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=====麹町ウォーカーNO7========

朝早く目が覚めませんか?

歳のせいなのか、血圧が高いせいなのか。

いずれにしろ、それなりの年齢になってしまったという寂しさを感じてしまうのは、私たちだけでしょうか?

番町の某TV局は、朝5時半から妙にテンションの高いニュース番組(?)やっています。

TVニュースを観ながら、熱い日本茶(私は今玄米茶です)を啜る。

中年サラリーマン、今日一日の始まりの儀式です。

若い頃は、「夜明けのコーヒー」に憧れていましたけどね・・・・・・・・・。

で、今回は私が啜っている日本茶じゃなくて、H氏が近くで見つけた茶の道「裏千家の井戸」に関する興味シンシンの情報です。

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茶道と麹町

私のいるミレニアムガーデン(麹町4〜5丁目)の敷地はかって裏千家今日庵東京本部のあった場所であり、ひとつ筋を隔てたベルギー大使館の正面玄関の前には表千家東京事務所『不審庵』がある。ベルギー大使館とオリコ本社(ミレニアムガーデン)との間にある大きな銀杏の木と裏千家の茶室にあった井戸をイメージして作られた井戸の跡

ミレニアムガーデンの裏の人工的なせせらぎの庭に植わっている大きなイチョウの木のそばに、裏千家『今日庵』東京本部の庭にあった井戸が再現されている。

ただ、一見して井戸とは見えず人工的な庭園のモニュメントのひとつでしかない。

 

前回、滝廉太郎と荒城の月を紹介した時に会津若松市鶴ヶ城(若松城)との関係を紹介した。実はこの裏千家等の、茶の湯の道と前回紹介した会津鶴ヶ城とは大きな因縁で結ばれている。

鶴ヶ城の「荒城の月」の碑の前に「麟閣(リンカク)」という庵が残されているが、この鱗閣こそは現在の茶道の祖である千利休の息子「少庵」が残したものである。

千利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れたため切腹させられた後、息子の「少庵」(実は後妻の連れ子になる)は会津若松城主の元で匿われる。

会津若松城主「蒲生氏郷」は、利休の弟子で「千家十哲」に数えられた茶人でもある。その「蒲生氏郷」の求めに応じ、少庵は亡き千利休好みの草庵風の茶室「麟閣(リンカク)」を造るのである。

彼が会津にいたのは二年ほどであるが、「蒲生氏郷」の秀吉への働きかけにより、

「少庵」は京に戻ることを許され、茶道の千家を再興。その後少庵の孫達によって、表、裏、武者小路の三家が興り、現在の茶道の礎ができたのである。

少庵のあと千家3代目を継いだ「千宗旦」は、末子の「宗室」が20歳になる頃、『不審庵』を三男の「宗左」に任せ、自分は末子の「宗室」と共に別の茶室(今日庵)を作り移り住んだ(『不審庵』の裏に『今日庵』があったところから裏千家と呼ばれるようになったという)。

二番町ベルギー大使館前の表千家東京事務所不審庵

それが後に「宗室」に譲られ、表千家『不審庵』と、裏千家『今日庵』、千宗旦の次男「宗守」が建てた分家『官休庵』(武者小路千家)の三千家が生まれたのである。

千利休の息子「少庵」の会津での二年間がなければそれはなかったのかもしれない。この麟閣は歴代の会津藩主にも大切な茶室として伝えられ、明治7年に鶴ヶ城が取り壊される時に、会津石州流の家元森川家に払い下げられたものが、平成二年旧跡地に移築されたものである。

 

最後に千利休の残した「利休七則」を紹介しよう。

「茶は服のよきように点て 炭は湯の沸くように置き 冬は暖かに夏は涼しく 花は野の花のように生け 刻限は早めに 降らずとも雨の用意 相客に心せよ」 

茶の湯の根本はこのように自然体のままに季節感を大切にし「もてなし」と「しつらえ」を大切にすることらしい。 

競争の激しい現代人こそ大切にしたい心構えなのかもしれない。

人工的に造られたミレニアムガーデンのせせらぎの傍にある井戸跡が日本人の心である「茶の湯」の歴史を垣間見る縁(よすが)になればと願っている。

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いつも昼食は、会社の地下食堂で済ませていましたが、たまには外で・・・・・・。

近くの某大学の学食へこっそり入ってみました。

メニューに「札幌ラーメン」と「荻窪ラーメン」があって、何が違うのかなと聞いてみたら単純に味噌味と醤油味の違いだけでした。

だったら今度は、とんこつ味で「麹町ラーメン」はいかかでしょうか?

学食は、味は別としてやっぱり安いですよ。


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