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甲府勤番風流日誌

11代甲府勤番

甲府勤番風流日誌」

山梨県といえば富士山と武田信玄、そしてブドウと思い描く方が多いと思う。しかし、ここ甲斐の国も好奇心旺盛なものにとっては興味の尽きない場所である。

江戸時代この甲斐の国が江戸幕府の直轄領(天領)になる最後の領主が柳沢吉保親子である。その柳沢吉保の家臣で有名な学者荻生徂徠がここを訪ねてそのときの様子を「峡中紀行」「風流使者記」として残した。

さらに甲州が幕府の天領になった後は甲府城に「甲府勤番」を置いて支配してきた。要するに幕府の転勤族である。この私も転勤族の一人であり言葉を代えれば甲府勤番には違いないのである。そこでこれをあわせて「甲府勤番風流日誌」として、縁あって住むことになった土地を誰より拘り、愛するという観点から現在の甲斐の国を訪ね歩いてみた。

富士山(3776)

山梨について書き始めるのにはこの富士山をおいて他にないであろう。ただ、この富士山について何から語り初めたらいいであろうか。日本人の誰もが知っており、誰もが憧れ、日本人の心の中にあり日本的価値観のあるべき姿として存在するものである。

人々が郷土のシンボルとなる山に富士山とつけては崇める。日本の中心にこれほど卓越した形で美しく、完璧なまでに左右対称な欠点の無い山が存在すること自体驚きである。私は「日本的」ということはある意味で「懐の深いあいまいさ」にあると思っている。ところがこの山には一点の曖昧さもない。それゆえ人が常に憧れ続ける完璧さの象徴としてこの山に憧れ崇めるのではないかと思っている。日本人の精神文化はこの富士山がなかったなら別のものになっていたのかもしれない。

歴史上多くの人がこの山にこだわりをもち向かい合ってはその存在と懐の深さに返り討ちになってきた。深田久弥氏はその著書「日本百名山」の中で富士山を「偉大なる通俗」と評している。「あまりに曲がりがないので、あの俗物め!と小天才たちは口惜しがる。結局はその偉大な通俗に甲を脱がざるを得ないのである。小細工を労しない大きな単純である。それは万人向きである。何人をも拒否しない。また何人もその真諦(シンタイ)をつかみあぐんでいる。」とある。私も今、この富士山に飲み込まれ始めている。

静岡県の沼津市や富士市から見る富士山はさえぎるものがまったく無い。私はここから富士山を見上げると少し照れてしまう。完璧なまでに美しい大和撫子 (決してギリシャ神話に出てくる豊満なビーナスやアフロディーテではない)が薄衣一つまとうことなく裸体を晒しているようでならないのである。そういえば、「美の黄金比率」を持つといわれる「ミロのビーナス」も下半身に衣をまとっているがゆえに裸体が誰もが崇め得る崇高な美の極致となっていると思うのであるがいかがなものであろうか。

ただ西伊豆から見る富士山は手前に海岸線があり少し隠されるところがあり海越しに見える富士山は美しく、銭湯の壁に描かれるもっとも有名な構図といえよう。

山梨県側からは、富士吉田市の三つ峠から見る富士山が美しさにおいて比するものは無いであろう。私たちは日頃、山は仰ぎ見るものであり、特に富士山はいろんな意味において仰ぎ見る存在である。ところがここから見る富士山は見下ろすという感覚である。人は高みから見下ろすときに一種独特の感激を持ってみる。日本一の富士が自分の眼下にある。完璧なまでのシンメトリーに言葉を失う。

あえてここまで登ることはない。甲府の盆地から河口湖に向かう御坂峠を越えトンネルを抜け最初のカーブを右折したところに現れる富士山はこれに代わるものであろう。

何度この峠を越えてもこのカーブを曲がるときには「今日の富士はどのような美しい姿を見せてくれるか」胸がどきどきする。

私はこの富士山の美しさは甲府市の北西にある明野町のすそ野から見るのがころあいとして美しいと思う。このあたりは標高が7〜800メートルほどあり富士山から幾分遠いこともあり富士山が目線の高さに見える。さらに甲府の盆地と富士山麓を隔てている御坂山系の山並みが日本を東西に分けるフォッサマグナ(中央構造線)上にある富士川に落ち込むため、富士山が右のすそ野から東側に向けて薄衣をまとっているように見える。ここからは適当な距離と高さから富士山がその大きさゆえに威圧感のある存在としてではなく目の前に微笑んだ優しい山として我々を見つめてくれる。その大きさが決して大きすぎもせず又小さすぎもしない。絶妙のバランスであろう。

ただ、拘りをもって富士山を見つづけると、これもあくまで富士山を見るポイントの一つに過ぎないことを悟らされる。南巨摩郡増穂の山麓から見る富士山は高い塀越しに巨人が覗き見ているようでくっきり輝く雪をいただいた山頂が美しく、大菩薩稜にある柳沢峠からみる富士山は雲海に浮かぶ遥かな富士である。

富士山のすそ野から見る四季折々のそれは幾多の写真集であるような言葉であらわせない、日本人好みの美しさを見せてくれる。したがって、富士山を前にしてどこから見るのが一番美しいかという論議は不遜であると気づかされる。富士をめでるのはそれが見えるすべてのポイントが最高の場所ということは認めざるを得ない。

やはり、最初に戻るが富士山は存在するがゆえに日本人の美の極致であり、日本人の価値観の根本にあることを自覚させられる。

山梨の山 

わが国における天文文学の祖とも言うべき野尻抱影が明治40年、甲府尋常中学校の英語教師として5年間教鞭をとっている。

その間彼は南アルプスの変化を観察したという。彼の記録の中に「甲斐にあらば請う、山岳を誇れ 山岳を誇らば請う、甲斐が根を誇れ、甲斐が根を措いて何処に甲斐の威厳あろうや。」と書いている。私はこれを甲府市にある県立文学館で初めて読んだとき「まさにその通り、蓋(ケダ)し当然である。」とうなずいてしまった。

甲府盆地の中央部からは日本一高い山と2番目に高い山を同時に見ることができる。南アルプス白根三山の北岳(3192)がそれである。その前にそびえる鳳凰三山の南側の少し低くなった夜叉神峠の後ろに控えめに頭を覗かせている。その南隣には間ノ岳(アイノダケ3189)、農鳥岳(3026)続く。その前にそびえる南から薬師岳(2780)、観音岳(2840)、地蔵岳の鳳凰山(ホウオウザン)。なかでも一番北の少し低い地蔵岳のオベリスク(岩が飛び出して立っている)が目をひく。少し目を北に向けると鋭く三角錐の威容を誇る甲斐駒ケ岳(2966)、それからなだらかなすそ野をいただいて突然そびえたつ八が岳 (2899)赤岳、さらに目を北に向けると一見すると八ヶ岳に見間違えそうな茅が岳(1704「にせ八」ともいう)がある。茅が岳は日本百名山を書いた深田久弥氏が亡くなった山である。

これだけの山を一望できる贅沢な場所は日本中捜しても他にないであろう。山梨県が「山の都」を標榜することがうなずける。

山梨に来て初めて登った夜叉人峠から見た南アルプス、そして感激した瑞牆山(ミズガキヤマ)など山梨の山の魅力について書き始めるとあまりに紙幅が足りない。甲斐という言葉自体が山国を意味する。四季を完全な形で直近に映し出す周りの山々の魅力については別の機会に書くことにする。ただ、山梨にあって甲斐駒ケ岳は富士山に次いでこだわるべき存在であることはここに予告しておく。

ブドウ発祥の地、勝沼町「大善寺」

この寺は甲州葡萄発祥の地とされている。養老2年(718年)僧行基がこの寺を開創し、その薬園で薬として中国から伝えられたものを栽培したと伝えられたという。

甲府盆地の東にあり盆地から笹子の山にまさに入らんとするところにある。この本堂は県内では最も古い建物で中に国宝の薬師如来が収められているところから薬師堂とも言われる。

このお寺は私にとって特別な場所であった。昭和42年のことであったと思う。私が小学校6年生のとき、テレビで武田信玄の映画を見た。その中で信玄が大きなブドウを食べていた。鹿児島県薩摩半島の突端にある坊津町という小さな漁村で育った私には大きなブドウは舶来のものという意識があった。翌日、先生に「信玄がブドウを食べていたけど、あの時代にあんなブドウがあったのですか?」と質問したのである。

若い先生だったがすぐに調べてくれた。大学時代の同級生に甲府出身の人がいたらしく1週間後に大善寺の事を教えてくれた。

これが私と山梨県との係わり合いの原点であり、32年後の平成11年9月甲府支店転勤の内示を受けたときこの出来事が一番に頭に浮かんだ。そして赴任して最初に訪れた場所がこのお寺であることはいうまでもない。

