============麹町ウぉーカーNO25=============
梅雨の季節です。 この時期「麹町ウぉーカー取材班」はたいへんです。 そそくさと昼食を終え、「今日は・・・・のケーキ屋見に行こう!」と会社を出ると雨。 大切な昼休み、頭の中はすぐに仕事から取材モードに切り替わるのですが、天気が切り替わってくれません。 昼休みのチャイムとともに、モードが切り替わる「麹町ウぉーカー取材班」 江戸時代は、「時の鐘」が、チャイムの代わりだったのでしょうか。 H氏が、市谷亀岡八幡宮の「時の鐘」を取材しました。 =================================== JR市ヶ谷駅前に出ると、堀の外側に最新のパソコン・液晶テレビが展示されているシャープのショールームがある。 その脇の急な参道を登ったところが「市谷亀岡八幡宮」である。 この神社は江戸城を作った太田道灌が1479年に江戸城西方の守護神として 鎌倉の鶴岡八幡神社に分霊を勧請して作ったものである。 鶴岡に対して「市谷亀岡八幡宮」と呼ばれる。 階段の途中にある「茶ノ木稲荷神社」はそれより600年ほど歴史が古く弘法大師によって開かれたといわれ、東京の中でもきわめて古い稲荷神社である。 眼病にご利益があるといわれている。 本殿と階段との間には、「茶筅塚」がひっそりと立っている。 鳥居は立派なもので新宿区内では唯一の銅製の鳥居であるという。 この鳥居の中央にかけられた「八幡宮」と書かれた額をよく見ると、 本殿の右側には何故か大東亜共栄圏の指導原理といわれる「八絋一宇」と 書かれた碑が建っている。 本殿の隣が防衛庁であることを考えると違和感がある。これについては重たいので別の機会にしよう。 ところで、ここは江戸時代の「時の鐘」が置かれていた場所である。 江戸時代初頭、日本橋石町(現在の日本橋本石町とは異なり室町4丁目あたりである)の辻源七という者が、 その後、少しずつ数が増えて上野や浅草寺、目黒不動などと共にこの 市谷八幡にも「時の鐘」が置かれた。 そして、この鐘が聞こえる範囲の町人は一軒につき4文の「鐘役銭」を 納めなければならなかった。 当時の時間は今のように一日を24等分する定時法ではなく、 一日を昼と夜の二つに分け、それぞれを「4ツ」から「9ツ」までの6等分する不定時法がとられていた。 明け方を「明け六ツ」、暮れの時刻を「暮れ六ツ」とする。 そして昼と夜の中間を「九ツ(ここのつ)」とし、九ツまで行ったら一つずつ減らしていくのである。 「明け九つ」・・・真夜中 「明け八つ」
「明け七つ」
「明け六つ」・・・明け方
「明け五つ」
「明け四つ」
「暮れ九つ」・・・正午
「暮れ八つ」
「暮れ七つ」
「暮れ六つ」・・・宵の口
「暮れ五つ」
「暮れ四つ」
「明け六ツ」は「大きな星がぱらぱらと見える」、 まことにおおらかというか大雑把な時刻である。 季節によって時間の長さが大きく異なるのも、ご理解いただけるだろう。 現在のように「分」とか「秒」とかを争う必要が無かった時代であり、 これで日本中、晴れていようが雨であろうが生活には困らなかったのである。 それより現在の上智大学辺りにあった尾張徳川藩の侍が、 早く役目が終わるように「七ツ」の鐘を早くついたというし、 吉原では遅くまで遊ぶために鐘役に酒を届けて半時遅くついてもらったという話も残っている。 ところで、先日、落語界で唯一の人間国宝柳家小さん師匠が亡くなられた。江戸前落語の第一人者で 落語「時そば」は、ある男が真夜中(すなわち九ツ)頃に屋台の蕎麦屋に行き、15文の蕎麦を食べて勘定をするとき、 それを傍らで見ていた間抜けな男が翌日これを早速試そうとして、気がせって一ツとき前に出かけてしまう。 この落語の後段は生活習慣の変わってしまった現代においては江戸時代の時間概念の理解がないと笑えない落語である。 とはいえ小さん師匠の「時そば」や「強情灸」は見事でしたね。 ご冥福をお祈り申し上げます。 =================================== 夏至が過ぎたばかりです。 昼が長いこの時期、江戸時代風に時を数えると、「一時(いっとき)」が昼と夜で倍違ってきます。 ということは、働く時間も冬至の頃の倍・・・・・・? む〜、サラリーマンとして、江戸時代のほうが良かったのかどうか、 悩むところです。 (大) とき蕎麦と時刻の関係はこちらから http://www.dab.hi-ho.ne.jp/ensou/furrok/mondo.html H氏のHPは、江戸鳥瞰図風に、麹町鳥瞰写真がアップしています。 メルマガのバックナンバーは次のアドレスへ |