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金山町、昭和村、只見町

金山町

この町は我が家にとってホームベースの会津若松市についで重要な町になった。この町の町長さんはアイデアマンらしく会津地区の自治体の中では最も活性化しているように見える町である。

平成9年春、私に遅れて引っ越してきた家族が、新聞に載っていた沼沢湖の高台にある妖精美術館の「紅茶セミナー」に参加するために訪れたのが最初であった。ここを初めて訪れたとき、妻と二人感激した光景を今も忘れない。奥会津の春を迎えたばかりの若々しい緑の山々が、前日来の雨に霞み、その山の深さ以上にしっとりとした荘厳な雰囲気を醸し出していた。そしてそこには確かに何かが、いやそれはもののけではなく、フェアリー=妖精達が木々のこずえから草の葉の陰から私たちをのぞき見ているような不思議な気持ちにさせてくれた。

この妖精とは半年後にもう一度出会うことになる。後に述べるスキーのチームに参加して初めて美術館の向かいの山にあるスキー場に来たときのことである。そのときの感激を、私は「東山スキースポーツ少年団」に子供達が(いや家族全員である)参加した1年を書いた「Winter Game」というレポートに次のように書いている。

「妻と二人、一緒にリフトに乗り、一番上まで昇り、一瞬、息をのみ、顔を見合わせ、時間が止まった。・・東側の黒々とした山肌と空との切れ間から朝日が薄いピンク色に縁取るように輝き、ギリシャ最古の叙事詩「オデッセイア」の記述を借りるならば「朝のまだきに生まれ指バラ色の女神が姿を現す」瞬間の輝きを放っていた。

 あまりに澄み切ったが故に空の高さがわからないほど深い青空で、その「グランブルー」の中から白い羽をつけたフェアリー(妖精)が舞い降りてきそうな不思議な雰囲気の山頂である。・・・・確かに金山町には妖精がいる。」

妖精美術館には世界中の妖精の絵や人形等の資料が整然と集められている。この日、天気が不安定なためセミナーは予定していた美術館の前の芝生ではなく館内で行われることになった。館内には早稲田大学生の奏でるチェロが響き渡り雰囲気をかもし出していた。埼玉からこられた講師がそこで紅茶を立て方や作法などを語り手作りのケーキを出してくれる。さらにブラウニーケーキにまつわるヨーロッパの悲しい妖精の物語などが語られていた。妻は翌年もこのセミナーに埼玉の友人を招待して一緒に参加した。

ところでこの妖精美術館のある沼沢湖には熱塩加納村で紹介した会津領主葦名氏の祖「佐原十郎義連」が湖に住む大蛇を退治したと言う伝説がある。これにちなんで湖畔には大蛇資料館があり8月の第1土日に湖水祭りが開かれる。

そしてこの年もう一つ貴重な体験をした。それは金山町と只見町との境にある滝沢川で「第一回滝沢渓流祭り」が開催されることを新聞で知り、早速家族で出かけた。目的は子供達の渓流釣りである。私が会津に転勤することを一番喜んだのはその年小学校6年生になる長男で、ルアーフィッシングに興味を持ち始めていたため会津の地図を見ては「スキー場はいっぱいあるし、湖が多いから釣りができる。」と喜んでいたのである。

私たち夫婦は釣りには興味がないため、子供たちをおいて地元の人に連れられて滝沢川の上流の滝まで散策することにした。7人ほどのメンバーであったが私たち2人を除いて皆地元の人たちであった。リーダーの斎藤さんという山の専門家に連れられて1時間ほど歩き大きな石の洞穴に着き、この山やこの渓流の話や昔のダムができる前の清流であった只見川について話を聞いた。すると私たちの持っていた無線機に次男から「7N3BMJ(私のコール)こちらは7K4GGT(次男のコール)です。TPV(長男コール)が大きな魚を釣りました。」と山の谷間のため電波が切れ切れではあるが興奮した声が聞こえてきた。急いで釣りをしているエリアに行くと、子供たちが興奮した大人たちに囲まれて釣りをしていた。そして子供達が自慢げに見せた魚は50センチ程もある大きな虹鱒だった。大人たちもあまりの大きさにビックリして彼らのところにきては話し掛けていた。

長男はルアーをはじめて、本当に最初のヒットがこの大きな虹鱒になった。その後にも5匹ほどの虹鱒をヒットした。また次男も生まれて初めてルアーによって虹鱒を数匹ヒットした。そして計量の結果、長男が大人たちを押しのけて大物賞を獲得し大きなトロフィーをもらってきた。この日は子供たちにとって会津にきて強烈な思い出の一日になった。