ブドウに関する異説として文治2年(1186年)雨宮勘解由が山で見つけたブドウを家に持ち帰り庭に植えたのが始まりという説もある。これは事実に近いもので前者は日本中にあるスーパーマン行基和尚の伝説なのかも知れない。ちなみに私の前任地会津若松市の東山温泉も行基の発見であるとされている。

ブドウは江戸時代の中期「甲州みやげに何もろた郡内しま絹ほしぶどう」と歌われるほど名物として知られている。松尾芭蕉も「勝沼や馬子もぶどうを食べにけり」と詠んでいる。

主に中央高速勝沼インターの岩崎地区(現在ワインバレーと呼ばれている)が主な産地で、甲州街道の勝沼の宿を訪れる人たちが全国に広めていったのであろう。このエッセイのタイトルの縁由となった柳沢吉保の家臣荻生徂徠が甲州を訪れた時の「峡中紀行」のなかにも勝沼のぶどう棚と賑わいが書かれている。

私と山梨のワイン

私は山梨転勤にあたり単身赴任となった。社宅に入り一人で生活をはじめると、どうしても冷蔵庫の中はビールとつまみで満たされそうであるが、この1年ビールを3本しか入れたことがない。山梨に住む以上、ワインを極めるべきではないかと考え、この冷蔵庫に酒はワインしか入れないことに決めた。

因みに私のこの時点でのワインの知識といえば「ボジョレ・ヌーボーBEAUJOLAIS NOUVEAU)」で何故か日本中が大騒ぎすること(甲府に来るまでヌーボーNOUVEAUが「新酒」を意味することを知らなかった。)、「赤ワインは肉料理、白ワインは魚料理」といわれていること、ソムリエは田崎真也氏、値段が高くないと美味しくないのか? 生まれが災いして焼酎それも私の地酒である「薩摩白波」が一番うまい酒だと思っているこのようなレベルであった。

山梨の現在のワイン作りは、明治10年勝沼に設立された大日本山梨葡萄酒株式会社が土屋龍憲(リュウケン)、高野正誠両氏をブドウ栽培とワインの醸造技術を習得するためにフランスに派遣したことに始まる。

勝沼町に入ると、いたるころに帽子にコートを着た二人の男性がブドウの苗木を見ている図柄の標識を目にする。誠にレトロで風情のあるすばらしい標識である。この二人が土屋、高野両氏である。

大日本葡萄酒株式会社は9年後に閉鎖したが、高野、土屋両氏は求める者にはブドウと、ワイン作りをわけ隔てなく教えその技術を広め、現在の山梨の基礎を作ったのである。因みに、大日本葡萄酒株式会社の跡地が現在のメルシャン勝沼ワイナリーである。

現在では大手資本のワイナリーから地元の農家が自家用のワインを作る小さなワイナリーまで多くの醸造所がある。確か30以上の醸造所があると聞いた。

私は甲府に来てまずマンズワインの勝沼工場を訪れた。ここを尋ねる事はワインを何も知らない者にとってはいい方法である。決してここではいくらでも試飲ができる、ただで酒が飲めるという根性で行ってはいけない。

ぶどう収穫シーズンの10月の末には工場に運び込まれたぶどうを圧搾する工程から赤ワイン・白ワインのつくり方の違い、発酵、澱(オリ)の処理、ビン詰や樽熟成、ビン熟成、コルク栓の作り方など工場見学をさせてくれる(シーズン・オフはビデオに変る)。

白ワインはぶどうを絞り、皮を捨ててその汁のみを発酵させるのに対して赤ワインは絞った汁と皮を同時に発酵させる。従って赤ワインは皮のところにある渋みの成分が発酵され赤ワイン独特の渋みになってくる。赤ワインは樽で熟成させるが白ワインは主にビンで熟成させる。これにより樽の香りがワインにつき独特の風味、風合いを出す。赤ワインは重たいものになっていく。白ワインは寝かせることによりフルーティーな軽さがなく落ち着いた風格のあるものになる。

ワインにはヴィンテージ物という表現があるがこれはウイスキーのように寝かした年数でなく、とれたブドウの年のことを言う。良いブドウができた年がビンテージワインを造るのである。これによりワインの基礎知識が一通り身につく。これは後々重要である。

最後に地下の保管庫の見学が終わると試飲室に誘導されいろんな種類のワインを楽しむことができる。そして気に入ったものを買うことができる。ここで造られている全てのワインを試飲することができる。私はここで初めて造りたてのフルーティーな若いワイン、樽熟成の重い赤ワイン、ビン熟成の芳醇な白ワインなど一応経験することができた。

値段によってしかワインを知らなかった私にとって、好みのワインとは決して値段ではないことを自覚させられた。それから私の県内のワイナリーめぐりが始まった。

観光的には双葉町の高台にあるサントリーのワイナリーも良い場所である。防空壕のような洞窟を使った貯蔵所は圧巻である。その後、高台にあるレストランからの甲府盆地の眺めは見事である。

ちなみに私はそのワイナリーの代表的なものをまず1本だけ買うようにしている。だいたい1500円高くても3000円までのものである。それだけのことでまだまだ奥が深いワインの世界でたいしたことはいえない。丸藤葡萄酒工業の「ルバイヤート」は表現に困る独特な辛口の美味しい白ワインである。甲府市内のサドヤ醸造所の「シャトーブリアン」赤少々値が張る重たいしっかりしたワインである。サドヤのワインは概して上級者向きである。そして重厚なルミエールの「シャトールミエール」、茂原ワインの「ヴィンテージ」もいい。

書き出すときりがなく味の表現方法に自らの能力の限界を感じるのでやめにする。ワインを表現する為には「芳醇な」とか「重い」、「しかりとした」、「すっきりした」等というどちらかというと「抽象的なるがゆえに命ある言葉」それも、個人の主観に左右される味覚表現という抽象的言葉の羅列になってしまうからである。

ただ、私のつたない経験を少し紹介するならば、新酒の季節フルーティーなヌーボーを飲むときには形式張らずに「杯をもて、さあ卓をたたけ、立ち上がれ、飲めや、歌や諸人・・・」という「乾杯の歌」が似合いそうである。

赤ワインには「ボディ」という表現を使う。ワインを口に含んだときの重量感を表す言葉であり、軽いのを「ライトボディ」、力強くて重たいのを「フルボディー」などと表現する。これは、白ワインにはあまり使わないようである。白ワインには甘口、中口、辛口という表現が使われる。

白ワインははしっかり冷やして飲むのがいいが、より正確には辛口はしっかり冷やして、甘口は幾分冷やしてというべきか。春から夏にかけての暖かい季節は甘いワインより辛口のワインが口になじむ。そういえば日本酒でも甘口の冷酒というのはあまりない。すっきりした辛口のワインとはいうがねっとりした辛口のワインとはいわない。スッキリしたという言葉は辛口にかかる枕詞である。ただ赤ワインの場合「スッキリした渋み」なる表現を使うらしい。

赤ワインは常温でいいといわれるが、常温では美味さがよく分らずに渋みだけが際立つようである(ただこの常温の定義に問題がある。暗室の温度の低いワインセラーであればそれも可なのであろう。)従って飲む前に少し冷やして飲む。赤ワインの場合、重たいハードボディーよりライトボディーのほうが幾分冷やしたほうがいいようである。

赤ワインの渋みに関しては個人の好みの問題であるが、これが分らないとワイン通でないといわれると困る。赤ワインの渋みに関してはいまだによく理解できないが、樽で熟成することにより樽独特の香りがつき、しっとりした奥ゆきと深みが増していくのは理解できる。特に白ワインの樽熟成は芳醇という言葉がぴたりあう懐の深いワインに仕上がる。さらに赤ワインはコルクを抜いてから一時空気にさらすのがいいといわれる。赤ワインには大きな広口のワイングラスが使われるのはそのような理由によるものなのだろうか。

ワインが、良いブドウを使って、良い技術で、十分に寝かせて造られるとそれなりの値段がしてくることは納得いく。ただそれには、若くてフルーティーなワインが分って徐々に理解できることであり、最初からワインのもつ芳醇さや渋み等を理解できる人がいたらそれはよほどの味覚の持ち主であろう。

私の貧弱な味覚では自己満足に終わりそうなので、一つの基準となるワインを定めた。それは「ルミエール」のワインである。ルミエールは勝沼町ではなく一宮町の醸造所であり、世界のコンクールで何回も入賞しているワインである。あまり私らしくはないのであるが世界に認められたワインはワイン後進国であった我々にワインのグローバルスタンダードを示してくれているものだと考えたからである。

ラベルに社主である塚本氏のネームがプリントされているところに自信の程が伺える。ハーフボトルの「プチルミエール」で少しずつ赤ワインのよさが理解できるようになってきた。しかし、まだ赤ワインを私自身の味として理解し得るまでには至っていない。それでも「シャトールミエール」は何かの記念日には買い求めて味を極めたいワインである。

