============麹町ウぉーカーNO31============
今日「麹町ウぉーカーNO31」を配信する、10月6日は、何の日でしょう。 なぜなのかよくわかりませんが「国際協力の日」だそうです。 日本のカレンダーは、毎日が何かの記念日のようです。 1969年(昭和44年)千葉県松戸市に「すぐやる課」というのが誕生したのを覚えていますか?それが10月6日だったそうです。 時の松戸市長は、松本清さん。 何を隠そう、ドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者です。 さて、紅葉前線も徐々に関東に押し寄せてきていますが、H氏は昼休みに黙々と取材を続けています。 気候も今が一番。 番町方面に足を伸ばしているせいか、普段余り目にしていない話題が出て来ます。 (大) =================================== 皇居の目前、半蔵門前の麹町2丁目交差点の下は、営団地下半蔵門線半蔵門駅である。 この地下鉄の駅は南北に走っており、駅の真上が永井坂という麹町半蔵門地区では比較的長い坂になっている。 両脇にはレストランやケーキ屋さんが並んでおり、この途中に金つばの美味しい「一元屋菓子店」もある。
ここから袖摺坂となり、五味坂との交差する角に以前紹介した滝廉太郎が住んでいた場所にレリーフと案内板を目 それから先は大妻通りと呼ばれ、大妻女子大から靖国神社に向かう三番町24の右角に「史跡塙保己一和学講談所跡」の標柱が建っている。 標柱に彫られている塙保己一(ハナワホキイチ)は江戸時代の盲目の国学者で、古い文献をジャンルごとに分類編集した「群書類従」を編纂した事で知られている。 保己一(1746〜1821)は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県児玉町)に生まれ、幼くして失明する。母を亡くした後15歳で、江戸四谷にあった幕府によって作られた盲人の生活保護のための集団(座)である総検校の弟子となり、鍼治、灸、琵琶等の技芸を身につけようとした。が、不器用な保己一には何一つ身につかなかった。 ところが物語・和歌・漢学・神道・和学等は、賀茂真淵らから教えを受け、抜群の記憶力で、非凡な才能を開花させ、国学者として大成したのである。
この間、寛政5(1793)年、幕府の援助を得て番町に古典研究の私塾として「温古堂」をつくり、その2年後には幕府の公の機関と認められ「和学講談所」となり、『群書類従』の編集、刊行を行った。 群書類従は正編530巻665冊および目録1冊、続編1150巻1185冊という膨大なものである。 この「和学講談所」は明治時代になっても事業は引き継がれ、現在では東京大学大学附置研究所史料編纂所として引き継がれている。 この「検校」の地位は、盲人(按摩)に与えられた最上級の位で大金を納めて、位を受けることになっていた。その下に「別当・勾当・座頭」という階級があり、さらに細分化されていたという。 座頭といえば勝新太郎の主演映画「座頭市」の題名も、このような盲人の地位に由来するものだった。確か、勝海舟の父親も検校だったと記憶している。 ところで江戸時代の番町を詠った川柳に「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一」と「番町で目あきめくらに道をきき」というのがある。 この何れも塙検校を詠ったものであり、塙検校保己一がどれほど江戸市中で名声を得ていたか分かるであろう。 (大妻女子大の中にあったという「佐野の桜」については、別の機会に書くことにします) この「道をきき」という川柳は当然「学問」を意味しているのであるが、江戸時代は武家屋敷に表札をつけることが禁止されていたため、同じような武家屋敷が立ち並ぶ番町では特に分かりにくかったらしく、「道が分かりにくい番町」という意味もかけられているようである。 ヘレン・ケラーも、心の支えとなった日本人として塙保己一をあげている。 そして、昭和12年初来日した際は渋谷にある群書類従の版木原版を保管している温古学会を訪れています。 最後に保己一の故郷埼玉県では小学生が競う郷土カルタの中で「見えずとも心で学ぶ塙保己一」と詠われている。 ==================================== 塙保己一が紹介されているURLです。 http://www.ksky.ne.jp/~kid/hokiiti.htm 松戸市すぐやる課のサイトです。 http://www.intership.ne.jp/~mcity/matsudo/sugu3/ 遊び心一杯のH氏のHP。行ってみてください。 メルマガのバックナンバーは次のアドレスへ |
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