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若松城(鶴ヶ城)  

 若松城は、約600年前の芦名直盛公の時代に「東黒川館」として築かれたのが始まりとされている。蒲生氏郷の時代には8層だった。その後地震により崩壊し、加藤氏の代に修復して、5層のお城の型が整った。

 芦名氏の後、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤明成等の名だたる戦国武将がこの城の主となった。そして、加藤氏の後、徳川家康の孫で3代将軍徳川家光の異母兄弟保科正之公が封ぜられ、その後は子孫である松平氏の居城となった。

 そして、慶応四年(明治元年)戊辰戦争の時には西軍の激しい攻撃に晒されながら1ヶ月間に及ぶ篭城に耐え、名城としての名を天下に知らしめた。ただそれだけではない、関東以北でこのような立派な五層の天守閣を持っているのは江戸城のほかはこの鶴ヶ城のみなのである。さらに蒲生氏郷は安土城を作った織田信長の娘を妻としているのであり安土城と同じ金箔瓦が使われていたという意味でも名城といえるのであろう。

 明治7年に政府の命令により取り壊されたが、昭和40年に現在の形に再建された。

 因みに若松城と鶴ヶ城の呼び名についてはいずれも正しい。このお城は蒲生氏郷によって「鶴ヶ城」と命名されている。ただ、昭和9年に国の重要史跡に指定された時に「若松城跡」とされていたことから、今でも公的な文書では若松城と記されている。

 まず、お城の北側の、裁判所のある交差点を渡ると大きな「お城入り口」の柱があり、お堀の桜並木が正面に見える。門柱の左側には「会津葵」というお城ご用達のお菓子を収めていた蔵作りの老舗のお菓子屋がある。しっとりしたカステラの中に餡子の入った「会津葵」という菓子は、なかなかの一品である。ただそれなりの値段はする。その他に綺麗な箱に収まった「干菓子」がお勧めである。

 さらに進むと、同菓子屋の別館というべき「シルクロード館」があり、石で作られた蔵の中にシルクロードを運ばれてきた品が置かれており、塩コーヒー等遊牧民の飲み物を提供しており、ゆったりした時間を過ごすことができる。何故に会津でシルクロードなのかという疑問が出る。この城を鶴ヶ城と命名した城主、蒲生氏郷公は「レオ」という洗礼名をもつキリシタン大名であり、山国会津に西方の文化が流入したのであろう。私は会津に来て初めて「会津葵」のお菓子を食べた時に「何故この山国にカステラの御菓子が?」と想ったがこのような事が答えなのであろう。

 この「会津葵」というカステラ菓子は普通のカステラの様にパサパサしておらず、本場長崎のカステラのようにしっとりしている。

 「追手門」の頑強な石の門を入るとそこは「北出丸」である。この北出丸には「武徳殿」がありそこで剣道や空手の修練に励む子供達の声が聞こえる。その脇には「弓道場」があり、古き時代の会津の精神を彷彿とさせる場所である。

 城内に入る「椿坂」を渡きるとそこは天守閣のある場所にでる。その坂を渡りきった右側の石垣に見た目にも一辺が三メートル近くある大きな石がある。これは「遊女石」といわれている。

 鶴ヶ城の石はお城から東に1キロほどの東山温泉の入り口にある天寧町石山から運ばれてきたもので、大きな石を石工に運ばせるときその石の上に遊女達を乗せ、躍らせて、元気付けて運搬したものらしい。

 ところで、鶴ヶ城の石には「×」や「+」の印のついた石がある。案内人の方に「お城で不思議な話はないのですか?」と尋ねたら教えてくれた。探してみたが西出丸で三つ、三の丸口で二個しか見つける事ができなかった。18個は確認されており、なぜこの印があるのか謎らしい。ある大学の先生は「城地安泰、怨敵撃退を願う呪符」とう説を提示しているらしい。私はこの石を刻んだ石工の落書きであって欲しいと思っている。

 城内に入り、観光案内所がありそこでお願いすると無料で城内を案内してくれる。各自がかなり勉強しておられ、薀蓄のある話しを聞かせてくれる。

 天守閣に向かう為には、人の流れに沿って左折することになるが、そのまま直進すると、

本丸への正門ともいうべき門柱や扉をすべて鉄板で覆っている鉄門(クロガネモン)がある。

 会津戦争では土佐藩の板垣退助や薩摩藩の大山巌が南東にある小田山からストロング砲で弾を撃ち込み城内のどこも安全な場所がなく、重臣達はここで会議を開いたといわれている。あまりの砲撃の激しさに、女性はもしもの時の恥じらいから厠にいくのもはばかられた伝えられている。

