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========麹町ウぉ−カ−(麹町遊歩人)NO42=========

NO42号の編集を、小雪の舞う北海道で取り組んでおります。

前号で奥多摩の梅開花直前・スギ花粉満開をお伝えしましたが、北国北海道では梅の「う」の字も見当たりません。今頃桜前線はという言葉はこの地では別世界の話題です。

とは言え、テレビでは桜最前線北上のニュースで一杯です。

麹町界隈にも、もうすぐ桜満開の時期がやってきますね。

「千鳥が淵」「外堀公園」ちょっと足を延ばして「靖国神社」と麹町周辺には、昼休みを利用して訪れることができる桜の名所が随分とあります。

桜満開と聞くと、花見でぱ〜っと一杯、宴会を連想してしまいます。

でも麹町ウぉ−カ−(麹町遊歩人)的にちょっと拘って観桜すると・・・いろんな歴史が観えてきます。H氏の千鳥が淵観桜記です。

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アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)という名前を聞いたことがあるだろうか。サトウ公使植桜の地

英国大使館の正門右前にある桜並木のプレートに、千鳥が淵公園前の桜並木を東京市に寄贈した英国の外交官であると書かれている。

1898年に、当時の駐日公使サー・アーネスト・サトウによって桜の木が公館に植えられた。英国大使館(当時は公使館)前の千鳥が淵が東京の桜の名所になったのは、この彼が植えた桜の木の功績によるところが大であると言われている。しかし、彼が寄贈した桜の木は戦災により枯れてしまい、戦後植えられたものであるという。

このアーネスト・サトウという外交官は我国に多大な影響を与えた人物なのであるが、千鳥が淵の桜並木の寄贈者という以外は、あまり知られていない。

幕末から明治時代の小説や歴史書を読むとイギリス駐日公使パークスの名前とともに通訳の彼の名前がよく出てくる。

アーネスト・サトウという名前を聞くとサトウ=佐藤?・・日本人と関係があるのかと思われるかも知れないが、ドイツ系の金融業者を父親に持つイギリス人である。

アーネスト・サトウは1843年ロンドンに生まれた。

1862年、生麦事件が起こる直前に横浜に到着した。

その1週間後、薩摩藩の島津久光公の大名行列を馬に乗って横切った英国人を薩摩藩士が切り殺すという生麦事件が発生する。

これが原因で一年後に起きた薩英戦争でサトウは通訳として活躍した。英国大使館前の桜並木

その後、長州藩が攘夷のために外国船に砲撃をしかけ、報復のため4国連合艦隊が下関を占拠したときの交渉の時などにも活躍している。

生麦事件後の3年ほどの間に集中的に日本語の勉強し1865年日本語通訳官に昇進する。その間日本中を旅行し様々な人たちと会っている。

1872年に内縁の妻・武田兼と所帯を持ち、後に長男栄太郎、次男久吉に恵まれる(*武田久吉氏は尾瀬を初めて紹介した人物である。麹町ウぉーカー53)。

ちょうどこの頃、半蔵門近くの陸奥盛岡新田藩上屋敷、大和櫛羅藩上屋敷、上野七日市藩上屋敷、旗本水野兵部屋敷の場所に、英国公使館が建設(1875年、明治8年)されたのである。

1876年にサトウは、通訳畑の最高職である日本語書記官に昇格する。

1884年シャム総領事となって離日するが、1895年イギリス特命全権公使として再来日しナイト(サー)の称号を授与された。

1900年駐清公使として中国に赴任し、1906年中国での外交官としての45年間の生活を終え英国に帰国しイングランド南西部デヴォン州に隠居する。そして1929年8月26日、50年程もサトウに仕えた日本人の執事の本間三郎氏に看取られて86歳でその生涯を閉じた。(本間氏は日本に帰国しホテルに勤務していたという話を聞いたので調査の上アップする。2007.12.22)

来日した初期の頃は、外交の通訳という場を通じての伊藤博文、井上馨、勝海舟、木戸孝允、西郷隆盛等多くの歴史を作った人物とも交流した。大政奉還の直前の将軍徳川慶喜公とも大阪城で2回謁見している。

10代で日本にやってきたサトウは45年の外交官人生の半分以上を日本で過ごした。

そして彼の外交官としてのその最大の武器は流暢な日本語であった。

当時の通訳はオランダ語を通しての二重通訳が主流だったが、積極的な日本人との交流と貪欲な日本の歴史風俗などの研究を通じて彼の武器である日本語の上達とともに日本通になっていた。そして、ジャパノロジスト(日本学者)として日本アジア協会の設立に尽力し神道の研究も行っている。

