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新田次郎“怒る富士”から
第7代関東郡代伊奈半左衛門忠順

宝永41122日四ツ(午後10)富士山が噴火した。

当時江戸幕府は5代将軍綱吉の時代で側用人から大老になっていた柳沢吉保(松平美濃の守吉保)が実権を握り、勘定奉行は貨幣鋳造に知られる萩原重秀での時代である。

当時富士山の富士山麓の足柄上郡、足柄下郡、駿河国駿東郡は小田原藩老中大久保加賀守忠増が領していた。

噴火に因り須走村は1丈あまり(約3メートル)それ以外でも3ン尺から4尺もの火山灰が積もる甚大な被害が出ていた。その降灰は江戸市中にも及んだ。

火山の噴火は当時山焼と呼ばれた。小田原藩は自力回復を図ろうとしたが被害の甚大で宝永5年正月7日駿東郡59ヶ村、相模国足柄上郡69ヶ村、足柄下郡45ヶ村他4ヶ村を約56千石の返地を申し出、幕府に公収された。そこで幕府は関東郡代伊奈半左衛門を派遣した。関東郡代は勘定奉行萩原重秀の配下にあった。

半左衛門は相州小田原の酒匂川の工事を命じられ、酒匂村名主の屋敷を代官屋敷とする。

半左衛門が着任する宝永5年の前に駿東郡59ヶ村は亡所と決定されていた。某所とは幕府の管理から手放すことで従って領民も土地に縛られることはなくどこへ行くの自由であるが、逆に幕府からの支援も保護もないことを意味した。従って、すてられた土地ということである。

半左衛門は幕府から許しを得て餓民を救うため幕府の米を可能な限り配給した。

幕府は大名武士階級に救恤金(きゅうじゅつきん)の支払を求めた。公領私領を問わず禄高100石につき2両という厳しい負担だった。しかしこの金は全てが救援にまわされることはなく財政逼迫していた幕府の用にまわされた。

宝永56月大雨に因り大口堰、岩流瀬堤などが流され甚大な被害が出た。その後半左衛門は工事奉行をはずされ藤堂家のお手伝い普請となった。

宝永6110日卯の刻(午後6時)徳川綱吉はみまかった。

そして西の丸にいた大納言家宣が6代将軍にまり、側近の間部越前守詮房と新井白石の時代になった。

正徳元年7月の台風に因り酒匂川大手口の土手が切れ足柄平野は再び泥沼に埋まった。この原因は台風による増水と山野に降り積もった降灰が流れ出て川底を上げたからであったが、川上で砂除けをした砂を川に流したのが関東郡代の配下の者であるという噂が信じられ、関東郡代は足柄平野ではよく思われていないという。

幕府の亡地に対する援助は少なく村民は貧困を極めた。正徳元年半左衛門は勘定奉行荻原重秀と老中土屋政直の連署の有る駿府代官宛の蔵米五千表を駿東郡59ヶ村の餓民を救うために関東郡代伊奈半左衛門より連絡があり次第、回送するよう指示された書状であった。そして駿府郡代能勢権兵衛はこの書状に疑義を持ちつつも蔵米を回送した。

ころがその書状には重大な問題があった。そしてその書状が紛失され、幕府に届けられ、伊奈半左衛門など関係者の嫌疑が検分されることになった。

そして正徳2229日伊奈半左衛門は何の釈明もせず切腹した。

同年526日養子重(十)蔵忠達に家督を継がしめ、父の原職を命じた。

そして駿東郡の人々の間では伊奈半左衛門がお蔵米を無断で駿東郡の民に配給したことの責任を取って切腹したと信じられたという。

そして駿東郡では村々に半左衛門の徳を偲んで小さな石の祠をつくり幕府の目をはばかって一人ずつ詣でていたという。そして昭和32年に小山町須走に合祀し伊奈神社を作ったという。

伊奈半左衛門が切腹したという記録はないが、半左衛門が死んでから家督相続が認められるまで3ヶ月も要していること、等からその後砂除けが比較的効率的に進められていることから、幕府がそれまでの亡所政策を改めて支援に乗り出したのではないかといわれる。

新田次郎“怒る富士”の初出は、「静岡新聞」他に昭和47年3月1日から同48年2月8日まで連載

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