このくだりは2000年11月16日に書いている。そうボジョレ・ヌーボーBEAUJOLAIS NOUVEAU)解禁日である。目の前に1本のボジョレ・ヌーボーがある。これを口にすると赤ワインのそれではない。言い過ぎかもしれないが渋味をほとんど感じさせない軽い発泡酒である。ワインの重さと渋みをよしとする人たちがこのワインをなぜにここまで歓喜を持って迎えるのであろうか。ワイン通を自称する人たちもいつも重たいワインだけでは疲れるので年に一度は息抜きがしたいのではないか。この日はそのような日なのかと思うのだが失礼であろうか。

冗談はさておいて、長い熟成期間をおいて飲まれる普通のワインに対して短期間で飲みやすいワインがボジョレ・ヌーボーなのである。赤ワインはブドウを絞り皮とともに発行させるのに対して、ボジョレ・ヌーボーはブドウを破砕せずにそのまま発酵させる。その絞り汁を再度発酵させることにより短期間でできるボジョレ・ヌーボーは赤ワイン独特の渋味の成分であるタンニンができないのだという。本当のワインを知っている人たちが美味しい新酒を楽しむために作った本当のヌーボーなのである。

赤ワインの渋味を克服できない人には「ボジョレ・ヌーボーに乾杯!」である。

最後に最初このくだりは「現在の山梨ワイン事情」なるタイトルを予定していた。ところがそのようなこと書けるものではないと気づき、自分の山梨での体験をひたすら綴った次第である。これだけこだわれば貧弱な味覚もそれなりに経験したということは認めていただけるであろうか。そしてこの下りを書きながらますますワインにのめり込んでいっている自分に気づかされた。この一年山梨のワイン以外の酒は冷蔵庫に入れず、原則として山梨のワインしか口にしないという私はマニアックであろうか。

それでも「ワインはワイン、酒は薩摩白波が一番」というのは変っていない。

武田家滅亡後の山梨の歴史

山梨といえば甲斐、甲斐といえば武田信玄公(山梨では呼び捨てはいけない)である。武田信玄公亡き後、1581年3月11日大和村野田で武田勝頼公が自刃して果てた武田家が滅びる。しかしてその後はほとんど知られていない。私は甲府に赴任してきて武田の歴史よりそれ以後がどのようであったかが興味深かった。

勝頼公が大和村で一族共に露と消えたとき、信長の家臣沼尻鎮吉(シゲヨシ)により塩山市にある恵林寺に火が放たれ、快川和尚が「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と唱えて従容として入寂したのである。この和尚のこの言葉は恵林寺の三門の両袖に掲げられている。

この事件の3ヵ月後に、織田信長は本能寺の変で明智光秀に殺される。この報せを聞いた民衆は蜂起して沼尻鎮吉を襲い殺したと伝えられている。

因みに、この恵林寺は武田信玄公の菩提寺であり、その庭園は見事である。

その後徳川家康や幾人かの領主の支配を得て、7代将軍徳川綱吉の側近柳沢吉保、吉里(1704〜1709)父子が領主となる。徳川一門以外では初めての領主である。ただ吉保は一度も自分の領地に足を踏み入れてはいない。吉里が伊賀上野に転封となった後は徳川幕府の直轄領となり甲府城に甲府勤番が置かれる(甲府では最後の藩主柳沢親子は名君と仰がれ、転封が決まったにもかかわらず、その年の年貢を皆納めたという逸話が残っている)。

さらに「三分代官」が細分化された領内の支配を行い、加えて三卿領といわれる田安、一橋、清水家の領地が入り組み、村ごとに領主が異なるという他では見られない支配と圧政が行われたのである。これが山梨県の県民性に大きな影響を与えているように思える。

幕府の役人にとって甲府勤番は「山流し」的な意味合いを持っていたともいう。そのため私のホームベースのある埼玉県伊奈町の代官「伊奈備前之守忠次公」(彼は江戸時代の名代官の筆頭に上げられている)のような名代官は出ていない(ただ、後述する田安騒動の後の田安代官小島焦園は名代官として仰がれている。)。

この間も武田時代の納税方法である「大小切り」、「甲州金」、「甲州枡」(京枡の三倍ある)等は連綿として引き継がれ、江戸幕府の全国支配が成立した後も使われていたということは特筆すべきである。そしてこれらを廃止しようとしたとき強い抵抗にあい時の幕府はこれを認容せざるを得なかった。

金と、枡については中央の統一基準と規格が異なったという意味で理解できるが、大小切りについては少し説明が必要である。今流に言えば一種の優遇税制とでもいうべきものである。田畑の租税のうち三分の一を「小切り」といって金一両について米4石1斗4升に換算して上納させていた。「大切り」は残りの三分の二のことをいう。特にこの小切りの部分については値段が江戸時代を通じて据え置かれたため米の値段の値上がりにより実質的に農民の税負担が減少していくことを意味していたのである。

大阪で大塩平八郎の乱が起こった前年(1836年)は、たて続く飢饉とそれに対する甲府勤番以下三分代官所の無策から郡内騒動という一揆が起こり、甲府の市中が無政府状態に陥っている。この時代甲州においては多くの一揆が発生している。

その中でも1750年の米倉騒動は米倉村(現在の八代町)長百姓七平がタバコ、蚕の運上新設を代官所に進言し、請負の利権にありつこうとした企てを阻止しようとして約二万人が蜂起したが、鎮圧され、発起人の5人と16カ村の村役人48人全てが記録上は病死したとされ、その他多くの者が獄死している。その審議がいかに厳しかったかがうかがえる。この事件は一人の百姓の抜け駆けにより多くの農民を死に追いやった悲劇的な事件である。

御三卿の一つ田安領の反動的な収奪強化に抵抗した一揆(田安騒動)においては水戸黄門のようなテレビの時代劇で目にする老中松平越中守への駕籠訴が決行され、その後直訴にかかわった関係者に多くの死者を出している。一揆、直訴に対しては厳罰でのぞむという幕府の姿勢である。

私の前任地会津においても南会津郡は「南山お蔵入り」と呼ばれた天領であるが、そこでも苛酷な取立に対して直訴しそれにかかわった関係者が処刑されたという「南山お蔵入り騒動」が有名である。幕府の収奪の場である天領においてはよく起こったことのようである。

郡内騒動以降他国から多くの無宿者が入り込み治安がかなり乱れ、代官所の治安維持機能はほとんど果たされなかったようである。特に清水次郎長の講談でも出てくる竹井村安五郎(竹井のども安)、若宮勝三(黒駒の勝三)などを親分とする博徒が横行するのである。ちなみに黒駒の勝三は御坂町の峠に上り始めるコンビニの斜め向かいに墓が立っている。

明治になり若尾逸平翁などの多くの経済人を排出し、甲州財閥と呼ばれている。これは後の財閥というより経済人というべきかも知れない。若尾逸平、雨宮啓次郎、根津嘉一郎(東武鉄道)、小林一三などである。

山梨県が輩出した一番の経済人は若尾逸平翁である。現在の白根町出身で、最初は行商を行っていたが、開港間もない横浜で甲斐絹や水晶を売って莫大な財を得る。それを元手にいろんな産業への投資と進む。特に「光と乗り物」に対する投資が多く、現在の東京電力の前身や東京都電の前身に対する出資を通じて経済支配を進める。時代の需要を読んだ驚くべき先見性である。

ただそれでより得られた財力は農民に対する貸付を通じて、近代農村における地主による小作人の支配という典型的な形態をとるのである。そして、大正7年には米騒動が起き若尾家の焼き討ちが行われた。

また後に「鉄道王」といわれる東武鉄道を日光まで伸ばした根津嘉一郎(富国生命の前身にも投資経営する)は若尾翁その影響を一番受けている。ただ、根津翁の場合、昭和10年(正確ではない)に山梨県のすべての学校にピアノと顕微鏡を寄贈している。さらに山梨市を流れる笛吹川に橋を架けて贈っている。現在の万力公園の前にかかる根津橋がそれである。さらに武蔵大学を作っている。なんという財力であろうか。

韮崎市出身の小林一三は阪急電鉄を作り、宝塚を作った。鉄道の沿線に観光地を作り、住宅を作るという今ではあたりまえのことも山梨の経済人の発想である。

このような山梨の財閥の形成に関しては山梨学院大学のビデオによる特別セミナーが詳しく、市立図書館や県立図書館で借りることができる。山梨にやってきてすぐにすべてのビデオを借りて見た。

武田信玄公までの歴史

武田家は新羅三郎義光を祖とする源氏の末裔である。新羅三郎義光は後三年の役(秋田県横手市周辺)で勇名をはせた八幡太郎義家の弟である。その新羅三郎義光の子孫が韮崎市にある武田の庄の神社で武田を名乗り、以後武田家が起こり義光から18代目が武田信玄ということになる。

