戻る 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)

========麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)No.108==========

除夜の鐘の音が、雪で仄かに明るい夜空を通して聴こえてきます。パリパリに寒い北海道から、除夜の鐘を聴きながら、鐘の数と同じ第108号を配信します。

さて、行く年を惜しむように鳴る「除夜の鐘」は大晦日の夜12時、全国各地の寺で鐘をつく行事で、108回鐘は人間の持つ108の煩悩を意味していることは、ご存知のとおりです。人間の持つ欲や嫉妬などの執着心を一つ一つ取り除き、煩悩からの脱却を図ります。一説には一年の罪業を振り返らせ、反省を促すとも云われます。ともあれ、除夜の鐘を聴くことは、とても縁起の良いこと。そのすがすがしさは、心が洗われる心地がしますね。

東京麹町にも除夜の鐘が響きわたっていることでしょう。

 

さあ除夜の鐘を聴きながらの年越しです。そして新しい年へのスタートです!!

改めて、あけましておめでとうございます。本年が読者の皆様にとって、すばらしい歳になるよう心よりお祈り申し上げます。<麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)編集室一同>

 

今年は犬年。お犬様が闊歩していた江戸時代に拘り、H氏が江戸城跡である皇居散策レポートを書き上げてきてくれました。

========================================

皇居(江戸城跡)皇居の写真1 皇居周辺の写真2

二重橋

皇居というと二重橋とその前の玉砂利、そして黒松が約2000本も植えられた広大な芝生の皇居前広場が、東京観光のポイントである。はとバスのルートにも必ず入っており、二重橋前では多くの観光客が記念写真を撮っているのを見ることができる。この二重橋の写真は日本人であれば富士山と共に目にしている有名な場所なのではなかろうか。

丸の内側の芝生は一般に開放され、平日の昼休みなどは丸の内界隈のサラリーマンやOLがくつろぎ、休日には、内堀通りがサイクリングエリアとして解放されるため、家族連れなどで賑わう。晴れた日の皇居前広場で見上げる空の高さはここが東京であることを忘れさせてくれる。

江戸末期の切絵図を見ると皇居前広場の場所には幕府老中の堀田正睦(佐倉藩主)、内藤信親(越後村上藩主)、牧野忠雅(越後長岡藩主)など重臣の屋敷が並んでおり、幕府重役達の官舎のような場所である。

現在のような広場になったのは、明治39年の日露戦争凱旋大観兵式にあわせて整備されてからである。尚、祝田橋の「凱旋濠」もこのときに付けられた。

楠正成像二重橋と通りを隔てて反対側に「楠正成公」の馬上の像がある。この像はなかなか迫力のあるもので、黒松とその背景にある丸の内のオフィスビル群との対比がすばらしい。この楠正成像は皇居の方に顔を向けているが実はこちらは裏側で、皇居にお尻を向けられられないという配慮からこのようなデザインになったという。

皇居は一周すると約5キロ(北の丸公園に入る田安門から千鳥ヶ淵に出るコースでは6.3キロ)あり休日には市民ランナーたちのメッカともなっている。

この皇居一周コースは皇居前広場から大手門、平川門、竹橋、北桔橋門、代官町通り、千鳥ヶ淵、英国大使館前、半蔵門、最高裁、三宅坂を下り警視庁前、桜田門のコースである。このコースに「都道府県の花」のプレートが埋め込まれてあることは回りの見所と共に紹介した(98号)。

皇居一帯は歴史と共に四季を通じて楽しめる場所で、春の千鳥ヶ淵に咲く桜の美しさは都内でも一二であろう。また、半蔵門や三宅坂あたりから見る桜田門方面の景観は麹町ウぉーカー一押しの景観である。そして晩秋の北の丸公園散策も風情があっていい。

 

その皇居外苑の中でも、四季を通じて一番楽しめる場所は皇居東御苑であろう。辰巳櫓(桜田二重櫓)

皇居東御苑は、旧江戸城の本丸と二の丸を中心とした地域で、面積は約21万平米ある。明治の初期には東京鎮台工兵作業場等に使われていたが、後に宮内庁の書陵部と楽部の庁舎、馬場、内親王の呉竹寮などに使われていた。その後昭和35年1月29日の閣議決定により皇居附属庭園として整備され、宮中行事に支障のない限り原則として公開されることになった。昭和38年には国の特別史跡に指定され、昭和43年から開苑した。

大手町のパレスホテルの前にある大手門は江戸城の正門であり徳川御三家を除いて諸国の大名はここで下馬してここに架かる木の橋を渡って登城した(現在は土の橋である)。大手門はいわゆる枡形門になっており高麗門をくぐり枡形を右折して渡鑓門をくぐると、そこに宮内庁の受付があり白いプレートをもらって入る。すぐに三の丸尚蔵館がある。ここは天皇陛下と香淳皇后が代々受け継いできた絵画、工芸品が収蔵され、一般公開されている。その前には十月桜らが秋から冬になると花を咲かせる。そしてその隣の林の中に休百人番所息所がある。