 これを入ると本丸の大きな広場が現れる。現在、鉄門の上は南走長屋と日干櫓の再建が進められている。この再建は天守閣の反省から(天守については安く作りすぎたとの批判がある)、本格的なものになっている。

 私はどちらかというと、三の丸駐車場からお堀を渡り、二の丸に入り「廊下橋」を渡り本丸に入るルートが好きである。二の丸に入るとそこはテニスコートになっており朝早くから多くの人達がテニスを楽しんでいる。道の右側は一段下がっているがそこもテニスコートになっている。「伏兵丸」と呼ばれている。

 本丸と二の丸との間に架かる朱塗りの欄干の橋が「廊下橋」である。ここから天守閣の三層目より上が見える。青空を背景にしてくっきりと見える天守閣にはハットさせられる。この橋は攻めてくる敵の攻撃が激しくなると、切り落とすことができたらしい。この間のお堀と石垣が一番高く、忍び返しになっている。ここから歩を進めると天守閣が見えてくるとともにその前に本丸の広場が広がっている。

 天守閣を右手に見て本丸の左手奥には千利休の息子「少庵」の庵だ茶室が移築されている。千利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れたため切腹させられ、蒲生氏郷がその息子(実は後妻の連れ子になる)を会津で匿い、その際、利休の弟子で「千家十哲」に数えられた茶人でもある氏郷の求めに応じ、亡き千利休好みの草庵風の茶室「麟閣(リンカク)」を造ったのである。

この麟閣は歴代の藩主にも大切な茶室として伝えられ、明治7年に鶴ヶ城が取り壊される時に、会津石州流の家元森川家に払い下げられたものが、平成二年旧跡地に移築されたものである。

 彼が会津にいたのは二年ほどであるが、氏郷が秀吉に働きかけて京に戻ることが許され、茶道の千家を再興した。少庵の孫達によって、表、裏、武者小路の三家が興り、現在の茶道の礎ができた。会津での二年間がなければそれはなかったのかもしれない。ここでは抹茶のお手前を楽しむことができる。

 この麟閣の隣には「荒城の月」の碑がある。私はここをはじめて訪れた時に、「何故ここに荒城の月の碑が?」と訝しく思った記憶がある。荒城の月は滝廉太郎の住んだ大分県竹田市の「岡城」だと思っていたのである。ところが、たしかに作曲は滝廉太郎であるが作詞は土井晩翠であり「旧制二校のときここを訪れ、鶴が城の印象を素材とした。」と、昭和21年に会津女子高の音楽会に出席したときに話したため、早速寄付を募り、翌年にはこの碑を立てたらしい。

 晩翠の故郷である仙台の人達は、子供の頃から荒れた青葉城を見ていたから荒城の月の本籍は仙台にあると思っているに違いないと思い、お城の謎の「×印」を教えてくれた案内人の方に聞いたら「確かにそのような話しがあります。ただ本家争いはしていません。」といっておられた。

 「麟閣」と「荒城の月碑」の後ろの石垣は「月見櫓跡」と呼ばれている。ここから見る月が見事だったらしい。戊辰戦争のとき篭城に参加した山本八重子は落城寸前のお城の中で次ぎのような歌を詠みお城の壁に刻んだと伝えられている。

明日よりは何処の誰か眺むらん馴れにし大城に残る月影

「明日よりは・・」とあるところから(このくだりには諸説在るらしい)降伏が決まった夜にここで詠まれたのではないかと思っていた。後に調べたところ、三の丸にあった雑物庫に簪で刻んだものだと分った。

 山本八重子は後に新島襄と結婚して京都の同志社大学の発展に寄与するのである。彼女は男勝りで、父親が砲術師範だったため子供の頃から銃の扱いにたけ、篭城に際してもスペンサー銃を使って活躍したという。

 ところでこれを書いていてひとついい話を思い出した。「名月若松城」という講談である。これは松坂の領主だった蒲生氏郷が相撲を取ろうとした時、他の家臣は手加減したのだがたしか梶原(?あまり自信はない)という家臣は実直で負けようとはせず、氏郷を負かしてしまう。その後の発言が災いとなって、松坂藩を出奔せざるを得なくなってしまう。これは氏郷の誤解だった為氏郷は彼を探させたがとんとして行方が知れなかった。それから月日は過ぎ氏郷は会津92万石の大名になり何かの宴の席に10数年振りに彼が尋ねてきて、涙の再会を果たすという話だったと思う。この話もこのお城からの月の眺めが素晴らしいことを知っていた作者によるのだろう。

  さて天守閣に話しを戻そう。昭和40年に当時の1億5236万円あまりの工費をもって再建された。現在この中は第三層までが郷土資料館になっており、一層が会津の歴史、二層が武器、武具、甲冑等、三層が戊辰戦争に関する資料が整然と陳列され、四層には松平容保公と19人の白虎隊士の肖像画が飾られている。