「異なる文化、価値観との利益の調整、理解」が彼の本業の外交であるとすれば、サトウが行ったその相手方である日本の研究は本業の外交の為に有益な方法であったといえるだろう。

明治時代に日本を訪れた旅行家が日本人に、歴史や文化などについて質問をすると、「サトウ氏にお尋ねになるがよいでしょう。あの方なら、私たち以上にあなたに教えてくれますよ。」と言われるほどであった。

日本人をしてこのように語らせる、彼の日本研究は多岐にわたり旺盛な好奇心とその業績には感心させられる。

これは、転勤を宿命とする我々サラリーマンの赴任地での仕事と地域の係わり合いのあり方として教えられるところが多い。それにつけてもアーネスト(Ernest)・サトウ のファーストネームの「e」と「r」との間に「a」を入れる「Earnest」=「熱心な・誠実な」という意味になる。どこの地に行っても熱心にその地域の歴史と文化を理解し、且つ誠実に付き合う事が仕事をする上での一番の秘訣であると暗示しているような気がする。

(追記)2003年12月6日
この日、TBSテレビの人気番組「世界・ふしぎ発見!」という人気番組で「ラスト・サムライ・・幕末を生きた英国人」という内容でアーネストサトウの目を通じてみた見た幕末・明治の日本が紹介されていた。彼の最初の仕事は生麦事件の後起こった薩英戦争の通訳であり、以後の倒幕の基本的な考え方となった天皇を中心とする政治体制を主張した論文「英国策論」(これは新聞に紹介されたものを日本人が翻訳したものである。)などが紹介されていた。そして彼の見たラスト・サムライは・・「西郷隆盛」であった。彼は個人的にも西郷に惹かれていたという。西郷が西南戦争に出陣する前に鹿児島で会った最後の人物がこのアーネスト・サトウであったという。武士の時代の最後の人物が西郷だったのかもしれない・・・と締めくくられた。
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今月末に向けて麹町の桜は満開を迎えます

満開の桜の下で、「アーネスト・サトウ」が思い浮かべば、貴方はもう「麹町ウぉ−カ−(麹町遊歩人)」です。好奇心と拘りが「麹町ウぉ−カ−(麹町遊歩人)」の原点なのです。そしてH氏がアーネスト・サトウに拘る所以でもあると思います。

アーネスト・サトウに関するHPを探したのですが、総合的なものが見つかりません。

適当なサイトがあればお知らせください。

アーネスト・サトウは日本研究家の第一人者と知られていますが、日本中を旅行しながら多くの日本の山にも登っていたようです。山歩き好きの編集担当者としては見逃せない情報です。週間続日本百名山第5号(2002年2月発刊)からの抜粋記事です。

 アーネスト・サトウ(1843〜1929)は幕末から明治にかけて、長く日本と関わりのあったイギリスの外交官である。日本研究の第一人者としても知られるようになるが、自著の『一外交官の見た明治維新』上下巻(坂田精一訳/岩波文庫)のほかには、2001年秋に完結した『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄1〜14』(萩原延壽著/朝日新聞社)が、そうしたサトウの軌跡を大変興味深く語っている。だが、サトウが広く日本国内を旅し、そして多くの山に登っていることは、あまり知られていないのではないか。その『日本旅行日記』全2冊(庄田元男訳/東洋文庫・平凡社)のページを繰っていけば、山好きの私たちをおおいに喜ばせてくれるのである。加えて、訪れるその土地土地の歴史、地理、風俗などにも彼の細かい観察の筆はおよび、読者はサトウに案内されて、1870、80年代の純朴な日本各地を旅している気分にもなってこよう。サトウの、こうした旅の目的は『中央部・北部日本旅行案内』の作成にあったという。外国人の日本国内旅行が自由になるにしたがい、そのためのガイドブックが求められるようになったからである。これも現在では庄田元男氏の訳により『明治日本旅行案内(全3冊、1996年)』の書名で平凡社から出版されている。ここで同書の一節「白根山と周辺の山々」中の該当ページを読んでみれば、「農鳥岳の頂上から間ノ岳の頂上(九八五○フィート)までは二時間以上はかからない。山頂は全くの禿山だが、すこし下部の奥まったところには一群の高山植物が華やかに咲いている」と書くのに続けて、富士山や八ケ岳、金峰山、遠くには北アルプスの乗鞍岳、槍ケ岳までが見えたと、いかに展望のよいプロムナードであったかを述べている。(文 横山厚夫)

H氏のHPも北は会津(一部北海道もあり)南は鹿児島まで、内容豊富です。

H氏ワールドをご堪能ください。

http://homer.pro.tok2.com/index.htm

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http://www.mag2.com/m/0000073086.htm

(大)


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