次にお城らしい大きな石垣を入っていくと検問を行なう「同心番所」がある。この番所の屋根には「葵の紋」と共に「巴の紋」、「菊の紋」の瓦がある。

そして南北50メートルほどの細長い建物は「百人番所」で江戸城に入る最大の検問所である。鉄砲100人組と呼ばれた根来(ねごろ)組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の四組が与力20名、同心100名で昼夜をとわず交代で詰めていた。

そして百人番所の前から右に登ると白鳥濠、二の丸雑木林、そして百人番所の左奥の大きな切込みの石垣を入ると江戸城本丸への入り口となる。

現在は石垣だけになっているが江戸時代は石垣の上には櫓が作られており、ここが中の門跡である。中の門跡を入るとすぐに「大番所」があり、その前を登っていくと中雀門(ちゅうじゃくもん)跡と呼ばれる本丸の入り口の門がある。

ここの石垣には焼けた跡があり文久3年(1863年)に本丸が焼けたときの跡といわれている。中雀門を入り直進すると本丸のあった「本丸大芝生」、右に折れると白鳥濠の上の展望台に向かう。散策ルートとしては直進するより左の折れるルートがお勧めである。木々や草花の咲き乱れる小道を進むと「富士見櫓」がある。この櫓は江戸城本丸で唯一現存する櫓である。富士見櫓前の小道を道なりに進むとすぐに忠臣蔵で知られる「松の大廊下跡」の小さな石標が立っている。この辺りは木がとても高く夏でもひんやりとした木陰をなしており、秋から冬にかけてはツワブキの黄色い花が一面に咲き乱れている。そのまま少し進むとお茶が植えられた場所があり、その右手には広大な本丸大芝生が広がる。

四番町資料館で展示された国会図書館い所蔵されている天守閣の絵図

お茶畑の左手にある林の中の小道を登っていくと「御休息所前多聞」と書かれた石標がある。多聞の前の小道を下っていくと、江戸城の御金蔵という説や抜け穴という説がある「石室」が目に入る。そのまま進むといろんな種類の竹が植えられた竹林があり、すぐ白い花崗岩の天守台跡に出る。天主台の前には「金名水」と呼ばれる井戸がある。

徳川家康公の慶長11年(1606年)に建築した五層の天守閣は、現在の天守台から少し富士見多聞よりの場所にあり、白漆喰総塗で国会議事堂とほぼ同じ高さだったという。しかしその天守閣は第2代将軍秀忠公の元和8年(1622年)に本丸改造の祭して撤去し、現在の天守台の場所に黒漆喰総塗で建設された。そして、3代将軍家光公の寛永15年(1638年)に金の鯱を載せた51メートルの五層の天守に立て替えられたが、1657年の明暦の大火(振袖火事)で消失してしまった。そして4代将軍家綱公の代に再建が検討されたが、家光公の異母兄弟で幕府の重臣保科正之公(会津藩松平家の始祖)が「天守閣は戦国の世の象徴で、もはや時代遅れ、物見だけしか用をなさず、むしろそれより城下の復興を優先させるべき・・」と進言し、それ以降江戸城に天守閣が建設されることはなかった。

天守台跡に登ると木々の多い吹上方面の展望は利かないが、北に北の丸公園にある武道館の屋根が見える。視界を時計方向に回すと皇居の木々の向こうに竹橋から大手町、そして丸の内のビルが青空に聳えて見える。

天守台の北側にある林の中には、皇室に伝わる書物の保管と共に皇統譜や陵墓の管理をしている書陵部の建物と桃華楽堂(とうがくどう)がある。桃華楽堂は昭和41年に香淳皇后の還暦を祝して建築された音楽堂で、屋根は花を模してあり八角形の壁には星や太陽、四季等を描いたモザイクのタイルがはめ込まれている。

天守台の裏側は北桔橋門に出て、北の丸公園に至る。北桔橋門はつり橋で現在でも門の上に金具の名残が見える。北桔橋門の堀の石垣には江戸城を普請した諸大名の「紋」が彫られたものがたくさん見ることができる。

なにより天守台から南西方向に見る本丸大芝生の展望は壮観である。芝生は天守側の丸い芝生と、途中で切れてその先の大きな芝生に分かれている。天守台の周りと手前の少し小さめの芝生の辺りがいわゆる「大奥」であり、富士見多聞下のバラ園の辺りから展望台を結ぶ辺りが将軍の日常生活の場である「中奥」である。大芝生の南の殆どが江戸幕府の政治が行われた「表」のあった場所である。

江戸時代も初期は奥と表の関係もそれ程厳格ではなかったようであるが、3代将軍の頃から厳しく分かれるようになったようである。テレビや映画で大奥に唯一入ることのできる将軍は着飾った女性がひれ伏す御鈴廊下(おすずろうか)で女性の品定(?)をする場面があるが、その廊下のあった場所は富士見多門下にある「バラ園」の並びで、石室の前辺りのようである。因みに側室は原則として御中臈の中から選ばれ、将軍の指名でお褥(しとね)御用の命令が下るのだという。