武田家終焉の地甲斐大和村

私がこの村を訪れたのは、10月中旬の曇りの日だった。甲府盆地の西のはずれにある勝沼町を過ぎ、笹子トンネルに向かう渓谷に入ると今にも雨の降りそうな雲が重くのしかかってきた。何故か歴史の重みをひしひしと感じ、それまでつけていた車のラジオを切らざるを得なかった。

国道20号線を左折して山側に入り五分も走ると野田の集落に入る。そこに武田家終焉の地、景徳院がある。

武田信玄公亡き後、その後を継いだ勝頼公は1575年長篠の合戦で織田・徳川連合軍に敗れ、甲府に退いた。その後、数回戦いを繰り返すが態勢の挽回には至らず、ついに祖父伝来の躑躅ヶ崎(ツツジガサキ 現在の武田神社)の館を捨てて、韮崎市の高台に新府城を築いた。1582年2月末、武田一族の親族筆頭、駿河江尻城主穴山梅雪が家康に招かれて下り、3月3日やむなく居城間もない新府城に火を放ち、勝沼を経て現在の大月駅の向かいにある岩殿山に向かった。

ところが山深い笹子の山中で岩殿城主小山田信茂の背反の報を受け、天目山栖雲時(セイウンジ)の麓にある野田の地(東山梨郡大和村)に逃れ、そこで北条夫人、長男信勝とともに自害して果てるのである。ここに新羅三郎義光以来の名門武田氏は悲劇的な滅亡を迎えるのである。信玄公没後10年足らずであった。

この地に徳川家康が寺を建てて勝頼公一族の菩提をともらったのである。

この戦いで怒涛のごとく攻め寄せる織田方の先陣、滝川一益の兵に対して勝頼方の古屋惣蔵が渓谷の狭い道に藤づるを体に巻きつけ片手で応戦し、下を流れる川が血に染まり3日間消えなかったという。これが「古屋惣蔵片手千人切り」 、「三日血川」の伝承である。この川が大和村から笛吹き川に流れ込む日川である。

武田氏終焉の地の野田から日川を上ると渓谷が美しく、多くの滝がある。竜門峡と呼ばれ、甲府市にある昇仙峡のように観光化されておらず、渓谷を楽しむためにハイキングするには絶好の場所である。

野田から車で10分も走ると高い山の中腹に小さな集落があり、その中心に栖雲寺がある。ここはこの地名、天目の由来になった臨済宗の寺である。 この寺の裏山は禅僧が修行のために、見上げるばかりの切り立った裏山全体に巨岩が配された庭となっている。庭の上に溜池を作りそこに水をため、その水を一気に流して岩を露出させたものだという。曲解を承知であえて言うならば快川和尚は「安禅必ずしも山水を用いず・・」というが、禅にはやはり山水であると実感させられる。

さらにこのお寺の境内には「そば切り発祥の地」なる碑が立っている。

武田家終焉地の大和村を語る以上この山を隔てた、塩山市の雲峰寺に付いて述べたほうがよいと思う。この寺は塩山市の中心部から国道411号線を柳沢峠、奥多摩方面に20分も走ると大きな「大菩薩の湯」という温泉がある。その裏あたりが裂石地区であり、ここを右折すると中山介山の小説で有名な大菩薩峠にいたる。

右折して数百メートル走ると左側に杉並木がはじまり、裂石山雲峰寺の参道になる。苔むした石の仏様の並ぶ杉並木の急な階段を上り、仁王門をくぐるとそこに檜皮葺きの重厚な本堂が見えてくる。本堂はその重々しさと対照的に屋根の曲線と上に向かってたおやかに湾曲しツンと突き出た屋根の先端が美しい。本堂の後ろ右側には庫裏、左側には書院が配されている。広い境内の中央には桜の古木が植わりその右手奥に宝物殿がある。

その中に入ると中央にガラスのケースに収められた絹地に赤く染められた絹の張られた日の丸、その脇には斜めに立てかけられた横1メートル、縦3メートル以上もある大きなガラス張りの収納ケースに「風林火山」の「孫子の旗」、さらに赤地に金の文字で「南無諏訪方南宮法性上下大明神」と書かれた武田信玄ご自身の旗とされる「諏訪神号旗」、赤地に黒の三花菱紋を染め抜いた信玄公の馬前の標識とされる「馬標旗」が並べられている。

これらは武田家の家宝とされていたもので、特に正面にある日の丸は現存する我が国最古のものであるとされている。日の丸とはいっても日の丸の上4分の1程はなく、左下は一区画欠けて継ぎ足されている。それでも歴史の重みは感じさせるものである。清和源氏が起こるときに天皇から下賜されたものといわれ、天皇家の天照大神(アマテラスオオミカミ)すなわち太陽信仰の現れであるという。

これらの宝物は、大和村の野田で勝頼公が自刃して果てたとき、敗残兵の一人が山を越えここまで運び預けたものであるという。

因みにこの寺の山号になっている「裂石(サケイシ)」という地名の由来であるが、僧行基が山中で修行に来た夜、霊雲が烈しい光を放ち、山や谷は震動し、高さ約15メートルほどの石が真っ二つに裂けて、その割れ目から萩の大樹が生え、石のうえに十一面観音が現れた。そこで行基はその木を切り取って、十一面観音を彫って当山を開山したという。この辺りを裂石といい大字を萩原というのはこのような伝承に基づくものだという。

清里の恩人

現在では軽井沢と並び称せられる観光地清里はポール・ラッシュ博士という一人のアメリカ人を語らずして話を進めることはできない。

大正12年(1923年)関東大震災で崩壊した東京と、横浜のYMCAを再建する目的で来日したポール・ラッシュ氏は再建が終わった大正15年から立教大学商学部において教鞭をとることになった。

そして昭和9年国内の大学に初めてアメリカンフットボールを紹介し、東京学生米式蹴玉連盟の初代理事長に就任している。昭和13年に日本聖徒アンデレ同胞会の指導者キャンプ場として清泉寮を建設する。太平洋戦争の勃発により昭和17年に横浜港から浅間丸により強制送還される。

そして終戦とともに昭和20年9月マッカーサー司令部のスタッフ(陸軍中佐)として来日し、司令部勤務中に清里農村センター構想を策定し、昭和23年にセンター構想の拠点となる清里聖アンデル教会を建設する。昭和24年から高冷地実験農場を開設する。

25年には僻地の農村保健の為の診療所を開設し、翌26年には地域住民の教養娯楽のための清里聖ヨハネ農村図書館を開設、それに続いて大型トラクターや寒冷地に強いジャージー種乳牛の導入を図り、現在の清里の基礎を作ったのである。

昭和31年に日本聖徒アンデル同胞会より農村センターを分離して文部省認可の財団法人キープ協会として独立して活動をはじめる。その目的は「キリスト教の精神に基づき、「食糧」、「保健」、「青年への希望」を三大目標として、その改善、育成に資するためそれに必要な施設を設置運営するとともに、指導、訓練の活動を行い、もって奉仕の涵養を通じて、社会文化の向上と世界平和に記することを目的とする。」とある。

清里はポール・ラッシュ博士が日本人が不毛の地としてきた山間高冷地に、日本人の生きる術として酪農や高原野菜を紹介し、アメリカ人の持つフロンティア精神を実践したことによりより形づくられたといっていいのである。この地の最大の恩人である。

清里駅前の賑わいは東京の原宿と変るところがないが、そこから少し山に入った牧場がキープ協会の運営する牧場でありアイスクリームで有名な清泉寮である。

清泉寮の前の牧場から八ヶ岳を見上げると後ろの山々が屏風のようにそびえ立ち、その大きさを実感させられる。日本にいることを忘れさせてくれる場所である。

このアイスクリームはその舌ざわりの滑らかさは他のどれとも違う繊細なものである。ジャージー種の牛乳によるこの味わいとのこくは他で経験したことのない感激である。

清泉寮の奥にポール・ラッシュ記念センターがありアメリカンフットボール記念館がある。それは博士がそれを日本に紹介したからである。また東京の築地にある聖路加病院の設立者でもある。

それ以外のことについては観光案内に詳しいのであえて書く必要もあるまい。ただ一つ、清里の地名の由来について聞いた話を紹介する。

この村は明治の初め二つの村が合併して大門村となる予定だったらしい。ところが区長が申請にあったってどういう経緯かは明らかではないが、清里村として申請したという。その昔この地には清次という男が住んで、開拓し大いに繁栄したという。この伝承にちなんで「清次の里」から清里になったという。