翌年第2回大会が開かれたがそのポスターには長男の真之介が大きな虹鱒を持って誇らしげに微笑んでいる写真が掲載されていた。

そして我家が会津を離れる1週間前に天栄村の「レジーナの森」というキャンプ場のフィッシングサイトに朝早く出かけ、初めて釣ったのと同じくらい大きな虹鱒を釣り会津でのフィッシングを締めくくることができた。

その時参加者にこの地区の名物炭酸水が振る舞われていた。甘味のないサイダーである。この地区では炭酸水が湧く井戸がある。妻と二人で只見を訪ねた帰りにはじめてこの井戸を発見した。JR只見線会津大塩駅の側の国道252号線を少し山際に入ったところにその井戸はあった。しかし、そこには「この水は飲用にはならないため、自己の責任にて。」という看板があった。

フェアリーランド金山スキー場

私達は会津にきて「東山スキースポーツ少年団」に参加して競技スキーの世界に身を置いた。会津若松市には平成9年の春まではスキー場があった。東山温泉から車で20分ほどのところにあった「おおすごスキー場」である。しかし、このスキー場は経営不振で同年をもって閉鎖されることになったため、私たちが参加したスポーツ少年団もポール練習ができるスキー場を求めて会津若松から50キロ以上あるここにやってくることになったのである。

このスキー場はその名も「フェアリーランド金山スキー場」最初リフトが2本の小さなスキー場であった。先ほど紹介したように、やはり妖精の住むスキー場なのである。しかし、ここの町長の判断でこのスキー場は将来をになう少年レーサー達に練習の場と試合の場を与えるという戦略に基づいていた。会津のほかのスキー場は競技レーサーにゲレンデを開放しようとはしなかった。このスキー場は会津若松から遠いため、それほど多くのスキーヤーが来るわけではない。ところが土日はここのクラブハウスはヘルメット姿のレーサー達とその関係者でいっぱいになる。それに福島県内の大きなスキーの公式戦「県スポ少大会」と「JTB杯」がここで開催され、県下のほとんどのレーサー達が集まる。民宿は全て埋まってしまう。地域の経済戦略としても成功しているのである。

またここはスキー大会のための専用の施設がある。山頂のログハウスの小屋はスキーの試合のスタートハウスであり下部のゴール地点には大会の進行を指揮し成績を集計する専用の小屋がある。ワールドカップが開かれるスキー場でも専用のスタート小屋を持っているところはほとんどないという。

子供達は10年、11年のスキーシーズン1月から3月まで毎週土・日はこのスキー場にポール練習と試合にやってきた。平成12年のシーズン私は甲府市、家族は埼玉に住んだためここに2回しか通うことができなかった。しかし、我らがチームの内輪の大会が開かれたため3月に家族でやってきてこのスキー場で会津での最後の滑りをした。

このスキー場は我家に雪国会津で過ごした最高の財産を与えてくれた。子供達は人生の財産となる滑りを教わり、長男が中学2年生でSAJのバッジテスト1級に合格する足前にまでに育ててくれた。そしてここで一緒に過ごした会津東山スキースポーツ少年団やそのスキー関係者との付き合いは私たち家族の人生の財産となったことは疑いがない。

*2004年3月21日と28日日本テレビの「天声慎吾番組で」というSMAPの香取慎吾とキャインーが出る番組でこの町が紹介されています。

昭和村

この村は会津盆地の南にきれいな三角錐の形をした小野ヶ岳とその右側の大きな広がりのある博士山の大きな山が目に付くが、その博士山の裏側に位置している。

会津からこの博士山を越えて昭和村に入る道と南会津の田島町から入る道は冬は雪で通行止めになるため、只見川沿いの金山町からしか入ることができず、会津若松からは1時間30分以上もかかる。その意味では会津のチベットと呼ばれるのもうなずける。

この村はカラムシ織りで有名である。1m50cmほどのカラムシを夏場に刈り取りその茎の一本づつ剥ぎ取り、糸引きがなされる。それを織姫と呼ばれる女性たちが機で織るのである。カラムシは軽くて弾力性にとみ肌触りがさらっとしており麻に似ている。かなり高価な織物である。カラムシは昔、日本中いたるところで栽培されていたらしいが現在では沖縄と本州ではここ昭和村だけである。ところでこのカラムシを織っている織姫であるが高齢化が進み若い織姫がいなくなったため公募で全国から募集して研修したのちもこの地に残り暮らしている女性が多いと聞いた。このカラムシについては昭和村役場の裏にある「カラムシ会館」で見ることができるし、カラムシを刈り取りから糸引き、そして織まで経験できる体験コースもある。