大奥は将軍家の血筋と正当性を守るために正室である御台所(みだいどころ)とそれに従う年寄や上臈、中臈など約3000名の女性達が「お世継ぎ」を産むための女の戦いを繰り広げたのである。

大芝生の中央辺りに「午砲台跡」と彫られた石が置かれている。本丸は気象庁発祥の地であり、明治4年(1871年)9月から昭和4年4月1日に廃止されるまで毎日正午に天文台からの合図で近衛兵が正午の正しい時刻を大砲で撃った。これが午砲(ドン)と呼ばれて親しまれていたという。

本丸大芝生の汐見坂方面に抜ける場所に「大奥」の案内板がある。汐見坂を下ると二の丸雑木林の中央辺りに出る。雑木林は昭和天皇の発意により作られたもので、木々に名前の札がつけられている。

桃華楽堂の北側にある書陵部の裏から下る坂は梅林坂で梅の名所であり太田道灌の頃から梅の名所だったといわれ、梅林坂で坂の下を左に進むと平川門に至る。平川門は大奥から唯一の出口でその脇に小さな門があり、城内で犯罪を犯したり、死人が出た場合に使われた不浄門であった。ここを生きて出たのは赤穂藩主浅野内匠頭と山村座の役者生島と密会を繰り返した絵島生島事件の大奥年寄絵島だけとも言われている。

梅林坂を右に折れると二の丸跡に入り、その途中に東御苑が開園するときに全国の都道府県から献上された「都道府県の木」を見ることができる。そして左手に「諏訪の茶屋」を見ながら進むと二の丸庭園にでる。5月から6月になるとハナショウブが咲き乱れる素晴らしい場所である。

そして雑木林の小道を歩いて白鳥濠沿いに出ると皇居正門石橋の旧電飾燈があり、そのまま下ると百人番所にでる。

 

次に武道館や科学技術館、国立公文書館、国立近代美術館等のある北の丸公園は、江戸時代徳川御三卿の田安家、清水家等の屋敷があった。戦前は近衛連隊が置かれており、その跡地を森林公園として整備し、昭和44年4月に公開されたものである。科学技術館の脇の清水門に下りる道の脇には、吉田茂の銅像が建っている。

八角形の屋根が北の丸の林の間に突出している武道館は、昭和39年の東京オリンピックの柔道会場として建てらた。現在では、数多くのミュージシャンにとって最高のステージとしてシンボリックな場所になっており、多くのコンサートが開催されている。

武道館の前にある駐車場の土手の上から見る千鳥ヶ淵の桜は見事である。

千鳥ヶ淵のそばには東京国立美術館工芸館があり、その脇の林の中に北白川宮能久親王(陸軍軍人として第6、第4、近衛師団の師団長を歴任し、日清戦争の明治28年4月に近衛師団を率いて台湾に出征し、マラリアのため薨去)の馬上の銅像がある。この煉瓦造りの美しい建物は戦前、陸軍近衛師団の司令部で終戦の聖断が下った昭和20年8月14日に終戦の玉音放送録音盤奪取を目的として一部将校が決起した「宮城事件」が発生した場所である。

「宮城事件」:(昭和20年8月14日夜、陸軍省軍務局の畑中少佐、椎崎中佐他が終戦を阻止するため、近衛師団長森越中将を殺害して偽の命令により近衛師団を出動させた事件。翌15日未明、皇居を占拠するとともに、詔書の録音レコードを奪おうとするが録音レコードを発見できず、東部軍司令官田中静壱大将が自ら皇居に乗り込みこれを鎮圧した。そして終戦の玉音放送がなされる直前の11時20分、椎崎中佐と畑中少佐は二重橋と坂下門の中間の松林で自決した。)

 

この東京国立美術館工芸館の前に首都高速代官町ICがあり、北の丸公園から番町に抜ける通りは代官町通りと呼ばれているものの、この界隈に代官町という地名はない。この疑問は江戸時代の切絵図を見ると解決する。

切絵図に、番町から皇居方面に入る千鳥ヶ淵に土橋は見当たらない。この土橋は明治になって作られたもので、切絵図には千鳥ヶ淵公園の正面にある皇居の土手の上に代官町という地名ある。この代官町通りはその名残のようである。実は江戸時代の初期、明暦の大火の前には北の丸公園の辺りに代官が住んでいた場所であったという。

最後に皇居の呼び名について紹介する。明治維新によって江戸幕府が倒れ、明治元(1868)年10月13日、明治天皇は京都から江戸城に入り、「東京城」と改めた。ところが、翌明治2年には「皇城」と改称され、さらに明治21年から昭和23年まで「宮城」と呼ばれ、それ以降現在の「皇居」と呼ばれるようになった。

========================================

年始はいかがお過ごしですか?皇居へ新年一般参賀も一案ですね。

宮内庁のHPを紹介します。1月2日に執り行われる新年一般参賀の要領も出ていますよ。

http://www.kunaicho.go.jp/

 

H氏のHPでは、画像も同時にアップされています。

http://homer.pro.tok2.com/

 

メルマガの登録解除・バックナンバーはこちらへ

http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大)

平成18年1月1日配信


HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町