戻る 埼玉県北足立郡伊奈町
松平伊豆守信綱
年代 | 伊豆守の歩み |
1596年 |
伊奈家の配下にあった羽生領の代官大河内金兵衛久綱の子は女子ばかりであった。 |
信綱は6才頃まで小室に住み、8歳の頃、父の弟で相模の2万石あまりを領し幕府の勘定奉行をしていた松平正信の養子となる。 |
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1605年 | 慶長9年9歳で後の三代将軍家光の小姓として側に仕える。 |
1623年 | 元和9年には家光の小姓組番頭(「番組」は徳川の戦闘集団を意味しますから親衛隊長でしょうか)になり800石取りとなる。 |
1624年 |
1200石となる。 |
1627年 |
寛永4年には相模国、高座、愛甲両郡の8000石が加増され1万石となり大名となる。 |
1633年 | 寛永10年、3万石となり武蔵忍城(行田市)の城主となる。 |
1637年 |
寛永14年、天草四郎時貞を首領として島原の乱が起こる。幕府は板倉重昌を派遣するがなかかな落ちず、老中になっていた信綱を総督として島原に派遣し、兵糧攻めの末に総攻撃をかけて激戦の末、乱を平定する。 |
1639年 | この功績により3万石を加増され6万石の大名として寛永16年川越城主となる。 |
知恵伊豆の所以 | |
三ツ扇 |
三代家光が庭に橋を架けるとき、橋の反り具合をどの程度にする思案して、家臣に相談したとき、信綱が扇子を取り出し一つずつ折をたたんでいき、家光の気に入ったところで反り具合を決めたといわれます。信綱はこの機転により500石を加増されました。これが信綱の出世の始まりといわれる逸話です。これがきっかけとなって家紋を「三ツ扇」としたといわれる。 |
大石 | 四代将軍家綱が、「庭の大石を外に出せ。」と命じたが、大老の酒井忠勝は「こんな大きな石は外に出せないのであきらめてください。」と進言した。ところが、信綱は「その石を埋めてしまえばいい。」と意見を述べたといわれる。 |
白壁 |
家綱が「一夜のうちに座敷の壁を白壁にしろ」と命じたが家臣たちは名案が浮かばなかったが、信綱は良質の白い紙を張りたちまち白壁にしてしまった。 |
2002年9月16日更新