山の中の「海岸寺」

清里に向かう途中に「海岸寺」という標識がある。「何故この山の中に「海岸」なる寺があるのか。」これが私がこの寺を訪れた動機であった。

明治・大正・昭和三代の校舎で有名な津金の桑原地区にある臨済宗のお寺で観音堂は江戸時代の名工、立川和四郎の建物とされる。この寺に並んでいる百体観音は高遠の石仏師守屋貞治が刻んだものといわれ、これを目当てに多くの人が訪れている。山奥ではあるが清里からの帰りに立ち寄る価値はある場所である。

ちなみに最初の疑問であるが、この寺から見る雲海の光景がまるで海岸のように見えるということらしい。それではあまりに情緒的すぎ、私には別の思いがあった。

清里から国道141号線の峠を越えると、そこは南佐久郡南牧村に入る。千曲川上流の南牧町役場のあたりは「海ノ口」といい、少し進むとJR小海線の「海尻」という駅があり、さらに進むと「小海町」を通り佐久市に至る。

1992年に家族でキャンプのために隣の川上村を訪ねた帰りにここを通り、「このような山の中になぜ海の地名が多くあるのか?」と疑問をもち帰ってからここの町役場に電話をかけて聞いたことがあった。電話で答えてくれた方が良くぞ聞いてくれたといわんばかりに「昔、大地震があり大地が裂けて、日本海側に住んでいた人々が流されてきてここに住み着いたという伝説がある。その裂け目が千曲川であり、帰れなくなった人たちが海を懐かしんで海にちなむ地名をつけた。」というのである。この話を子供達にしたら楽しそうにうなずいたのを覚えている。

この話の延長として清里と隣接している須玉町の山奥が「海岸」というのは辻褄が合うと思うのだがいかがなものだろうか。

ここを訪れたことは後に面白い展開となった。

私の勤める会社は土曜日も休日も業務を行っているため、休日のみのパート社員を雇っている。単身赴任の私にとって埼玉の自宅に帰らない土日は仕事でもない限り、ほとんど山や街中を歩き回っていた。ついでに会社に立ち寄るときはほとんどトレッキングシューズにリュックを背負った格好で、訪ねた先のお土産を持って現れていた(休日のスタッフは私の背広姿は仮の姿で、リュック姿が本来の姿であるといっている。)。

あるとき平賀さんというパート社員の方に海岸寺に行ったこと、そしてその由来について私なりの解釈を話してあげたところ、「実は私の祖先はそこの海ノ口の出なんです。信玄に滅ぼされた城主の末裔です。」という話になった。これを聞いた瞬間にピンとくるものがあった。武田信玄公の初陣は佐久の海の口城を攻めて城主平賀源心(元信という説もある。)を討ったとある。この初陣については諸説あって真偽の程は疑わしいとされているが、この末裔であるというのである。自分達の故郷に海の地名が多いのは知っていた。ただそれが私が話したような伝説によるものだとはまったく知らなかったというのである。

山梨名物「信玄餅」と「目に青葉・・」

山梨から長野に抜ける国境の小さな町が白州町である。南アルプスの山麓に「サントリーの白州醸造所」があり、小淵沢や清里を訪れる観光客が訪れている。

ここは山梨名物の「信玄餅」の元祖といわれる金精軒のある場所である。この信玄餅なるもの昔からあったものではないようで昭和40年代になって有名になったものだという。桔梗屋さんの信玄餅が一躍有名になり、いまでは山梨を訪れる人は必ずといっていいほど「桔梗信玄餅」を買って帰る(信玄餅の商標権に関する裁判があったと聞く。)。

ただ元祖は元祖としての信玄餅の特徴は十分に持っているようである。ビニールの包みを恭しく解き、器をその包みの中央に置く。そして餅の上にかけられた黄な粉の袋を取り、中の餅の上に黒蜜をかける。そして紙の袋に入れられた黄粉をまぶして食するのである。桔梗屋さんの信玄餅は黒蜜をかけてそのまま食べるのであるが、金精軒の餅はその上に別のきな粉をかける点が異なる。この点が老舗というか、元祖というか作法ばっていて愉快であり、威厳を放っている。それに中の餅が桔梗屋さんの餅より歯ざわりがよく高級感がある。

私が昼食は甲府市内のヴァリアンテという喫茶店(スナック)でとっていた。そしていつもいろんなお客さんと会話を楽しんでいたのである。そこに来られるお客さんが「金精軒の米の粉と小豆はいいものを使っている。」という話をしていたらしい。

白州町金精軒の斜め向かいは清酒「七賢」で有名な酒蔵がある。明治天皇行幸の折、宿舎となった場所といわれ、その堂々とした柱などかもし出す雰囲気は歴史を感じさせる場所である。軒先にかかる酒林(サカバヤシ 杉の葉を丸めた看板)は酒どころ会津でもなかなか見ることがない大きなものである。

ちなみにこの白州町は「目に青葉山ホトトギスはつ松男(カツオ)」の俳句で有名な江戸時代の俳人山口素堂出生の地である。私はこの俳句の作者が山口素堂であり、甲州白州町(去来石村)のでであることは知らなかった。これだけ有名な俳句であるが素堂の名前は知られていない。私はたまたま松尾芭蕉の「野ざらし紀行」の序に「かつしかの隠子素堂」、「素堂老人自筆の序」という名があったのは知っていた。調べてみると素堂は去来石村で生まれ、甲府に出て商売で成功した後、家督を弟に譲り、江戸に出て俳句の道に専念したらしい。芭蕉と同時代である。

俳句雑誌「キララ」や「雲母」で有名な俳人飯田蛇笏は山梨が生んだ偉大な俳人であるが、彼はこの素堂を郷土の先人として私淑していたらしく自宅(境川村)の裏山にこの句の碑を建てているという。


オイラン淵と柳沢峠

甲州が武田氏の時代、塩山市から東京都奥多摩に向かう国道411号線(青梅街道)の柳沢峠の少し奥多摩よりに下った所(正確には塩山市と丹波山村の境)に隠し金山の一つ「黒川金山」のあった。ここには金山で働く工夫を慰めるために多くの遊女がこの地に住まわされた。ここを閉鎖するときに渓谷の上に踊りの舞台を作りこの上で踊らせ、口封じのためにその舞台の蔦を切って川底に落として殺したという言い伝えが残っている。そして死んだ女達が流れ着き遺体を回収した場所がオイラン淵である。なんと55人の女達が殺された、まことにむごい話である。

私はこの話を会津若松から甲府支店への転勤が決まり、引継ぎの為はじめて甲府に向かう特急スーパーあずさで隣に座った方から聞いた。「怖い場所だよ。ぜひ一度は訪ねてみたらいい。」といわれ、自宅のある埼玉から車で山梨に行くときには、高速道路を使わずに、青梅から奥多摩から丹波山村を抜け、大菩薩峠を越えて塩山市に向ける青梅街道ルートをとった。

奥多摩を抜けて奥多摩湖の一番奥は山梨県との県境の村丹波山村(タバヤマムラ)であるが、そこに入ってから30分以上走ると深い渓谷になりその途中から塩山市になる。春先の新緑や晩秋の紅葉は尾瀬の入り口、奥会津檜枝岐村に劣らないであろう。この塩山市に入る境の川がオイラン淵である。夜走ると、行き交う車も無くとてもさびしい場所で、バックミラーを見ることができない程、怖い場所である。殺されたのが若い女達だけに若い男にはたたるといわれる。ここには確かに何かがいる。背筋を凍らせながら20分も走ると大菩薩峠の少し北側に位置する柳沢峠に出る。ここから見る富士は雲の上に顔を出した趣のある富士山である。

ここにくると何故か青春のころ耳にした詩を思い出す。皆さんもご存知であろうこの詩である。

「遠い地平線が消えふかぶかとしたよるのしじまに心を休める時

遥か雲海の上を音もなく流れ去る気流は

たゆみない宇宙の営みを告げています。

満天の星をいただくはてしない光の海を

ゆたかに流れゆく風に心を開けば、

きらめく星座の物語も聞こえてくる

夜の静寂(しじま)の、なんと饒舌なことでしょう。

光と影の境に消えていった遥かな地平線も

瞼に浮かんでまいります。

夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、

遠ざかるにつれ次第に星の瞬きと区別がつかなくなります。

・・・・」

そう、あの「JET STREAM」のオープニングソングの「ミスターロンリー」と城達也氏の重厚なナレーションが頭に浮かんでくるのである。私にとって、ここから見る遥かな富士山はこのイメージである。

私は2000年の夏、100年ぶりという月食をここの峠から見たくてほとんど行き来する車のない夜の山道を越えてやってきた。そして9時過ぎ、一人この峠にたたずみ高まる気持ちを抑えながら月食を楽しんだ。この日、私の心は興奮で震えていた。その訳は、この峠に至る前にアマチュア無線家としての貴重なそれも胸が躍る経験をしたからである。

