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海岸寺の由来
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海岸寺の由来 今より約1,260年前(元正天皇の養老元年=西暦717年)行基菩薩が庵を構えられたのが海岸寺のはじまりといわれる。行基菩薩は、土木工事や農業の 技術を伝えるとともに、千手観音菩薩の像を彫り海岸寺に祀った。 天平9年(737年)には、聖武天皇より「光明殿」の勅額を賜った。 また、寛治年間(1087〜1094年)新羅三郎義光が甲斐の国主としてこの国を支配するに当たり、京より玄観律師を海岸寺に迎えて聞法の師として仰ぎ、深く帰依して鎮守国家の大道場とした。義光の子義清も父の志をついで多くの寺領を奉納し供華を怠らなかった。 600年ほど前の応安年間(1,368〜1,375年)大義詮和尚の時に鎌倉・建長寺より石室善玖和尚(勅賜直指見性禅師=本朝高僧伝巻三十二詳記)を招いて、律宗を臨済宗に改め、海岸寺の開祖とした。 天承10年(1582年)織田が甲斐に侵攻の際寺の堂塔ことごとく焼き払われたが、同11年には、徳川家康が寺領を寄進し再興を命じた。慶長8年(1603年)には、さらに寺領を寄進し法令四条を下して天下安寧の祈願所と定められた。万治4年(1661年)山火事により堂宇全焼。 寛文6年(1666年)中興の祖、即應宗智和尚が海岸寺山主として堂宇を再建し現在に至っている。 |