 第五層は展望台になっており、城下から四方の会津盆地が一望できる。ほとんどの観光客は「飯盛山はどこ?」といいながら探している。展望台からは北東の方角に「磐梯山」が悠然とそびえたち、その前に小さく「飯盛山」が見える。北には雪をいただいた「飯豊連峰」が北をさえぎり、東には「背炙山」が南北に長く連なる。南西にあるの住宅街の裏山はこの城が落ちる原因となった「小田山」があり、その中腹の少し切り開かれた場所が戦争当時の砲台跡であり現在では展望台になっている。

 会津盆地の南には「小野ガ岳」、南西には「博士山」がそびえる。盆地の中央には南北に阿賀川が流れ日本海に流れて行く。そこには会津の広い平野が広がっている。南西には「本郷焼き」の会津本郷、その先には「伊佐須見神社」や「高田梅」で有名な会津高田、西には蛍の名所北会津村、その山際に広がる新鶴村、北西には「高田馬場の決闘」や「忠臣蔵」で有名な堀部(中山)安兵衛の生まれた会津坂下(バンゲ)町、北の飯豊(イイデ)連峰の手前には蔵とラーメンで有名な喜多方市やその他の会津盆地の町々が広がる。

 展望台から目を下に向けると、多くの木々の緑がお城を覆っている。この鶴ヶ城は春には桜で埋まり、冬は雪で覆われる。桜で埋まる鶴ヶ城は全国的に有名であり、これを求めて多くの観光客が訪れる。その為桜の季節になるとお城は桜用のライトアップが施される。このライトアップは見事である。是非鶴ヶ城の夜桜を一度見ることをお勧めしたい。

 そしてその開花は、会津若松市のホームページで桜が散るまで公開されている。鶴ヶ城での花見は上野公園などの賑やかなどちらかというと騒がしい花見とは異なり比較的静かなものである。ただ桜の季節に静かに花見を楽しむ人々の間を我が物顔で神輿を担ぎ練り歩くのはいささか興ざめである。会津には祭りが多く、夏場になるとどこの町内でも大小の祭りが行われるが、浅草の三社祭のように神輿がメインの祭りが、特に在るわけではない。神輿を楽しむ人たちが楽しみとして集うことには異論はないのだが、ところが比較的静かな花見の場に「桜だ!花見だ!神輿だ!」といってくりだすのはいささか考えさせられてしまう。

 会津では1月10日に「十日市」が江戸時代から連綿と続き、どんな吹雪の日でも開かれ多くの人達が集まる。夏祭りの「お日市」は町々の小さな神社を中心として毎日のようにいたるところで、屋台が出て人々が浴衣姿で集っている。

 本来祭りとは、宗教的なところから発し、人々が五穀豊穣、家内安全などを祈願し、日頃の苦労を癒す為のものであった。祭りは文化である。

 ところが、今の会津の祭りは本来の在り方から多少離れて観光客集客の為な「イベント」的なものになっているようでならない。地元の人に支持され観光客が楽しめるものなら、昨年(98年)の「10万人会津夏祭り」のように3日目の踊り手が数百人程ということはあり得ないと思う。

 もともとこの鶴ヶ城には桜の木はほとんどなかったという。戊辰戦争の後、お城が払い下げられそれを管理していた人物により、桜が植えられたと博物館前の記念碑にかかれている。

 鶴ヶ城には桜も似合うが雪も似合う。飯盛山から真っ白な鶴ヶ城を見るのもなかなかであるが、雪を踏みしめて朝早くの静かな鶴ヶ城も格別である。風雅を友にするには雪の鶴ヶ城は最高のロケーションであると思っている。

 戊辰戦争はこのお城を中心にいろんな悲劇を生んでいる。

その中で一番有名なのが、飯盛山の白虎隊の自刃であるが、私はどちらかというと白虎隊より西郷頼母(タノモ)の妻子の自害がそれ以上の悲劇であろうとおもう。お城に入る北門の前に北に向かう大きな通りがあり左側は裁判所であるが,その向かい側は家老西郷頼母の屋敷跡である。ここでは、お城の篭城の早鐘が鳴ったとき、妻の千恵子は夫の頼母と長男をお城に上げ、足手まといにならないようにと一族21人が自害して果てた悲劇の場所である。非戦闘員の死は白虎隊より悲劇である。

