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=======麹町ウぉーカーNO6========

気が付くと、9月も中旬を過ぎてしまいました。

後4ヶ月で、2002年かと思ってしまうのは、“おじさんサラリーマン”の宿命でしょうか。

すぐ去ってしまう芸術の秋、せめて映画鑑賞くらいは・・・・・。

秋になると「カサブランカ」のハンフリーボガードとか、「冒険者たち」のアランドロン、

リノ・バンチェラの男らしい姿を観たくなります。ところで麹町に映画館ってあるの?

「麹町名画座」ご存知ですか。

月曜深夜にやっている日本テレビの番組の題名?で、とてもマイナーというか、

「キネマ旬報」的な映画を放映しています。

ちなみに、9月17日には1977年のイタリア映画「特別な一日」放映予定でした。

私は映画雑誌でいうと「スクリーン」派なので、一度も訪れたことはないのですが・・・。

H氏、秋と言えば「中秋の名月」と、しっかり純粋日本人的発想。(ゴメン)

今年は10月1日が中秋の名月だそうです。滝廉太郎旧居・1番町6五味坂交番の向かいにあります。

「月」が出たところで、前々任地会津で触れた「荒城の月」の滝廉太郎。

廉太郎が麹町に住んでいたと知るや否や、 運命的な出会いと自ら思い入れ

取材を始めました。

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滝廉太郎旧居と「荒城の月」 <一番町6>

新宿通り麹町一丁目の交差点を靖国神社方面に下って、少し上ると「滝廉太郎の居住跡」という柱の横に、廉太郎のレリーフと御影石に荒城の月」の楽譜が描かれた碑が建っている。(五味坂交番の向かい)

滝廉太郎は従兄滝大吉の家に明治27年から34年にかけて住み「荒城の月」「箱根の山」を作曲した。その後肺結核を患い療養していた九州大分市で23歳という若さで夭折した。

ここで「荒城の月」ができた経緯について少し紹介しよう。

私が会津若松支店に赴任していたとき、若松城(鶴ヶ城)の月見櫓の下にこの碑があった。はじめて訪れた時に、「何故ここに荒城の月の碑が?」と訝しく思った記憶がある。と言うのは、「荒城の月」は滝廉太郎の住んだ大分県竹田市の「岡城」だと思っていたのである。(彼の父は大分県の日出藩の家老を務めていた)

たしかに作曲は滝廉太郎であるが、作詞は土井晩翠である。晩翠が昭和21年に会津女子高の音楽会に出席したときに「荒城の月は旧制二校のとき会津を訪れ、荒れた若松城(鶴ヶ城)の印象を素材とした。」と、話したため、早速寄付を募り、翌年には若松城(鶴ヶ城)の月見櫓の下に、この碑を立てたらしい。一番町6滝廉太郎居住地跡のレリーフ・この脇に「荒城の月」の譜面が彫られた碑がある。

荒城の月は、晩翠の故郷である仙台市の荒れた「青葉城」、廉太郎の住んだ大分県の「岡城」、そして戊辰戦争で荒れ果てた「鶴ヶ城」を見て作ったのであろう。

若松城はこの城を作った蒲生氏郷とその家臣の涙の再開を題材とした「名月若松城」という講談があるほどの月の名所である。荒城の月」の碑が建っている後ろの

石垣は「月見櫓跡」と呼ばれ、ここから見る月が見事である。

戊辰戦争のとき篭城に参加した山本八重子は、この月見櫓の向かいにある小山田という
丘から、板垣退助や大山巌の率いる大砲の攻撃にさらされながら落城寸前のお城の
中で明日よりは何処の誰か眺むらん馴れにし大城に残る月影詠み、
城の壁に刻んだと伝えられている。

山本八重子は後に新島襄と結婚して京都の同志社大学の発展に寄与するのである。

明治に入って新政府は各地の城を取り壊していく。

その中でも明治維新で一番の激戦地となった会津鶴ヶ城は白虎隊等多くの悲劇を生んだ。

「荒城の月」は時代に翻弄された多くの人たちの悲しみを歌いあげたものなのであろう。

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10月1日の中秋の名月。どのように過ごす予定ですか?

満月は2日になるそうです。

ゆっくり「月見で一杯」

いいですね!!

H氏、実はADSL導入で四苦八苦!!産みの苦しみを味わって無事開通。

ただいま絶好調!!

11月には特別号発行と、意気込んでおります。


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