追記:幕末から明治の英国外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新(下)岩波新書」の11ページにアーネスト・サトウが新潟を訪ねた折、「新潟で「会津産のモクサ塗りという珍しい漆器と、もっと奥地の村落で織られるカラムシを買った。」書かれている。江戸の終わりにはカラムシはこの地方の名品だったようである。アーネスト・サトウは桧枝岐村にある尾瀬保護の恩人である武田久吉記念館の武田久吉の父であると共に東京千代田区の千鳥ヶ淵の桜を最初に植えた人であり外交官であると共に日本研究の第1人者である。

またこの本の中に野口豊蔵という会津藩出身者がサトウの用人として雇われて生活を共にしており、サトウに信頼を得て激動の幕末を供にした様子が様子が描かれている。(2008.8.19)

この昭和村には変わった民宿「へんじん房」がある。会津でこの民宿の話を聞いて妻と二人訪ねてみた。ところがその日は営業をしていなかった。私達が若松から訪ねてきたことを話すと中に入れてお茶を出してくれた。神奈川で建設業をしていたとのこと、昼間は注文しておくと昭和村のそばを食べることができる、今は町の小さな寄り合いの場所になっていることなど楽しいひと時を過ごすことができた。私の燻製に話になり次に来る時に届けるという約束をしたのだがその後たずねることができなかった。

その他古い民家の廃材を使った家を集落がある。この集落ができたばかりで廃材を使ったとはいえ家自体に落ち着きというか風格が出るまでには至らず、回りも分譲したての庭先のようにまだまた落ち着いた町になっていない。とはいえ数年するとこの廃材をつかった家がこの山奥の自然に溶け込んだ場所になっていることは想像に難くない。

只見町

会津の一番西に位置し、会津から新潟県小出に抜ける山を越えれば新潟という県境の町である。

尾瀬の沼の水を集めた三条の滝から流れ出した水は奥只見湖、田子倉ダムを経て只見川となって日本海に注いでいく。これらのダムは昭和30年から首都圏の電源を開発するために建設された。首都圏の生活はこのような会津の山奥のダムによって一部が支えられていることに驚かされる。田子倉ダムはキャンプ場やボートの盛んな場所になっている。

国道252号線を金山町から只見町に入ると会津塩沢駅がある。そこには戊辰戦争で名をはせた悲運の武将長岡藩家老河井継之助終焉の地である。長岡藩は戊辰戦争において当初中立の立場を守り、旧幕府軍と新政府軍を和解させようとしたが、征討軍軍監長州藩士岩村精一郎に聞き入れられずに奥羽越の列藩同盟を結成し、総督となって各地で善戦した。しかし、占領されていた長岡城を奪還した際、右足に銃弾を受け奮戦するも長岡は再び西軍に占領された。そして会津で再起を図るべく八十里越えをして只見の塩沢に辿り着いたが傷が悪化してここで死去したのである。

会津塩沢駅から少し下流に下った場所が奥会津の只見川の四季と自然を代表する写真撮影のポイントになっている。流れが止まった雄大な只見川の側を国道が走り、その隣をJR只見線が走っている。早春の新緑、晩秋の紅葉、時間が止まったような奥会津の雪がこの只見川の水面に雄大に映る場所である。冬の朝早くここを走っていたとき、前方から除雪車が道路越しに線路の雪を吹き飛ばしてきた。その吹き飛ばされた雪のトンネルの中をくぐり抜けた時は「雪深い会津でもでもなかなかできない経験だね」と言って感激したことがある。

只見町の入り口には東北のマッターホルンと呼ばれる蒲生岳が鋭くそびえている。私はこの町に雪が解けた4月の始めに仕事で訪れた。里には雪は無かったが山に残る只見はまだ肌寒かった。只見の町から南郷に向かう途中の橋のたもとで妻の作ってくれたおにぎりを一緒にきた社員と2人で食べていると、「県の人かいね。そんなところで食べてないで家に上がってお茶でも飲まんね。」とおばあちゃんが声をかけてくれた。スーツ姿で川を見ているのが川の状態を見にきた県の役人に見えたらしい。このおばあちゃんにこの河原にタラノメやこごみが採れること、目の前を飛んでいった大きな鳥が「ヤマセミ」でこの辺では多く見かけることなど教えてもらった。

2008年8月19日写真追加


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