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==============麹町ウぉーカーNO10=======

H氏とたまに昼休みのコーヒーブレークです。

三菱銀行麹町支店横のコーヒー屋さんで、「麹町ウぉーカーのテーマ何にしますかねえ〜」と冬に向けての編集ミーティングとなりました。

いままでパッと閃きでテーマを決めてきたので、考え込んでも出るのは「う〜ん」という唸り声ばかり。

結局、又今度とコーヒー屋さんを出ることに・・・・。

出たところで、麹町大通案内図の案内板が目に入りました。

そして何の気なしに観てみると「新麹町の人々」という題で忠臣蔵討入りの絵が・・・・・?

内容を読むと、なんと討入り前、麹町に赤穂浪士が隠れて住んでいたとのこと。

H氏の一言「冬は忠臣蔵でしょう!」

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麹町と赤穂浪士

日本人にとって師走になると必ず思い浮かんでくるのが

赤穂浪士の討ち入りすなわち忠臣蔵であろう。国芳作の討ち入りの絵

忠臣蔵に関する江戸時代の文献によると、

討ち入りに参加した浪士の隠れ住んだ場所に「麹町」や「新麹町」の地名を目にした。

麹町6丁目に吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)、麹町5丁目に富森助右衛門正因(とみもりすけえもんまさより)、麹町4丁目に間新六光風(はざましんろくみつかぜ)等の名前である。

ただこの頃の麹町というのは、現在の平河町、つまり麹町大通から平河大明神に向かう貝坂のあたりの門前町であろうといわれている。

江戸時代には新麹町と呼ばれた時があるようで、門前町の賑わいの中に身を潜めて本懐の日を待っていたのであろう。

 

まず一人目は麹町6丁目に住んでいた吉田忠左衛門である。討ち入り時62歳の高齢であり、副官としての役割を果たし、討ち入りの時には裏門で内蔵助の長男主悦(ちから)を助けた。

ここが麹町グループの密会の場所であったといわれる。

(戒名は「刃仲光剣信士」)

二人目は麹町5丁目の富森助右衛門正因。

歳は33歳、弁舌爽や且つ冷静で常に懐に20両の金を入れて「使番」という役目を果たせるように心がけていたという。討ち入りの後は吉田忠左衛門と共に大目付仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)に討ち入りの口上書を届けた人物である。

(戒名は「刃勇相剣信士」)

次に麹町4丁目の間新六光風は父喜兵衛と一緒に麹町に住み、兄重(十)治郎と共に打ち入りに参加している。

この間新六は切腹した46人の中で唯一小刀を腹に突き立てて切腹している。

全員切腹しているのに「唯一・・」というのも不自然なのであるが、元禄時代の切腹は形ばかりになっており三方と呼ばれる台に載った小刀を取り腹に当てようとしたところで首を打たれるのである。が、新六は三方の小刀を取るなり腹に突き立て一文字にかき切って切腹した。

(戒名は「刃模唯剣信士」)

そして新六の遺骸は義理の兄に貰い受けられて菩提寺である築地本願寺に埋葬された。(本願寺の法名は「釈宗貞信士」)

ちなみに新六の兄重(十)治郎は吉良邸の炭小屋で上野介に最初の槍の一突き負わせた功労で泉岳寺に向かう途中その槍に上野介の首級をくくり付ける役を果たし人物である。

最後は麹町4丁目に住んでいた中村勘助である。

映画やテレビでは吉良邸の庭で切りあいをしているときに必ず一人の義士が切られて池に落ちる場面が出てくる。この人物が中村勘助である。彼はその際手の指を切られているが、池に落ちた後、吉良の武士が「止めを刺さずにその場を去って命拾いした。」という記録が残っている。

(戒名は「刃露白剣信士」)

 

ここで赤穂義士事件についてあえて書く必要もないであろうが、「生類哀れみの令」で有名な「犬将軍」徳川綱吉の時代、元禄14年3月14日、江戸城本丸松の廊下で浅野匠之守長矩が吉良上野介義央を切りつけ、その日のうちに切腹させられる。

しかし相手方である吉良上野介には何のお咎めもなかった。

その1年半後の12月14日から15日の早朝にかけて主君の遺恨を晴らそうと47人の浪士が本所吉良邸に討ち入り吉良の首を上げ本懐を遂げるという史実である。

 

しかし、われわれが赤穂事件を連想する「忠臣蔵」という呼び名は史実からストレートに出てきたものではない。

これは事件から半世紀後の寛延元年(1748年)に上演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の題名で始めて出現した言葉である。

私は「忠臣蔵」を「忠臣である内蔵助」と理解していた。

しかし、「忠臣蔵」は江戸時代の寺小屋で使われていた「いろは47文字」を「四十七士」に重ね合わせ、「忠臣の手本(鑑)」としてそれが多く納められている「蔵」としたのである。

何の因縁か、この仮名手本忠臣蔵がはじめて大阪で上演されたのは「松の廊下刃傷事件」の47年後のことであった。

 

さて、冒頭に紹介した麹町に隠れ住んだ義士達の戒名をもう一度ご覧頂きたい。

見ていただくと「刃」と「剣」が入っている事に気づかれると思う。これは46人の義士の戒名すべてに入っている。

彼らの戒名は泉岳寺の僧侶がつけたと言われるが、「刃」と「剣」の文字は、曹洞宗で「命を投げ出すほど重要なこと=すなわち禅の修業のこと」を意味し、忠義を尽くすこともそれと同じという意味を託したのであろう。

 

赤穂事件は史実であるが忠臣蔵の一部はフィクションである。ただ、日本人であれば誰もが知っているほど事実を離れて元禄時代のヒーローたちとして一人歩きしている。それは日本人の精神文化に大きな影響を与えている。ただ、これに参加した人、しなかった人、さらにかかわった人、多くの人達の人生に大きな影響を与えたのは事実であろう。

今回調べてその一人、一人を見てみると、また違った面白さを発見できるのではないかと思う。はっきり言って、はまってしまうであろう。

 

次回はこのメルマガの付録として超要約「仮名手本忠臣蔵」を紹介したいと思う。

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忠臣蔵の話は、編集担当の私も、少々はまり気味になってしまいました。

赤穂城開城前に逐電(逃げて隠れる)したと言われている大野九郎兵衛という城代家老に興味深々です。

昭和20年終戦直後、GHQが「仮名手本忠臣蔵」の上演を禁止したという話もなんとなく理解できます。

忠臣蔵に自説をお持ちの方、是非返信メールお願いします。

さてH氏のHPも秋の装いです。

いつから冬に変わるのでしょう。楽しみにしています。


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