===========麹町ウぉーカーNO22=============
雨の週末が続いています。 楽しみの山歩きに出かけられなくて、少々苛立っています。 五月の奥多摩は、木から沸いてくる輝くような緑で一杯なんです。 今週も、天気予報と睨めっこの一週間になりそうです。 この奥多摩と四谷が繋がっていると、H氏から聞きました。 奥多摩を流れる多摩川。 羽村で分水して玉川上水となり四谷まで、延々と43KMを流れてきたとのことです。 今回は、この玉川上水の話題です。 ================================== 玉川上水 紀尾井町清水谷公園には明治11年4月15日に暗殺された大久保利通公の 記念碑が建っている。 その右脇に石で作られた大きな枡がおかれている。 この石製の枡は麹町大通(新宿通り)を改修の折に出てきた 江戸時代の上水設備であるという。 この江戸時代の上水設備というのはいわゆる「玉川上水」である。 武蔵野の羽村から四谷大木戸まで43キロを開削して、江戸市中に水を供給した。 お堀を橋で渡した後に、木樋を繋いで地中に埋め、町のいたるところに樽を埋めてそこで水を汲めるようにして上水を供給していた。 驚くことに大通りの本管から支管を武家屋敷や町屋あるいは長屋等に伸ばしそこに 同じような水貯めようの桶を埋設して、汲み取っていた。 その総延長が85キロ程にも及ぶという。 四ッ谷駅麹町口の三井住友銀行の並びにあるコーヒーショップの角を市谷方面に 入ったところにある酒屋さん。 この隣に酒林と呼ばれる杉の玉をつるしたビルがある。 1階のロビーには、このビルを建てるときに出土したという300年前の木製の樋が ガラスのケースに入れられて展示されている。 八代将軍徳川吉宗の時代、享保7年(1722年)突然、神田上水と玉川上水を除いたそれ以外の上水は廃止されてしまうのである。 その理由がなんともふるっている。 吉宗の政治顧問をしていた室鳩巣(むろきゅうそう)が「明暦以降江戸市中に水道が普及してから・・・・ ただこれには神田・玉川以外の上水は、水の量が少なくなっていて廃止も やむなかったという説もある。 ところでこの玉川上水は現在では武蔵野を流れるのどかな流れを見せているが、 昔はかなりの荒れ川だった様である。 そして毎年、6月19日を迎えると、「桜桃忌」として太宰治の名とともに語られる。 昭和23年6月13日は太宰が山崎富栄とともに三鷹で玉川上水に入水(じゅすい)し 19日にその遺体が2キロほど下流で発見された。 本来命日ではないが19日を最後の作品「桜桃」にちなんで桜桃忌とし、 多くの太宰ファンが命日を悼むのである。 ところが、太宰が水を飲んでいなかったことと、富栄の両足と太宰の膝が組まれて いたことと、太宰の首に縄で絞められた跡があったこと、無理やり引きずった下駄の 痕があったこと、さらに太宰は「グッド・バイ」を執筆中であったこと等から 富栄による他殺説もある。 太宰ファンが多いためかどうも山崎富栄に対する評価は芳しくない。 ところで山崎富栄は昭和19年に25歳で結婚するも、夫は1週間ほど後に三井物産のマニラ支店に単身赴任し、 戦争が終わった22年3月27日に太宰と富栄は初めて会うのであるが、同年7月7日に夫の戦死公報が届く。 そして姓を山崎に戻し、その翌年、太宰と死出の旅にでるのである。 この間に何があったか多くの研究がされているので少し調べてみるのも楽しい。 このように著名な文士の道ならぬ恋は六番町に住んでいた有島武郎が大正12年に 婦人公論の記者波多野秋子と軽井沢の別荘で心中事件が有名である。 数年前、渡部淳一の「失楽園」が社会現象となったが、その中で最後に主人公たちが その有島は六番町の漢方薬で有名なツムラ本社の向かいの路地を入ったところに 住んでいた。 現在は三遊亭円歌師匠の自宅であることはすでにこの麹町ウぉーカーの編集長の レポートで紹介したとおりである(麹町ウぉーカーNO18号 泉鏡花の旧居)。 =================================== 文中の三遊亭円歌師匠は落語協会の会長です。 そして名誉顧問の柳家小さん師匠が亡くなりました。 哀悼とつもりで通夜の行われた18日、鈴本演芸場へ落語を聴きに出かけました。 高座に上がる柳家一門の噺家は、皆黒い紋付を羽織っていました。・・・・・・・黙祷。 でも、噺はいつものとおり。寄席は笑いの渦でした。 H氏のホームページを訪問してみてください。 「山梨の温泉」が追加アップされています。夏休みにいかがですか。 メルマガのバックナンバーは次のアドレスへ |