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===========麹町ウぉーカーNO16=============

都心でありながら、静かな屋敷町だった番町〜麹町界隈。

明治初期から多くの知識人や文化人も住むようになりました。
現在の六番町には、幸田露伴が「ここは文人町ですね」と言ったほど、たくさんの文士が居住していました。泉鏡花は明治43年(1910)に六番町に引っ越してから、66歳で世を去るまでの約30年間をこの地で過ごしたそうです。

右隣には菊池寛、その隣が白樺派の作家・有島武郎・有島生馬・里見 の三兄弟が住んでいました。
ほかにも、与謝野鉄幹・晶子夫妻が明治44年(1911)から昭和2年(1927)まで現在の四番町に住み、その近くには武者小路実篤、永井荷風、国木田独歩らが住んでいました。
朝早く静けさの保たれた通りを歩いていると、この街の気品がそこはかとなく感じられてきます。
泉鏡花の居住地

今回は、泉鏡花の居宅跡(六番町)をH氏が訪れました。

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JR四谷駅前麹町6丁目にある三井住友銀行の隣にあるコーヒーショップの路地を市谷方面に入ると六番町である。麹町大通から200メートルほど歩くと平成13年7月16日までは法政大学校友会館のあったが、現在は取り壊されて駐車場になっている。

ここが「高野聖」、「天守物語」、「婦系圖」などで知られる「泉鏡花」が明治43年から亡くなる昭和14年まで住んだ場所である。

今では以前法政大学校友会館の前に立てられていた説明看板が駐車場の自動料金収納機の脇にひっそりとくくりつけられているだけである。私はたまたまこの建物を取り壊す日に遭遇して「何かの縁かな?」と思いながら呆然と見ていた。

天主物語の舞台姫路城。出張のついでに早起きして撮ってきました。

 

鏡花は明治6年に石川県金沢市に生まれ17歳で上京して尾崎紅葉の弟子となる。

苦労の末に文壇で認められるに至った鏡花は明治32年の新年会の席で神楽坂の芸者桃太郎(本名すず17歳)と出会う。

事実上、夫婦として暮らし始めた鏡花と「すず」であったが、そのことが紅葉の耳に入り「すずと生活を続けるならば破門する。」といわれ、傷心のすずは一人元の置屋に戻っていく。そして紅葉が亡くなったあと、すずは芸者を辞め晴れて鏡花の妻となる。

そののち鏡花は精力的に執筆活動に取り組む。このすずとの体験を背景としたのが「婦系圖」であるといわれている。晩年、体を壊し、伊豆で静養し、この家に帰って昭和14年7月67歳で逝去するまで暮らすことになる。

 

この泉鏡花の居宅跡から漢方薬のツムラ本社、日本テレビにかけての通りには有島武郎兄弟、武者小路実篤、菊池寛等多くの文人が住んだ場所で「文人通り」といわれる。

四番町にある千代田区立番町図書館の番町の白地図に多くの文人たちが創作の日々を過ごした場所がマーキングされている。これを頼りに好きな文人の住んだ場所をめぐってみるのも楽しいのではないだろうか。番町の文化人

 

私はこれを書くにあたって鏡花の作品を始めて読んだ。はっきり言ってロマン主義的な独特の難解さは否めない。ただ女性に対するこだわりは異常なほどである。

私は3冊しか読んでいないが「高野聖」の中で鏡花が求めた永遠の女性像はかくのごときものだったのではないかと思われる記述を見つけた。

「優しい中に強みのある、気軽に見えてどこにか落ち着きのある、

なれなれしくて犯しやすからぬ品のいい、

いかなるときにもいざとなれば驚くに足りぬという身に応えのあるといったような

婦人(おんな)」であると述べている。

江戸っ子芸者のお姉さん、姉御を想像させる粋のいい女であろう。

鏡花が尊敬する師匠の反対に遭い、身をひき、もう一度神楽坂の芸者になり、尾崎紅葉がなくなった後に結婚した最愛の妻すずはこのような婦人(おんな)だったのだろうか。

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「番町文芸地図」ご存知ですか。

番町まちづくり文学館というサークルで発行しているそうです。

是非一度読んでみたくて探しています。

どこで手に入るのかご存知の方、一報ください。

 


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