奥多摩湖の終点あたりの駐車スペースに車を止めたらダムの向かいにアマチュア無線のアンテナを上げているグループがいた。いたずら心から、車のパッシングライトを「- -  ・ -   ・ - ・  - - ・・ 」」と二回照らした。すると向かいの車が突然移動して私のほうにライトを向け「- -  ・ -   ・・・  ・ - ・」と返してきた。なんと私の遊びを理解して反応を示してくれたのである。これは無線で使うモールス信号で「私は誰かこちらを呼びましたか」ということを意味する「QRZ」という信号を送ったのであるが、相手方はこれを理解して「了解しました」という「QSL」の信号を送ってきたのである。これにはさすがに私も慌てた。

さらに相手方は「430 QSY」と送ってきた。これは「430メガヘルツに移れ」という意味である。早速、車につけてある無線機に電源を入れ指定の周波数に合わせると「こちらは「QRZ JA1○○○です。誰かこちらを呼びましたか?」と呼び出しがきた。「了解、こちらは Seven、November Three Bravo Mike Juliet Portable One   7N3BMJ/1初めまして。畑田と申します。冗談でモールスを送ったのですが応えていただいて光栄です。ハムになって初めてのことで興奮しています。」というと向こうも初めてのことらしくびっくりして信号を送ったとのこと。八王子の団体であったが、お互い興奮しながら楽しい時間を過ごした。

そして「最後の挨拶はライトのモールス信号でお願いしたい」と伝えたところ、対岸から「 ・−・ 」(Rで「ラジャー」了解したの意味)の後、「- -・・・  ・・・--」(73)と送ってきた。私は相手方に女性が含まれていたので「- -・・・  ・・・-- /  - - -・・  ・・・--」(73/88)と送り返して興奮のひと時を終えた。信号を打電する手が震えていた。

 前の信号の「73」は男性に対して「敬意を持ってこの送信を終了する」という意味で使うもので、後段の「88」という信号は「love and kiss」という女性に対して敬意を表して交信を終えるときに使う符号である。無線家(HAM)冥利に尽きるひと時であった。これで興奮しないわけがない。アマチュア無線家らしい遊びである。

山梨から首都圏に帰るとき毎度渋滞する中央高速道路を避けて、多少時間はかかるが勝沼のインターを下り、ワイナリーでワインを買い、この峠を越え、渓谷をめでながらゆっくりと帰るのが風流であると思う。このオイラン淵の少し上に「黒川金山名水」という美味しい水が出ている。

昇仙峡 

甲府市における最大の観光地は市の北部荒川上流にある昇仙峡であろう。昇仙峡の入り口天神森から約3キロ上流の仙峨滝まで日本一と評される渓谷が続く。白い花崗岩の岩がいろんな造詣をなしそのネーミングを推測しながら歩く1時間ほどの散策は楽しいものである。テト馬車と呼ばれる人を乗せて運ぶ観光馬車がコトコトという蹄の音を渓谷に響かせながら行き来する。

そして上に行くにしたがって天にそびえる中国の山水画を思わせるような奇岩が現れる。その最高峰が覚円峰である。その昔、覚円というお坊さんがこの上で座禅を組み、修行をしたのだという。山梨の昇仙峡を紹介する写真は必ずこの覚円峰である。それを過ぎ最後に仙峨滝が現れその上が昇仙峡の終りとなっている。

ここは心地よい秋の日差しを受けた紅葉の季節に行くのもいいが、雨だからといって悲観することはない。雨に煙る覚円峰を一目見たらその神秘さに心を奪われるであろう。ぜひ雨上がりの覚円峰を見ることを勧める。間違いなくそこには仙人がいる。そのような気がしてくる。

昇仙峡は天神森の入り口から上に登りながら楽しむのに限る。下りながらだと楽そうなのであるが、昇仙峡の良さを十分に楽しむことができないようである。

私がはじめて昇仙峡を訪れたのは、甲府に転勤してきた1999年10月の末であった。ただ、行き方が普通とは少し(かなりというべきか)違っていた。甲府市の荒川橋から相川に沿って真っ直ぐ北上し、緑ヶ丘スポーツ公園の脇を抜け、県道50号線に入り、和田峠を越え、千代田湖を抜け昇仙峡の入り口天神森まで行き、そして昇仙峡を上まで歩いていった。3時間半の行程だった。昇仙峡に歩いていったという話をしたら皆に笑われた。

道すがらアケビが紫色に熟していたので木に登り幾つかとって食べていると、観光客が声をかけてきたので3個ほど採って差し上げた。「こんなのが食べられるのですか。」などというので、種をペペと吐き出しながら美味そうに食べて見せると恐る恐る食べていた。それにしても自然の食べ物を知らない大人も多い。

ただこの旅はある意味で山梨に来て一番いやな思いをした旅でもあった。私は歩いていった目的地でビールなど飲むことはほとんどないのであるが、この日暑かった事もあり仙峨滝の上の茶店で蕎麦とビールそれに岩魚(?)の塩焼きを注文した。ところが驚いたことにこの塩焼きが1本700円だったのである。これにはびっくりした。そして山梨の観光の陰の面を垣間見た。そして山梨に対する見方が大きく変った。それから観光的なもには極力近寄らないことにした。

 「ほうとう」もしかりである。うどんをそのまま煮込み、カボチャ等の野菜を味噌と煮込むものである。もともとは陣中食であり、甲州名物とされる。ところがこのほうとうは何処に行ってもみな高い。1100円を下らない。いくら観光地とはいえうどんの1100円はいくらなんでもリーズナブルとはいえない。「うどん」ではない、「カボチャほうとう」だというのだろうが、それだけの付加価値があるものといえるであろうか、観光客として幾分不機嫌になるのは事実である。

その点、郡内地区、特に富士吉田のうどんは町の名物として安くて美味しく各店が競い合い、町興しになっている。有名なカード会社の会員誌の表紙を飾るようなうどん屋でも1杯350円である。とても素朴でどちらかといえば汚いところである。この値段もさることながらみな美味い。郡内と国中という歴史的な差もあるかもしれないが、ほうとうは一度食べたら二度と食べるという人は少ない。少なくとも私の周りでは聞かない。これが名物でいいのであろうか。

穴切大神社

甲府警察署の前の大きな通りを西に入り、突き当たりの路地を入ると「穴切大神社」がある。この山門の随神門は周りの住宅街のありようとは異なる荘厳さと異様を誇っている。この神社は神仏混合の名残があり、大きな鳥居の後ろに参門がある。

ここは甲府盆地の湖水伝説の穴切明神を祭っている。神代の時代、甲斐の国が湖であったころ国司がここを巡視に訪れ、水を抜けばいい田が得られると考え、神に勧進した。神は人夫を集めて、鰍沢の下を開削して水を落とした。この神が「穴切明神」であるという。

この神社とこの伝説を知ったことが私を大変なことに駆り立てたのである。甲府からそこまで歩いていこうと思い立った。そこまでというが甲府から約20キロ程の場所である。ところがこの想いはその先の約40キロもある身延町へと伸びていった。

2000年9月10日、朝6時に甲府市の荒川橋の社宅を出てひたすら南を目指した。

田富町のリバーサイドといわれるショッピングセンターの脇を抜けて、富士川にかかる朝原橋に至ったのが8時ごろであった。ここから約4キロ先の市川大門町の三郡橋をめざすのであるが、そこまで見渡せる退屈なひと時である。なぜか大黒摩季の歌の台詞を思い出す。「未来が見えないと不安になるけど、未来が見えすぎると怖くなる。」確かに先が見えすぎる富士川(釜無川)沿いの1時間の単調さは苦痛だった。

三郡橋を右折して甲西町に入った。それから増穂町に入り、鰍沢(カジカザワ)町に入ったのは午前10時ごろで日差しが強く息が上がりそうになっていた。ここまで20キロ以上は歩いていた。

この鰍沢はその昔富士川舟運の拠点として賑わった場所である。甲州の年貢をこの川を使って太平洋岸の富士まで運搬し、それから江戸まで船で廻船するのである。当時の賑わいを彷彿とさせる山車がのこっていた。その脇に面白いものを見つけた。

落語の名人三遊亭円歌の「鰍沢」発祥の地の案内板である。

一度しか聞いたことがない落語なので正確ではないが、「その昔、身延詣で一人の若者が帰りに鰍沢にある小室山に参拝しようとしたところ帰りに突然の大雪で足止めとなる。若者の懐が暖かいことを知った、盗賊が彼から何とか金を奪おうと毒入りの玉子酒、鉄砲で追いまわされ、谷底に落ちる。ところが小室山のご加護により筏の材木につかまって助かるという話である。オチは「材木」にすがるが「題目」すがるというものであった。思わぬものを見つけてしまった。

