========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)NO46============= 週末の天気が今一歩です。土曜〜日曜と連続して快晴の週末はありませんね。 天気の良い平日の昼休みに、麹町ウォークがちょうどいいのかもしれません。 国立劇場方面に向けて、歩くことがあります。麹町〜平河町〜隼町を通り、国立演芸場の横を抜けて国立劇場の正面に出ます。後は内堀通りに沿って半蔵門〜麹町へと戻ってくるコースです。国立演芸場の先の最高裁まで足を延ばすと、昼休みだけではちょっと辛いものがあります。 この麹町〜平河町〜隼町のコースで見つけた、H氏拘りのプレートです。 ====================================== 麹町大通から平河町に下る貝坂と呼ばれる坂の3本目の筋にある建物の壁に
高野長英について日本史の教科書には、「夢物語」を書いて幕府の攘夷政策(外国を打ち払う)を批判したため蛮社の獄で弾圧された人物であるとある。 高野長英は、1804年仙台藩水沢留守家(岩手県水沢市)の家臣後藤実慶の三男として生まれた。幼くして父を亡くし母親の実家にもどり、医者である叔父高野玄斎の養子となり、17歳で江戸に出て蘭方医学を学ぶのである。 後に長英は長崎でシーボルトに師事していたが、文政十一年(1828年)「シーボルト事件」(幕府天文方兼書物奉行高橋景保が、国外持ち出し禁止となっている地図類を密かにシーボルトに贈った)が発生し、難を逃れて1830年に平河町貝坂に塾を開いた。 これが「大機堂学塾」である。 長英はこの塾で講義とともに著述、翻訳、診療に精力的に活動し、 我が国最初の生理学書「医原枢要」、天保の大飢饉には「二物考」を著わし、 早ソバと馬鈴薯の栽培を奨励した。 蛮社の獄とは、1838年イギリス船モリソン号がやってくるという話をきいた渡辺崋山が『慎機論』を、高野長英が『夢物語』を書いて幕府の攘夷政策を批判し、その言動が幕府の文教を司る林家一門の鳥居耀蔵の恨みを買い(諸説ある)、その企てによって渡辺崋山と高野長英が投獄された事件である。 「夢物語」は読んでみるとなかなか面白い。夢の中の寄り合いで長英が海外の状況を細かく解説し今の国力で外国を打っても意味が無いと述べている。ただ、「私のような下々の者が決してお上の政策を批判するのでは無いですよ。」と繰り返し繰り返し述べているあたりが、かえって批判と解釈されるような気がする。 投獄されて6年目の1844年(弘化元年)江戸伝馬町にある獄舎(因みに吉田松陰は1859年安政6年10月27日ここで処刑された。)の火事により3日間の切り放し(期限内に集合場所に戻ることを条件に開放すること)になったのを利用して逃走した。
しかし、1850年(嘉永3年)長英は「沢三伯」と名前を変えて、江戸青山百人町に潜伏していたが、10月30日、 江戸青山百人町は原宿駅からまっすぐ伸びる表参道と246号線の交差する辺りで、現在の青山スパイラルホール(港区南青山5-6-23)の場所で、入口の横の柱には、「高野長英隠れ家および自決の地の碑」が埋め込まれている。 さらに青山交差点の角には信州善光寺別院があり、その境内に高野長英のレリーフの彫られた碑が建っている。(以前は勝海舟の撰文によるものだったらしいが戦災でなくなったと書かれている。) 話しは変わるが、信州善光寺別院がある246号線の向かいの路地を入ったところにフルーツタルトで有名な「キルフェボン(Quil
fait bon=「ウキウキするようななんていい天気なの」というような意味だそうです)」という美味しいケーキ屋さんがあるので紹介しておく。(追記・冬場限定の新潟県産のル・レクチェを使った600円の洋ナシのタルトが最高です。) ====================================== 平河町の「高野長英」から青山のケーキ屋まで行ってしまいました。 体力と時間に余裕があれば、246号線(ちなみに三宅坂が246の起点です)沿いに青山までウォーキングトライください。 高野長英記念館のHPです。 http://www.city.mizusawa.iwate.jp/syuzou01/ H氏のホームページは薔薇で一杯です。 http://homer.pro.tok2.com/index.htm メルマガのバックナンバー&解除の登録は次のアドレスへ http://www.mag2.com/m/0000073086.htm (大) |