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転勤サラリーマンのH氏が、東京麹町の本丸(本社)に帰ってきました。本丸の周辺を、昼休みというサラリーマンにとっては1日の最も貴重且つ重要な時間を使って探索した内容です。HPには、他に会津版・甲府版がありますよ。
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徳川家康が入府した日、8月1日に創刊です。

なぜこの日に拘ったのかは、読んでみてからのお楽しみです。

 

国道20号線(旧甲州街道)に面した麹町5丁目にそびえる「麹町ミレニアムガーデン」が私達の城である。私のオフィスは19階。ここから見渡せば、東には深い緑に沈む皇居、西にまっすぐ伸びる甲州街道の向こうに新宿の摩天楼群、南にはニューオータニなどの高級ホテルに迎賓館、赤坂離宮の緑の海が広がる。四谷駅前

麹町に任地を得た者として、この地の誰でもが知っている事柄から、日ごろ見過ごしそうな拘ると見えてくるちょっと嬉しい話まで、時代を超えて探して歩こうと思う。

 

まず麹町の町名の由来である。

麹町という名前については、ここが郭内(城内と外を隔てる大門の内側)で武士の世界なのに珍しく町人町であった。

麹を商う店が多くあったという説と、ここが府中や甲府に向かう甲州街道の始まり四谷見付のあった場所であったところから「国府路口」であるという説がある。

その他にもカビを意味するアイヌの言葉に由来するというのもあるが、これは信じがたい。

いずれにしても江戸時代ここ麹町界隈は、麹町の饅頭屋がにぎわっていたという話や「四谷新宿馬の糞」と歌われるほど人の行き来が賑やかだったことは確かである。

 

次は麹町の歴史。

紀尾井坂にある江戸時代の地図ただここ麹町は本来、その周りに江戸幕府の軍事組織(軍人である武士の集団の軍事組織というのも妙ではあるが。)である大番組の屋敷をここに置いたことに始まる。大番組とは幕府の官僚(文官というべきか)である役方に対する番方と呼ばれ、世に旗本八万騎と呼ばれた戦闘集団である。その軍制上の部隊に分かれて屋敷が一番町から六番町まで配されたのである。

そして、ここ番町、麹町は東京都内の中でも比較的標高のある高台にある。

なぜかは、家康が江戸にやってきた頃に遡る。

徳川家康が豊臣秀吉の小田原(北条)攻めに従った後に領地替えとなり、1590年8月1日荒涼たる武蔵野の地に入府したことにより江戸の歴史が始まるといってよい。

家康公が入府したとき江戸は家がわずか約100戸ほどで、隅田川や平川等の河口が広がり、葦が生い茂った湿地帯で現在の新橋がまだ水の中で虎ノ門から内幸町あたりから日比谷公園あたりまでは大きな入り江になっていた。そこで大きな川(江)の出口または湊という意味の「戸」いう意味で「江戸」と呼ばれるようになったというのが定説となっている。

家康は入府の直後から町づくりに注力し、3年後の1593年に日比谷入り江の埋め立てに着手する。とはいえまだ家康が天下に覇を唱える直前の戦国末期であり軍事的緊張感はまだまだ高かったといえる。そのために江戸城の西側で軍事的に防衛の要衝であり、埋め立ての必要のない麹町台地に緊急に屋敷をおいて徳川に敵対する勢力に備えたのである。

これに対して上野や浅草の湿地を本格的に埋め立てるのは豊臣秀吉が没した1598年からで、神田の山を切り崩して埋め立てそこの町人を住まわせたのである。これがいわゆる下町の始まりといわれる。これに対して番町あたりは埋め立てる必要がなく山あいにあったところから山の手と呼ばれるのも合点がいく。


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