼ばれていた)に上がっていた。このことを『御通り』と言い、ルートは赤坂の御所を出て食違見附から紀尾井坂を通り、現在の紀尾井ビル、文芸春秋の脇の坂を登り、真っ直ぐ現在の東京エフエムに出て半蔵門に入っていったという。これが午前10時と午後3時に行なわれ、警察や憲兵も出る大変な警備で、『御通り』が始まると自分の家の直前でも身動きすることが許されなかったと言う。大通りを使うと警備上問題があるということでこのルートを使用したとのことであるが、終戦まで行なわれていたらしい。 食違見附の赤坂見附側、井伊彦根藩の屋敷跡にはNo35号で紹介したホテルニューオオタニがあり、四ッ谷駅側の紀州徳川藩の屋敷があった跡には紀尾井ホールや上智大学がある。 紀尾井ホールは正式名称を「新日鐵紀尾井ビル」という。新日鐵紀尾井ビルは、新日本製鐵発足20周年記念事業の文化事業の一環として建てられたものである。 クラシック音楽専用に作られた800席の中ホールと、「邦楽」発表の場を主目的とした250席の邦楽専用の小ホールがある。2つのホールは上下に重なるようなユニークな構造となっており、多くのコンサートで使われている。 以前、新日鉄の関係者と仕事をした折に飲み会の席でこの「鐵」の字について話題になったことがある。「鉄」ではなく「金の王なる さらに紀尾井ホールの隣には料亭の「福田家」がある。前森総理大臣や小泉総理大臣がお気に入りで、政治家が使うということで知られるが、昭和20年代の常連客には、湯川秀樹、高村光太郎、川端康成、北大路魯山人等の著名人が名を連ねていたという。 福田家の前の食違見附と四ッ谷駅との間の向かう土手は桜の名所として知られるが、この桜は昭和39年に福田家さんが100本の桜を植えたものである。福田家ビルの向かいの土手に表面に「櫻並木百本 記念昭和39年3月 植樹 福田家福田」、裏面に「東京都」の銘のある碑がそれを語っている。 最 そしてもう一つ紀尾井ホールの前の街路灯に注意願いたい。ここにある数本の街路灯の中央辺りに「カブトムシ」や「てんとう虫」の飾りがついている。街路灯には暗くなると明かりがつくようにするセンサーがついているが、そのセンサーのカバー(覆い)である。この辺りでは麹町大通六丁目の「なかよし公園」、JR四ッ谷駅の市ヶ谷よりにある外堀公園の中に数本のカブトムシのカバーが付けられている。どういう経緯で付けられたかは分からなかったが、麹町近辺では街路灯のセンサーのカバーにも拘りがあるようである。 ===================================== 先月、久々に浅草〜上野近辺を歩きました。「江戸開府400年記念」のポスターや案内を随分と目にしましたよ。これから、行われる行事の一部を紹介します。
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2003年11月8日配信
HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町