国道52号線が富士川沿いを走り始めるとすぐに「禹の瀬」という場所に神社がある。

私はこの「禹の瀬(ウノセ)」という地名を見た瞬間にここが穴切大神社が湖に沈んだ甲府の盆地を切り開いて水を流して場所であると実感した。

この「禹の瀬」という地名は、一見すると富士川の流れが激しく波立っているところから海で使う「瀬」という言葉を使ったと思われそうであるが、それは明らかな間違いであるということは確信していた。この瀬というのは「大地の割れ目」という意味であろう。数年前家族で故郷鹿児島に帰り、会津若松に戻る途中に阿蘇山をたずねた。阿蘇山の外輪山の入り口に「立野の瀬」という看板を見つけ、妻が「なぜこんな山に瀬なの」と質問された。「なぜだろうね。」などと話しながら少し走るとそれはすぐに解決した。そこには「TATENO DIVISION」という看板があったのである。すなわち「立野の割れ目」という意味だったのである。二人でこの方がわかり易いなと言ったことを記憶していたからである。

神社の少し脇に蹴裂神社(ケサキ)をみつけた。この神様は穴切大神社ともにここを切り開いた一人である。

甲州の昔の人たちはここを神話の土地としてちゃんと意識し、地名に残し神社を建てて祭ってきたのである。通勤途中で見つけた小さな伝説を実感できたことでこの旅の目的の一つを達成し、そして一人微笑んだのである。

そして暑い日差しを受け脱水症状になりそうになりながら中富町を抜け、早川大橋を渡り、身延町にはいった。そして富士川を渡り、信玄の隠し湯といわれる下部温泉のある下部町に入り波高島(ハダカジマ)駅にたどり着きこの旅を終えた。38キロ、約10時間の行程であった。そしてこの後、貴重な出会いと経験をするのであるがそれはまたの機会にする。

 

市川團十郎発祥の地・三珠町

甲府盆地の南に位置する三珠町は歌舞伎の市川團十郎発祥の地であるとされている。この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。

その孫の重(十)蔵は弟に田畑を弟に譲り江戸に出る。その子として生まれたのが蝦蔵(エビゾウ)である。そして14歳で初舞台をふみ芸名を市川段十郎(この段は間違いではない。)と名乗った。芝居で紅と墨を使い、顔に隈取りをして、斧を持って激しい立ち回りを荒々しく演じた。これが好評を博し、後に荒事と呼ばれ、市川家の芸風の基礎を作る。20歳になり団十郎を團十郎と改める。「国構えに専らと書く。日本で一番えらい役者という意味だ。」と言う意味で文字通り日本一の役者になる。ただ、初代市川團十郎は役者仲間の生島半六に刺されて45歳の生涯を閉じる。これが市川團十郎のルーツが西八代郡三珠町であるゆえんである。ちなみに現在の12代市川團十郎の本名は堀越夏雄氏であり、三珠町の名誉町民でもある。

現在、一条信龍の城のあった甲府盆地南の甲府盆地を一望する曽根丘陵に歌舞伎文化公園が建てられている。そこは江戸歌舞伎の最高峰市川團十郎に関する市川家寄贈の資料が展示されている。中に入ると9代目市川團十郎の市川家一八番の演目「(シバラク)」の写真が迎えてくれる。初代から、12代市川團十郎の役者絵と写真それぞれの紹介がかかれている。

一条信龍の館址は蹴裂神社(ケサキ)となっていたが昭和のはじめに五代目市川三升がこの地に「市川團十郎発祥の地」という標識を建てた。それもいつしか朽ち、第11代團十郎が再度建てたがそれも朽ちたが、現在の團十郎がまだ10代目市川海老蔵の昭和59年11月に顕彰碑をこの地に建てることになった。

私は2000年11月19日に朝早くたずねた。中に入ると案内の男性がおり、客が私一人であったこともあるが1時間近く話を聞かせてくれた。それは私があれやこれや質問したこともある。

資料館の外は牡丹園になっている。そしてその中央に正面に「市川團十郎発祥の地」と刻まれ、上部には市川家の紋「三升」、右側面にはイライラが募って竹の根を抜こうとするがなかなか抜けずに体が赤くなるという初代の役者絵「竹抜き五郎」が浮き彫りにされている。ちなみに市川家の花とされている牡丹の花であるが2代目團十郎に由来するとされる。2代目の贔屓方であった江戸城大奥に権勢を張った絵島(?確かな記憶ではないが)が2代目に送った着物の柄が牡丹であったところからそれを使うようになったという。

この碑の前であれこれ考えていると資料館の女性が市川団十郎家に関する詳細な冊子を届けてくれた。先ほど案内してくれた方が私のような人にこの資料を持っていただきたいというコメント付であった。なんと光栄なことであろうか。

歌舞伎はいろんな意味で市川家のルーツ甲州が影響を与えている。

まず、市川家の家紋の三枡は三つの枡が3個重ねあわされたデザインである。歌舞伎の役者絵にも誇張された袖に市川家の三枡が描かれていることから目にされている方も多いであろう。一番大きなそとの大きな枡が甲州枡、中の枡が京枡1升、中央の枡が京枡五合である。甲州枡は京枡の三倍、三升である。

ここから市川家が歌舞伎の芸名では「團十郎」を使うもののそれ以外の書や絵の場合には「三升」を使っていることが理解できるであろう。

さらに現在の團十郎の話によると江戸歌舞伎の荒事の言葉の荒っぽさは甲州弁に起源があるとのことである。

市川の姓は、この三珠町の隣が市川大門町であることと何か関係があるのであろうか。初代の団十郎は自らのルーツがここ市川の庄にあることを知っていたのであろう(諸説あり初代の團十郎が千葉県市川の生まれというのもある。)。また歌舞伎の舞台で「成田屋!」と声をかけられる意味も団十郎の先祖が甲斐から成田の庄に逃れたからということに起源があることをご理解いただけるであろう。

郡内(グンナイ)

山梨県において郡内というのは甲府盆地を国中(クニナカ)というのに対して東部を占める三市二郡(富士吉田市、都留市、大月市、南都留郡、北都留郡)をいう。その中でも紹介しておきたいことは現在の郡内地方の織物産業ルーツとも言うべき甲斐絹(カイキ)である。これについては2000年11月17日、富士吉田市から大月市まで桂川沿いに20キロ以上も歩きながら自分足で調べてきた。

朝早く甲府駅発富士吉田行きのバスに乗り、8時前に富士急行富士吉田の駅に着いた。目の前には快晴の朝日を受けた富士山が山頂に少しだけ雪をいただいて日本人の心の中の富士山のあるべき姿に近い形で鎮座しておられた。まさに霊峰である。

この富士山を背にして金鳥居をくぐり、その先の交差点にある「左は甲府、右は江戸」と書かれた古い石の道標に従い、江戸方面に下っていった。

その途中に小室浅間神社を見つけた。この神社は坂上田村麻呂が東征のときこの場所から富士山に向かって祈願し、その願がかなったとして社を作ったとされている。

境内に入り清める為に水の湧き出ているところで手を洗おうとしたとき、そこの梢の間から見えた富士山が神々しいことに感激した。確かに田村麻呂も感激したに違いない。この神社は流鏑馬で有名である。境内には白い馬を神馬として飼っている。

さらにこの社殿の脇に植えられている桂の木は天然記念物とされている樹齢600年の桂である。この桂の木は縁結びの木とされているが、その訳が初めて分った。落ち葉を拾ってみるときれいなハートの形をしているのである。

このルートは国道130号線沿いで相模川(地元では桂川といわれる)に沿って進むことになる。その間私が振り返ると富士山が見つめてくれていた。富士吉田市から西桂町に入り左手に三つ峠を眺めながら都留市へと進む。三つ峠はNHKの朝の中継で富士山を写す場所である。今年の春この御坂峠口からこの峠に登り富士山を堪能してきた。

水に恵まれた町であり家の前を流れる小さな流れに水車を作りその中に芋をいれて皮をむいているものを見かけた。その脇に柿がたわわに実りまことに日本的な秋の光景である。

都留市に入るとすぐに鹿留(シシドメ)入り口という看板が見えてくる。ここは私にとって特別な場所である。10年以上も前、鹿児島支店に在任中、この奥にある「ホリデイロッジ鹿留」のオーナー関口さんの記事を読んだことが燻製作りのきっかけになったのである。その記事にはこのように書いてあったと記憶している。

「北欧を旅行していたとき、飛行機の機内食でスモークサーモンが出され、その味が忘れられずに自分で虹鱒を養殖し、スモークするようになった。最初はうまくいかなかったがそのうち都内の有名なホテルにも納めるようになった。」というものだった。

この記事を夫婦で読み、燻製の本を買い集め、勉強して我家でもはじめた。ただ私は、魚は一切行わず、牛タン、ベーコン、スモークチキン、ハム、などである。それなりの味になり周りの評価は得られていると自負している。