 妻の西郷千恵子は「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節の在りとこそきけ」という辞世を残して自害して果てた。(因みに白虎隊の唯一の生き残り飯沼貞吉は千恵子の甥に当たる。)死にきれずに苦しんでいるところに土佐藩士中島信行が踏みこみ「敵か見方か?」の問いに「味方だ」と答え介錯したという。この場面は東山温泉の入り口に在る「会津武家屋敷」に西郷邸が復元され、妻子が自害し、中島が介錯せんとする人形が置かれている。

 その娘二女の瀑布子(タキコ)が「手をとりて共に行きなば迷はじな」と詠み長女細布子(タエコ)が「いざたどらまし死出の山道」と詠み加えてはてている。

 天守閣の南東に見える小田山の下にある善龍寺に夫の頼母とともに葬られており、彼女の辞世が「なよ竹の碑」として建てられ、祀られている。

 ところが夫の西郷頼母は、もともと主戦派でなく講和派だったため、城内では浮いており、命の危険があったため、ひそかに場外に出され、その際刺客まで送られた。かれは函館の五稜郭で榎本武揚等と共に終戦を向かえるのである。因みに彼の息子が「姿三四郎」のモデルであるといわれている。

 私が会津に来てこの西郷頼母翁がこの会津を追われた人であるにもかかわらず、会津武家屋敷では彼の屋敷が復元され、いろんな刊行物で会津を案内するガイド役に借り出されたりしているのを見て奇異に思っていた。確かに西郷翁は身長が低く白いあご髭が七掴みもあったということでかなりキュートなおじいちゃんで、家族の悲劇と相俟って生き残った家老の中では最も有名な人である。とはいえ刺客まで送って追い出した人が会津を代表する顔になっている。この疑問を市史編集の野口真一氏に「西郷翁は会津では復権したのですか。」とぶつけたところ「復権なんてしていませんけど、ここ10年ほど突然いろんなところに使われる様になってきましたね。」と笑って答えられた。現在彼が編集している会津を紹介するビデオのガイド役も西郷翁なのである。

 この西郷邸と向かいにある裁判所の白露庭という庭園の間の通りは、会津戦争の降伏式の行われたところである。この通りに緋毛氈(ヒモウセン)が敷かれ、正面の参謀の土佐藩士板垣退助とその脇の軍監である薩摩藩士中村半次郎(若い頃は「人切り半次郎」と呼ばれ、10年後、西郷隆盛の片腕として実質的に西南戦争の指揮をした「桐野利明」である。)に対して会津中将松平容保公が降伏状を手渡す場面が錦絵に残っている。

 これは会津藩士にとっては屈辱であり、この屈辱を忘れまいと秋月悌次郎が細く切って生き残った藩士に渡したという。これを「泣血氈(キュウケツセン)」といわれている。

 中村半次郎はこの際、武運尽きた敗軍の将松平容保公に対して一人だけ頭を下げ、武士としての礼節を尽くしたのがこの場面の美談として残っている。

 裁判所の前の通りを西に進むと若松女子高の交差点がある。この交差点を渡った左側に「山鹿素行誕生の地」という碑がある。江戸時代の兵学者で「聖教要録」を書いて江戸幕府の朱子学を批判した為、赤穂に流される。それが縁で赤穂藩は山鹿素行の考え方に傾倒していく。そして四十七士の討ち入りに際しては、大石蔵之助が山鹿流陣太鼓を打ち吉良邸に討ち入っていくのはあまりにも有名である。その裏が会津武士を育てた「日新館」の跡である。日本水泳連盟の公認する日本最古の水練場(プール)を備えていたとされ、現在では北隣の河東町の高台に再現されて観光の目玉になっている。

 鶴ヶ城は現在会津若松市の所有となっているが、これには会津藩士の七十七銀行の初代頭取遠藤敬止が私財を投じて跡地を競売で落札し、旧藩主松平家に献納し、松平家がこれを若松市に売却したというのが定説であった。

 ところが、明治政府が明治23年に松平容大(容保公の長男)に対して発行した領収書が出てきた為、松平家が国から2,000円(現在の約4000万円)で払い下げを受け、それを何倍もの価格で若松市(会津若松市になるのは昭和30年である。)に転売したという疑惑が浮上している。転売価格は約30,000円であるが、若松市は10年の分割で金利込み合計3万8851円を支払ったという。約三割の高利である。当時の松平家は江戸に向かう路銀にすら事欠く有り様で、この払い下げをうける財力はなく、誰かが援助したのであろうが、「土地ころがし」であり財テクをしたというものである。どちらにしても松平家が大もうけしていることには違いないから大差はない。

 となると、北出丸に大手門を入ったところに在る「鶴ヶ城城址保存の恩人遠藤敬止」の碑はいかなる意味を持ってくるのか。実際のところ松平家に援助したのは彼に違いないと思うのだがどうだろうか。


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