甲府に転勤してきてあの記事の場所がここであることを知り、仕事のついでに訪ねた。そこにはそのご読んだ雑誌に載っていた氏が使っていたドラム缶で造ったスモークハウスがあった。わたしはロッジのレストランにはいりスモークハウスのある前のテーブルに座り、自分の趣味の原点となったスモークハウスを見ながらゆったりしたランチを楽しんだ。当然その中に名物の虹鱒のスモークも入っていた。

一度は妻を連れてこなければならない場所である。なぜなら我家のスモークはもともと彼女の趣味として始まった。ただ、大きな肉の塊の扱いはワイルドであり男が行うのが似合うということで私の趣味になった。さらに、私はこの燻製が縁で、カスタムナイフ作りに入っていく。そして96年には、この燻製の本の出版社の人たちと那須高原で行われるナイフの企画キャンプに参加して日本一のカスタムナイフメーカー相田義人氏(間違いなくスットクアンドリムバーといわれる製法の元祖ラブレスの日本における承継者であり第1人者である)とツウショットの写真を「フィールドアンドストリーム」という少し上級者向けのアウトドア雑誌に載せていただくことになる。

さらにここは最高のフィッシングエリアを持っている。ルアーでもフライでも楽しめるすばらしい場所である。

この道は「ズイズイズコオロバシ ごま味噌ズイ、茶壷に追われてドッピンシャン・・」と歌われた「お茶壷道中」の道である。江戸のはじめ後の述べる秋元但馬守泰朝が谷村城主となったときに江戸幕府はそこに幕府御用のお茶蔵を作った。そこへ産地から運ばれてくるお茶の行列に大名行列のような土下座をするくらいなら家に入って戸をピシャと閉めるというのがこの歌の意味である。ここを訪ねる前の日に仕入れた情報の確認に歩いていたのである。

郡内織・郡内縞(グンナイシマ)・甲斐絹(カイキ)

都留市の谷村地区に入るとそこが甲斐絹の一番の産地である。

山梨は古くから絹織物が生産され甲斐絹と呼ばれていたが、特に郡内地方から生産された物を郡内織、そん中でも縞模様のものを郡内縞と呼ばれ江戸時代「甲斐のみやげになにもろた郡内縞にほしぶどう」といわれるほど知られていた。

特に郡内で盛んになったのは、江戸時代の初めに秋元但馬守泰朝が谷村勝山城主となりその後1703年まで3代にわたり領内に絹織物を奨励した。桑を植えさせ、以前の領地上州から新式絹織機を取り寄せ領民に貸し与えたことにより、飛躍的に生産が伸び、日本中に知られていく。

江戸時代の初期にもかなり知られていたらしく、井原西鶴の「好色一代男」、「好色五代女」の中にも郡内縞が書かれており、「八百屋お七」の帯も郡内縞だといわれている。なお、八百屋お七の振袖火事の後、この谷村に松尾芭蕉が秋元但馬之守の家臣である弟子を頼って一時身を寄せたといわれている。

明治時代になり山梨県最初の知事である藤村紫郎県令により「甲斐絹(カイキ)」と呼ぶように定められた。そしてそん伝統も昭和19年をもって歴史から消えていくのである。戦争による贅沢品排除により、郡内の機織の音が途絶えてしまったのである。

もう少し甲斐絹について述べるならば甲斐絹は江戸の後期から明治にかけては羽織の裏地であった。それは絵柄が入ったもので、かなり高価なものである。

これについて詳しく知るためには都留市商家資料館を訪ねる事を勧める。案内の方かかなり詳しく、私は40分も解説を聞いてしまった。ちなみに絹問屋であった旧仁科家の住宅を利用したもので入館無料である。その贅を尽くしたつくりには当時の繁栄ほどが偲ばれる。

木喰(モクジキ)の里 微笑館

ここは私が初めて身延町にある身延山久遠寺を訪ね、287段の階段を上り、奥の院にケーブルで登ったあと国道300号線を本栖湖を目指して走る途中で道路の左側にある「木喰の里微笑館」という小さな標識を目にしたのがはじめての出会いである。そして峠を越え、トンネルを抜け本栖湖に出た時、雲ひとつない晩秋の澄み切った青空を背景に5000円札の絵にある富士山が突然現れて声を失ったことを覚えている。

その感動のあまり木喰という言葉自体忘れていたが、県立図書館で木喰仏に関する写真集を見たときからぜひ訪ねてみたいと思うようになった。なぜか素朴ながら妙に親しみのある微笑が気になったのである。また、この木喰の里がある下部町波高島(ハダカジマ)に住む私の会社の社員が私が木喰様の顔にそっくりだというのである。

ここは下部町北川の深い山の中腹の山中にある。山中というがなかなか想像しにくい山中である。国道から急に山中に入っていくがその取り付きが信じられないほど狭く、林道を走りながら脇道に入る道よりわかりづらい。はっきり言って入るのに躊躇する。車が一台やっと走れるかどうかの道である。曲がりくねった道を2キロほど進むと山の中腹に20戸ほどの村があり、そこに「木喰の里微笑館」がある。この日の館は初冬の青空と深い山々に浮かぶ天空の城のようにも見えた。

木喰とは仏教の戒律のことである。火を使う肉や穀類を一切口にせず、木や草を食らって修行をする戒律で、それを実践した僧を木喰僧というのである(塩も取らないとあるがにわかには信じがたい)。

この木喰上人は1716年に下部町古関丸畑に生まれたが、14歳で江戸に出奔(シュッポン=家出である)する。江戸でなかなか志を達成できず、22歳で相模国(神奈川県)の大山不動尊詣でをきっかけに、出家する。そして45歳のとき常陸国(茨城県)で木喰観海上人から木喰戒を受ける。そして56歳から日本国中を回る自己追求の厳しい旅が始まる。そしてその旅は北海道に始まり九州鹿児島まで20000キロの旅は入寂する93歳まで続くのである。

その間、仏像を作り、あるときは薬を作りながら世の人を救い、自らを究めていったのである。宗派をも持たず、寺を持たなかったがゆえに木喰上人の作った全国の木像と業績は1世紀あまり歴史から埋もれてしまった。しかし、明治時代に柳宗悦により見出され、世に「微笑仏」として知られるようになった。

この仏様の特徴は素人の私が見ても明らかである。仏像に直線的なところがなく全体として曲線的で、人間を超越した存在としての仏の姿とは程遠、どちらかというと肉感的で、現世的ある。わかりやすく言えばどこにでもいそうな小太りでいつも大声で笑っている近所のおばさんが仏様として彫られているという表現があたっていると思う。

木喰仏は眉は太くて丸く、目は細く垂れている。頬骨は異常なほど出っ張り、人がよさそうで近寄りがたさはない。

館内に入るとまず受付の女性が素晴らしい笑顔で迎えてくれる。微笑みの館である。ビデオの部屋に通され、15分ほど木喰上人の生い立ちから、その生涯が分かり易く紹介されている。そして受付の女性がお茶とお茶受けの梅干を持ってきてくれた。このような場所でこのようなサービスを受けたことに驚かされた。

そのあと木喰上人の仏像や上人の自叙伝と伝えられる「四国堂心願鏡」など多くの資料が残されている。その中でも上人が自らを彫ったとされる仏像はまん丸の顔に太い丸い眉毛、細い垂れ下がった目、出っ張った頬骨それに長いひげと、微笑み念仏とは上人そのものだったのであったであろうことが実感できる。それにしても心安らかになれる場所である。

最後の部屋には上人の残した和歌が上人を描いた色紙とともに飾られている。そのなかでも「みな人の 心をまるく まん丸に どこもかしこも まるくまん丸」という歌が目にとまった。ここに来たことの答えはこの一首あったと思った。

それにつけても上人のバイタリティーに感動させられる。上人が厳しい木喰戒を受けたのが45歳、現在の私の歳である。そして日本中全国を回る旅に出たのが56歳、それから37年間、死ぬまで日本中を回るのである。中高年や老後の生き方、看護が大きく論じられる時代、自らを極限まで律して生きた上人の生き様は、畏敬の念を持って崇める以外にない。そして、自分自身もかくありたいと思ったしだいである。

ここを訪れると間違いなく生きるパワーをもらうことができると信じる。

あとがき

私のこの一年のレポートとしてここまでにする。まだまだこだわりの場所はあるがきりがない。おもうに「甲府勤番風流日誌」の最初の版は、歴史的なこだわりが多くなり、重たくなってしまった。1年間それほど歴史にこだわろうという意識はなかったが、ある程度物事を知ろうとするとそのこのように歴史との対話になってしまう。これはこれでいいのであろう。

私の社宅の近くにミレーの絵で有名な県立美術館がある。この1年の間に7回も通っている。ワインといっしょでいいものをできるだけ多く見れば審美眼が養えるのではという願いからである。次の一年はより向上した私の審美眼と私が訪ね歩いた町々の少しいい話をを紹介できればと思っている。                

     2000年12月     甲府勤番HOMER

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